ルカによる福音書6章46~49節

わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。           ルカ6章47-48節

  ルカによる福音書6章20節以下には、イエス様が語られた説教が記されています。この説教は17節に「そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、…」 とあってその後に語られていることから、「平地の説教」と呼ばれています。今回の個所は、その説教の最後の部分です。主イエスは、「岩の上に立てた家」のたとえ話を語られます。このたとえを通して伝えようとされたことは…

本 論)A.主の言葉を聞いて行う者
 私たちは46節で言われているように、イエス様に向かって「主よ、主よ」と呼びながら主の語られることを行うことがなかなかできない者です。「敵を愛しなさい」という一つのことをとってもそうです。
私たちの信仰と行いをどう考えるかは大きな問題です。救われるためには行いが伴わないといけないのか。イエス様と同じ行いをしないといけないのだろうか等々。
使徒パウロが書いたエペソ人への手紙では、人間の功績や行いによってではなく、ただ神の恵みと信仰によって救われると告げています。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あ
なたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではな
い。それは、だれも誇ることがないためなのである。」
(エペソ2章8-9節 p.302)

主の十字架の愛が私たちに迫ってくるとき、私たちはその愛に応えて生きたいと願いがおこされます。その主への愛が信仰による行いとなって現れてくるのです。そして、その行いはみ言葉と深くかかわっているのです。
イエス様は、「主の言葉を聞いて行う者」を次のようにたとえて語られます。「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。…」(48)
今、私たちが読んでいる聖書のもとの言葉で書かれているギリシヤ語聖書を見ますと、ここで言われている家を建てることは、次の三つの行為からなされることが示されています。それは、土を掘ること、深くすること、土台を据えることの三つです。しっかりと家を建てる人は、この三つを行うと語っておられます。逆にすぐ倒れてしまう家は、これらの三つことをしないでいきなり建てられています。二つの家の違いは何でしょうか。それは、岩に触れているかどうかです。いきなり家を建てるのではなく、まずはそこを掘り下げてみる。そうするとそこに岩があった。その上に土台を据える。そして家を建てます。手間はかかるかもしれませんが、後に大きな違いが生じることになります。見た目はどちらも同じです。違うのは人の目には見えない家の下の部分です。二つの家の違いが目に見える形で表れるのは、その家が災害に遭ったときです。「洪水が出て激流がその家に押し寄せて」(48)、来たときも、土台の上にしっかり建ててあった家は「揺り動かすことはできない」(48)のです。しかし、土台なしで直接、地面に建てられた家は「たちまち倒れてしまい、その被害は大きい」(49)のです。
ここで言われている、家が倒れる、倒れないかの違いは、家自体の強さにかかっているのではありません。岩の上に土台をすえているかどうかです。私たち自身が岩になりなさい、どんなことがあっても揺るがない建物になりなさい、とイエス様は言われているのではありません。そうではなくて、地を深く掘り、岩の上に自分の家を建てなさい、と 言っておられます。
私たちが、真の神様を知らず、イエス様のことを知らずに罪の中に生きていたときは、私たちは、まだ岩の上に土台をすえてはいませんでした。でも、聖書のみ言葉に触れ、真の神様がおられることを知り、イエス様を救い主と信じた私たちは、イエス様を土台とした人生を歩んでいる者です。

B. イエス様が私たちの人生の土台
  キリスト以外のもの、お金、地位、名誉等を土台としても、それらを土台とした家は、世の嵐がくると倒れ流されてしまいます。キリストだけが揺るがない土台です。  二つの家、両方とも洪水に襲われます。キリスト者になったからと言って、「洪水に襲われること」がなくなるわけではありません。しかし、そのようなときにも私たちの足元には岩があります。私たちの家(人生)は、岩なるキリストの上に土台をすえています。試練に襲われるときも、神様にお祈りする、自分だけでなく、教会の人たちにも祈ってもらう、それもキリストを土台としている者ができることです。私たちの家は倒れることがありません。
ここでは、私たちの人生の営みも、家を建てることにたとえられていると受け止めることができます。人生の晩年に、自分の人生を振り返って、岩の上にしっかりと家を建てることができた、洪水に襲われたこともたびたびあったけれども、しっかり最後までたつことができました、と主に感謝できる人生を歩むことが私たちの願いです。そして、それは与えられるのです。岩の上に土台をすえていれば、洪水にも嵐にも耐えることができます。なぜなら、それは、生ける神の御子、主イエスが私たちを支え、助けて下さるからです。
キリストを土台としている人が、「わたしのもとに来てわたしの言葉を聞いて行う者」(47)です。それができる人とは言われていません。イエス様のところに行って、主の言葉を聞き、それを完全にはできなくても御霊の助けを求め、祈りながら従って行こうとする人です。救われたことを神様に感謝し、神の言葉を聞き続ける人です。

結論)イエス様は、私たちの人生における土台だけではありません。イエス様はその先も、私たちの土台となって下さいます。私たちが生きるときも死ぬときも、私たちの土台は岩なる主イエス・キリストです。
使徒パウロもコリント人への第一の手紙の中で次のように告げています。

「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできな
い。そして、この土台はイエス・キリストである。」
(Ⅰコリント3章11節 p.259)

マザー・テレサは次のような言葉を残しています。「私たちは大きなことはできません。小さなことを大きな愛でするだけです。」大きな愛とは神様の大きな愛の中でとい う意味です。私たちも、キリストを土台とし、大きな愛のもとで小さなことを続けていきましょう。

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