マタイによる福音書章11章28~30節

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。」
   マタイ11章28節

序 論)イエス様は弟子たちと共に、ユダヤの町々を回り福音を伝えられました。多くの人々は、イエス様のお話を聞いても悔い改めませんでした(11章21節)。宗教指導者たちは、洗礼者ヨハネやイエス様に反発し、非難しました(11章19節)。
そのような中でも、イエス様を信じる人たちが起こされ、イエス様は、父なる神様に感謝の祈りをささげられます。その後、人々に語られた言葉は…

本 論)1.わたしのもとに来なさい
     律法によって自分の罪を自覚し、罪の重荷に苦しんでいる人々に対して、イエス様は
「わたしのもとに来なさい。…」(28)と招かれました。イエス様は、約2000年前に、この地上に生きられた方です。でも、今は、目に見える姿で地上におられるわけではありません。聖書は、キリストは十字架にかかられて死に、三日目に復活し、40日後に天に昇られ、今は天におられると語っています。では、どうしたら私たちはこのイエス様のもとに行くことができるのでしょう。このマタイの福音書の一番最後のところで、イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(28章20節 p.50)と約束して下さいました。天に昇られ、父なる神様から天と地の権威を与えられた イエス様は、聖霊によっていつも私たちと共にいて下さいます。聖書のみ言葉を求め、
イエス様に心を向け、父なる神様に祈るとき、私たちはイエス様のもとに行っているのです。 私たちは、いろいろな場所に行ったり、気晴らしによって罪の重荷から解放されよとし、心の疲れを癒そうとします。しかし、それらは一時的なものです。イエス様のもとに行くことだけが、罪から解放される道です。十字架にかかり、復活されたイエス様だけが、「罪を赦す権威」を持っておられます。イエス様に罪を告白し、罪の赦しをいただくとき、罪の重荷と心の疲れがぬぐい去られます。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネの第一の手紙1章9節 p.376)

2.わたしに学びなさい
  わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。」(29節)
  キリストの謙遜とは、神が私たち人間のために、天の栄光を捨ててこの地上に降られ、私たちと同じ人間になって下さったことです。そしてこの柔和さも謙遜も、一つのことに集約しています。それは主イエスの十字架の死です。イエス様は私たちの罪をご自分の身に背負って、私たちたちの身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さいました。このキリストの謙遜によって、私たちは罪を赦されて新しく生きることができるのです。
「くびき」は二頭の家畜を並べてつなぎ、農作業をさせる時に使われる道具です。「わたし(イエス様)のくびきを負う」とは、イエス様と共に歩んでいくことです。そして「わたしに(イエス様)に学ぶ」とは、イエス様をお手本として、みならって生きることです。聖書のみ言葉から、主イエスに学びましょう。柔和で謙遜なお方である、イエス・キリストと共に歩むところには、まことの安らぎがあります。主と共に歩むとき私たちに本当の休みが与えられ、リフレッシュされて、自分に委ねられている荷をしっかりと負って生きていく新しい力を与えられます。
イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(30)と言われます。主イエスは、私より先に、くびきを負い、重荷を負って十字架への道を歩んで下さいました。イエス様と共に負うから私たちの荷は軽いのです。主が共に負って下さるから、私たちの方に重くのしかかっている荷が軽くなります。あるいはキリストが私たちの重荷を取り除いて下さり、代わりに軽い荷を背負わせて下さいます。
私たちの方から重荷がなくなってしまうわけではありません。くびきを負うからには、自分の思い通りに生きるわけにはいかないのです。イエス・キリストを信じ、従って いく信仰の歩みは、確かにあるくびきを負い、荷を負って歩むことです。しかし、それは負いやすいくびき、軽い荷です。逆に私たちがキリストのくびきを負うことを拒み、あくまでも、自分の思い通りに生きようとすると、そこでは自分の人生の全ての荷を自分一人で背負うことになってしまいます。そこにあるのは、疲れ果て、重荷にあえぎつつ、しかも休むこともできないという歩みになるのではないでしょうか。
イエス様は、私たちの重荷を共に担うことを願っておられます。重荷をイエス様のもとにおろし、休んでからイエス様と共に歩んでいきましょう。

