ルカによる福音書7章18~23節

「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています。」                ルカ7章13節

  イエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネは領主ヘロデによって投獄されました。その理由を聖書は次のように告げます。「ところが領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、 彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた。」(3章19-20節 p.88) ヨハネは、ヘロデの建設した、マカイロスの砦と呼ばれていた所に幽閉されていました。そこからヨハネは自分の弟子たちをイエス様のもとに使いに出します。ヨハネの問いとそれに対してイエス様が言われたことは…

本 論)A.ヨハネの問い

二人の弟子は、ヨハネの問いを次のように伝えます。「『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(13)、と。「来たるべき方」というのは、お出でになることになっている方、旧約聖書が預言していた救い主のことです。 ヨハネは、牢に閉じ込められ、イエス様が本当に救い主なのかという疑いを抱くようになり、このように弟子たちに尋ねさせたのでした。牢に閉じ込めれて、明日、自分の命がどうなるか分からない身です。実際にヨハネはこのあと、首をはねられて殺されてしまいます。そんなヨハネにとってこの問いは、切実なものでした。彼は獄中で主イエスが病気の人を癒したり、死んでしまった人をよみがえらされたことを聞いたのです。
イエス様がそのような素晴らしい働きをしておられることを知ることによって、彼の心の中でかえって一つの問いが大きくなっていきました。それはこのような大きな力を持っている方である主イエスが、それではこの今の自分に対しては何をして下さるのだろうか、という問いです。
かつて洗礼者ヨハネは、イエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章24節 p.136)と証ししました。しかし、そうであるとしたら、その救い主イエス様は、今牢獄に捕らえられ、いつ殺されるかわからない日々を送っているこの自分に対しては何をして下さるのだろうか、どのような救いをこの自分に与えてくださるのだろうかという問いでした。そして、救い主、メシアはユダヤの国を軍事的な力によってローマの支配から解放して下さる勝利の王であるという当時の人たちが抱いていたメシアのイメージからヨハネも完全には抜け出せていなかったかもしれません。
しかし、実際に来られたイエス様は、すべての人を罪から救うために、苦難と十字架の道を歩まれる「しもべとしてのメシア」でした。私たちは、聖書を通して、主イエスこそ私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった救い主であるという知らせを聞いています。私たちは直接イエス様にお会いしたわけではなく、その話を伝え聞いているのみです。ヨハネも、少なくとも伝道のお働きを始められてからの主イエスには会っていません。弟子たちを通してその話を伝え聞いただけです。そういう意味で獄中のヨハネと私たちには、ある共通点があります。そして私たちもある意味でヨハネと同じ問いを持ちます。イエス様は、この私に何をして下さるのだろうか、この私が今苦しんでい ること、抱えている問題、背負っている悲しみに対してどんな救いを与えて下さるのだろうか。人々のための救い主であっても、この私が今切実に苦しんでいる事柄において、 救いを与えて下さらないならば、私の救い主と言えないのではないか、イエス様、あなたは本当に私の救い主なのですか、このような問いを私たちも抱いたり、信仰が動揺することがときにはあるのではないでしょうか。

B.さいわいへの招き
    イエス様は、ヨハネの問いに、22-23節のように答えられます。これはイザヤ書35章5-6節や61章1節の 預言の成就でもありました。
「その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は 聞こえるようになる。その
時、足の不自由な人は、しかの ように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌
う。」       (イザヤ35章5-6節  p.990)

「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに 油を注いで、貧しい者に福
音を宣べ伝えることをゆだね、わたしを遣わして心のいためる者をいやし、…」
(イザヤ61章1節 p.1033)
イエス様は、二人のヨハネの弟子に、貧しい人、苦しみや悲しみ、弱さの中にいる人たちが、福音を告げ知らされその事実を体験していることをありのままに示され、それをヨハネに報告しなさいと言われました。そして、「わたしにつまづかない者は、さいわいである。」と言われます。これは、私たちへの問いかけであると同時に信じる者は「さいわいである」という祝福の言葉でもあります。イエス様が成し遂げて下さったことの中に自分の救いがあることを信じ、受け入れる者はさいわいだという意味です。イエス様の十字架と復活において、私たちに対する神様の救いが、私たちを罪と死の支配から解放し、神の子として新しく生かして下さる恵みが実現しているのです。

結論)
イエス様がなして下さった救いは、私たちがこの世の歩みにおいて体験する様々な苦しみ悲しみを乗り越える力を与えるものです。人間の力ではどうすることもできない困難、行き詰まり、挫折の中で主イエスは私たちを支え、生かし、希望を与えて下さいます。その希望は、この地上の人生を越える、永遠の命の希望です。ヨハネは、弟子から伝え聞いた主イエスのみ言葉によってつまずきを乗り越えることができたことでしょう。やはりこのお方は「きたるべき方」であった、このお方をお迎えする道備えをし、救い主と証しさせていただく者とされたことはどれほどの感謝と恵みであったかと、自分の生涯を振り返って、平安の中で最期を迎えたことでしょう。
私たちも、聖書のみ言葉、イエス様のみ言葉によって、唯一の確かなお方が示されています。たとえ疑うことがあったとしても、み言葉を通して繰り返し、繰り返し、何度でも、私たちは救いの原点である主イエス・キリストに立ち返ることができるのです。そして、死を打ち破りよみがえられ、今も生きて働かれる主イエスによって、この世のいかなる苦しみ悲しみによっても失われることのない、死の力にさえも打ち勝つまことの幸いへと招かれているのです。

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