結論)  「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
イエス様は今も、私たちにこう呼びかけ、招いておられます。主イエスのもとに行って、まことのやすらぎと平安をいただきましょう。主イエスに学ぶ、すなわち主イエスと共に歩むことは、教会において礼拝を守り、日々聖書を通して主イエスのみ言葉を常に新たに聞きながら、それに従って生活することです。そして礼拝は、私たちが、柔和で謙遜なお方であるイエス様とお出会いする場です。そこで私たちはキリストから学ぶ弟子となって共に歩みます。主イエスと共に歩むところにこそ、まことの安らぎがあります。 日々の生活の中で様々な重荷を負ってあえいでいる私たちであり、この世界ですが、その中で私たちは礼拝を守りつつ、主イエスに学び共に歩んでまいりましょう。

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ルカによる福音書9章43b~50節

「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。…」 ルカ9章48節

序 論)イエス様は、弟子たちに二度目の受難予告をされます(44)(一度目は9章21-22
節)。しかし、彼らにはその意味が理解できませんでした。さらに、彼らは主イエスに対する無理解を示してしまいます(46、49)。
主イエスが彼らに言われたことは…

本 論)1.いちばん小さい者こそ…
弟子たちの間で、自分たちのうち誰が一番偉いか、という議論が起こりました。イエス様は、「彼らの心の思いを見抜き」、一人の幼な子をご自分のそばに立たせられました。  当時の社会では、「幼な子」、「子ども」は、今のように価値ある大切な存在ではなく、無価値な、一人の人間として受け入れるに足りない、軽んじられる存在だと思われていました。主イエスは、弟子たちに、無価値な存在として軽んじられている者を受け入れることを求められました。(48)  それが主イエスを受け入れることであり、主イエスをお遣わしになった父なる神様を受け入れることになるのです。誰が一番偉いか、誰が重んじられ、中心となるべきか、という争いが起こって来る原因には、小さな一人の人を受け入れようとしない思いがあります。弟子たちの、そして私たちの心の中に、共に歩んでいる人たちの中に序列をつけ、ある人は受け入れ、ある人は受け入れようとしない、という思いがある限り、「誰が一番偉いか」という議論は際限なく起こってきます。イエス様は、軽んじられている子供を受け入れることを求めることによって、この議論の背後にある私たちの心の根本的な問題に気づかせようとしておられるのです。
「いちばん小さい者」(48)とは「幼な子」に代表される、小さな、軽んじられているような人のことです。そういう人を受け入れ、仲間として大切にすることを主イエスは求めておられます。その人が「大きい」とは、最も小さい者こそ受け入れられ、重んじられるべきなのです。主イエスのこの教えを受けて、弟子たちがそして私たちが取るべき道は、最も偉い者になろうとすることではなくて、最も小さい者を受け入れる者となることです。
イエス様は、ただ小さな者を受け入れなさいと言われたのではなく、「わたしの名のゆえに」と言われました。この言葉は、44節の受難予告でなされた「主の十字架の死」と関連付けて語られています。人々の手に渡され、苦しみを受け、十字架につけられて死なれるお方、主イエスに従い、弟子として歩む道は、主イエスの名のゆえに小さな、軽んじられているような人々を受け入れる道でもあります。

なぜなら、主イエスが受けて下さった苦しみと十字架の死は、神様が、まさに受け入れ難い罪人である私たちを受け入れて下さった出来事だからです。私たちはかつて神様に背き逆らい、その御名を汚している者でした。私たちは、無価値な、受け入れるに足りない者として、神様に軽んじられ、捨てられても当然の者でした。しかし神様はそのような私たちを愛して下さり、私たちの罪を赦し、ご自分の子として下さるために、独り子イエス様を遣わして下さいました。そして主の十字架の死と復活によって私たちを受け入れて下さったのです。その主イエスのよる罪の赦しの恵みを受け、主イエスに従っていくのがキリスト者です。私たちの歩みは、主イエスのみ名のゆえに小さな、軽んじられ、軽蔑されているような人を受け入れ、仲間として大切にするという歩みです。

2.あなたがたに反対しない者は…
  弟子のヨハネは主イエスの名によって悪霊を追い出している人を見ました。しかし、彼はその人が「わたしたちの仲間でないので」その業をやめさせました。自分たちと一 緒に行動しないことが許せなかったのです。しかし、主イエスは、ヨハネをたしなめて、「やめさせないがよい。…」(50)と言われました。私たちも自らの信仰の良心に基づいて主イエスに従っている人たちの歩みに対して、それは間違っているとか、あれはキリストに従っていない、などと言って反対してはいけません。私たちとは違う仕方でキリストに従っている人々の存在を私たちは認め、受け入れるべきです。2000年の教会の歴史に比べれば短いですが約160年の日本のプロテスタント宣教においても、様々な教派が生まれ、多くのキリスト教に基づく学校が建てられ、信仰に基づく様々な社会事業が行われてきました。それらは幅広い影響を日本の社会に与えています。それらはどれも、それぞれ違った仕方で主イエスに従い、そのみ栄えを現している働きです。
46節には弟子たちの高ぶりの罪、49節には他の人の在り方を受け入れない彼らの狭量が現れています。イエス様は「主の名によって」歩む者同士の分派抗争を厳しく戒められたのです。

結論)キリストが伝えられ、福音の前進に役立つこと、御国の拡大につながる働き、奉仕、活動をしている限り、私たちは互いの違いを認めあい、協力していくことが必要です。私たちはそれぞれが、神様の恵みに応え、自分の信仰の良心に基づいて、神様が自分に与えて下さったと信じる働きを担い、行っていきます。私のあり方と人のあり方は違うということが当然そこには起こってきます。そこで、どちらがより大事だとか、重んじられるべきだという序列をつけ始めるなら、「だれが一番偉いだろうか」という思いに支配されていきます。
イエス様が弟子たちに、そして私たちに求めておられるのは、自分とは違う仕方で
主イエスに従い、仕えている人の存在を受け入れることです。「反対しない者は味方である」というみ言葉を心に留めましょう。その根本にあるのは、私たちは十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さった主イエスを信じ、従う者だということです。受け入れ難い罪人であった私たちを受け入れて下さった神様の恵みに生きる私たちは、同じ主イエスによって神様が受け入れて下さった人々を、受け入れて、大切な仲間として共に歩むのです。

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ヨハネによる福音書14章15~21節

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」   ヨハネ14章16節

序 論)ヨハネ14章は、イエス様が十字架にかかられる前日、木曜日の夜に弟子たちに語られた言葉が記されています。今回の個所では、イエス様は聖霊について語られます。聖霊は…

本 論)1.私たちと共にいてくださる
        イエス様は弟子たちに聖霊を与えると約束されました。「助け主」(16)(「弁護者」新共同訳)は聖霊のことです。「傍らで呼ぶ」が元の言葉の元来の意味です。
私たちがどう祈ったらよいのか分からないときに代わりにとりなし、祈って下さる方。そのとき、聖霊は私たちの「弁護者」です。
私たちがどの道に進むべきか迷ってしまった、八方ふさがりになったとき、私たちを助け、励ます言葉を告げて下さる。そのときは、「助け主」となって下さいます。
また私たちが苦しみや悲しみの中にいるとき、私たちに慰めの言葉をかけて下さる。そのとき、聖霊は「慰め主」です。私たちが道を逸れそうになったり、間違ったことをしているときは、それを示して下さる方でもあります。これらはすべて聖霊の働きです。
主イエスは、「もうひとりの助け主」(16 新改訳)について何度も語られました。(14章26節 p.166 、15章26節16章7節 p.168)  「助け主」(Ⅰヨハネ2章1節 p376)であるイエス様は間もなく去って行かれます。しかし聖霊が来て下さいます。そして、このお方は、「いつまでもわたしたちと共に」いて下さるのです(16)。
主イエスは、聖霊を「真理の御霊」(17)とも呼ばれました。その真理の御霊なるお方が私たちと共にいて下さいます。「世」(主イエスを信じない人たち)は、聖霊を「見よう とも知ろうとも」しません。(17) かつての私たちもそうでした。聖書に書かれていることも、自分には関係のないことだと思っていました。しかし、今は、神様が聖書を通して、自分に語りかけて下さっていると信じて読んでいます。なぜ、そのように変えられたのでしょうか。それは聖霊のお働きによってです。
聖霊によって、私たちは、「イエスは主である」と告白しました。 (Ⅰコリント12章3節 p.270) そして聖霊によって聖書の言葉は、神の言葉として私たちに与えられます。
「私は…。あなたがたのところに帰って来る。」(18)と弟子たちに約束されたように、イエス様は十字架にかかられ死なれた後、復活されて彼らを訪ねて来て下さいました。それから50日後、ペンテコステの日に、聖霊が降りました。「助け主」なる聖霊が弟子たちのもとに来て下さったのです。  旧約時代のユダヤの王ダビデは「御前からわたしを斥けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」と祈りました。(本日の交読詩篇51篇13節 讃美歌21  p.56)   旧約時代、聖霊は神に選ばれた一部の人たちにだけ注がれ、ときには取り去られることもありました。しかし、ペンテコステ以降、聖霊はすべての人に注がれ主イエスを信じる私たちといつまでも共にいて下さるのです。

2.私たちの内に生きて下さる
  ペンテコステの日に、ペテロは人々に説教をしました。(使徒行伝2章14-36節 p.182)「…あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。」(使徒2章23-24)「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである。」(使徒2章33節)
聖霊に満たされたペテロは、ユダヤの人たち、そして礼拝のためにエルサレムに世界中から集まっていた人々に福音を語り、イエス様を十字架につけた人々の罪を厳しく指摘しました。そして、主イエスの十字架と復活を力強く証ししたのです。人々は、強く心を刺され、悔い改めました。イエス様を救い主と信じた3000人が洗礼(バプテスマ)を受けました。ペンテコステの日は世界で最初の教会の誕生の日でもありました。 (使徒2章37-42節 p.183)ペンテコステ以降は、イエス様が約束された聖霊が与えられる「聖霊の時代」であり、「恵みの時代」です。主イエスを信じる者の内に聖霊は住んで下さり、共に生きて下さっています。そして、聖霊によって、父なる神、御子イエス様が内にいて下さいます。(19-20節) 「弁護者」、「助け主」、「慰め主」なる聖霊が私たちの内におられ、私たちの歩みのすべてを導いて下さるのです。結論)ペンテコステ以降、私たちは父なる神、御子なる神聖霊なる神(三位一体の神)に導かれ、主イエスを信じる者とされました。洗礼も「父、子、聖霊の御名」によって受けました。 (マタイによる福音書28章19節 p.50) 私たちは、もはや「孤児(神なき者)」ではないのです。どんなときも、聖霊によって主イエスが共にいて下さいます。そして、神と主イエスから愛されている私たちはそのご愛を知って、神を愛し、人を愛する者へと造り変えられ、成長していくのです。

ハイデルベルク信仰問答問い1
生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは   何ですか。
答え わたしたちがわたし自身のものではなく、体も魂も生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方はご自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいまし  た。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまたご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生き  ることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。              (吉田隆牧師訳)

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ルカによる福音書9章37~43a節

イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。 マルコ9章23-24節(並行箇所)

序 論)山の上で主イエスが三人の弟子たちに栄光の御姿を示された翌日、主と三人の弟子たちが山を降りて来られました。すると山の麓では、別の出来事が起こっていました。主が言われ、なされたことは…

本 論)1.不信仰な、曲った世に主は来て下さった
   山麓では、他の九人の弟子たちが苦境に陥っていました。彼らは、霊につかれた子どもを癒せなかったのです(38 -40)。
父親の言葉を聞いた主イエスは、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。」(41)と嘆かれました。(申命記32章5節 p.294、民数記14章27節p.205 参照 イスラエルの不信に対する主なる神様の悲しみのお言葉)主イエスを信じて従って来たはずの弟子たちでさえも、不信仰に陥っていました。神様の力を祈り求めることをせず、自分の力で何かをすることができるような錯覚に陥り、結局、悪霊を追い出すことができませんでした。彼らの不信仰をも主イエスは嘆かれたのです。
「いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。」(41)という言葉を聞くとここで主イエスは弟子たちに対して愛想が尽きてしまわれたのだと受け止めてしまうかもしれません。でも原文を見ると「いつまで私はあなた方と共におり、あなたがたを我慢するのだろうか。」と単純な疑問文のみ言葉です。そしてその後、「あなたの子をここに連れてきなさい」と父親に言われ、弟子たちが癒すことのできなかった子どもを招かれました。イエス様は霊を叱り、追い出し、子どもを癒して父親にお返しになりました。これは、イエス様が弟子たちをお怒りになってなさったわざではありません。
つまり弟子たちの醜態、失敗の後始末を主イエスがなさって下さり、苦しみ、絶望の中にいたこの父親に救いの御手を差し伸べて、子どもを返して下さったのです。主がなされたことと上記のみ言葉の直訳を合わせて見つめるならば、主イエスがいつまで弟子たちと、そして私たちと共にいて下さり、どこまで私たちのことを忍耐して下さろうとしているのか、その答えがそこに見えてきます。イエス様は、このような失敗ばかりしてしまう弟子たちや私たちのことを、どこまでも忍耐して下さり、共にいて下さり、私たちの失敗や罪を覆って救いのみわざを行って下さるのです。私たちは自分の確かさや信仰ではなく、主イエスの確かさと真実によって支えられています。神様から心が離れ、心が神様に向かわない不信仰で曲がった「罪の世」から私たちを救うためにイエス様はこの地上に来て下さいました。主の十字架の死と復活による救いのみわざがなされた後にペテロは、人々に説教し、「この曲がった世から救われよ。」と語りました。(使徒行伝2章40節 p.182)神様は、今も私たちが悔い改めて神様に立ち返り、主イエスを信じて罪から救われることを願い忍耐しておられるのです。
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(Ⅱペテロの手紙3章9節 p.374)

2.小さな信仰をも主は受け止めて下さる
  「山上の栄光と山麓の悲惨」、このようなコントラスト(対比)を私たちも信仰の歩みの中で体験します。主の日の礼拝や 聖会、集会等の中で、神様の恵みに満たされるとき、私たちは変貌の山におけるペテロと同じように、この恵みのときがいつまでも続けばいいのに、と思います。(ルカ9章33節 p.102)  しかし、それらの集会からそれぞれの家に帰って日常の生活を始めると、そこで直面するのは、信仰者としての自分の無力さや現実です。私たちの信仰の生活は、変貌の山上の礼拝と、そこから降りて来る山麓の現実の間を行ったり来たりしつつ営まれていると言えます。
では、そのような現実の中で歩んでいる私たちの信仰を主イエスはどのように受け止めて下さるのでしょう。同じ山麓の出来事を告げるマルコによる福音書9章22-24節には、主イエスと父親のやりとりの言葉が告げられています。(p.66)
父親は、イエス様のみ言葉をいただいて、自分の不信仰を認め、さらに主に救いを求めていきました。私たちも日常の出来事や現実に左右され、すぐ疑ってしまったり不信 仰に陥りやすいものです。でも、その自分の信仰のなさや弱さを認めて、さらに主イエスに求めていくとき、主はさらに大きな恵みをもって応えて下さいます。私たちの「からし種」のような小さな信仰をも主は受け止め応えて下さいます。(マタイ17章20節 p.28)

結論)主イエスのみ言葉と聖霊によって、私たちは日々新たにされます。み言葉によって示されるのは、神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪をどこまでも背負って下さり、赦しの恵みによって私たちを支え、いつもでも共にいて下さることです。その恵みによって私たちは新しくされていきます。悔い改めとへりくだりの心をもってみ言葉を求めていくとき、神様はそれまで隠されていたみ言葉を私たちに示し与えて下さいます。そして詩篇の言葉が告げているように「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩篇119篇130節 新共同訳)み言葉が新たに示されるとき、私たちはその光に照らされ、人間の思いや力によってはとうてい得ることができない神様の確かな恵みを知り、その恵みの中を歩む者へと変えられていきます。

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ルカによる福音書9章18~36節

彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。 すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。 ルカ9: 34-35

序 論)イエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて山に登られました。主が祈っておられるとそこで、光輝くみ姿に変貌されました。この出来事が示していることと、神様が弟子たちに語られたことは…

本 論)1.主イエスの栄光の御姿
      ここで神様の独り子、救い主キリストとしての、主イエス本来の栄光が弟子たちに示されたのです。この栄光の御姿は、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになり、十字架で 死なれるに至る主イエスの地上の歩みにおいては隠されていました。しかしこの栄光に輝く御姿こそ、主イエスの本当の御姿です。このことが、一時、三人の弟子たちにのみ示されました。主イエスと共に、二人の人が同じく栄光に包まれて現れ、主と共に語り合っているのを弟子たちは見ました。その二人とはモーセとエリヤでした。モーセとエリヤは、それぞれ、旧約聖書の「律法」と「預言者」を代表する人たちで二人が主イエスの前に現れたことは、旧約の時代が終わり、新約の時代が始まることの表われでした。そして、主イエスと二人は、「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて」(31)話していました。「最後」と訳されているのは、「エクソドス」(英語では exodus)という言葉です。これは、「外へ出る、脱出」という意味です。「出エジプト記」のことを英語で「エクソダス」と言います。イエス様はエルサレムで、この「脱出」を成し遂げられました。それは、十字架の死と三日目の復活、そして天に昇られたことによってです。これらのことによって主イエスは、この地上を出て、父なる神様のもとへ帰られたのです。そして、そのことによって、私たちのための「出エジプト」、罪の奴隷状態からの解放、罪 の赦しによる救いのみ業を成し遂げて下さったのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いこそが、旧新約聖書全体の中心主題、聖書全体を貫いているテーマです。モーセの律法も、エリヤに代表される預言者も、この主イエスによる救いを指し示し、預言しているのです。私たちは、この主イエスの救い、福音を中心に旧約と新約聖書を読みます。

2.主イエスに目を向け、聞き従う
  ペテロは、栄光に輝く主イエスの御姿と、モーセとエリヤが主と共にいる、この素晴らしい出来事を、いつまでもここに留めておきたいと願ったのです。三人のために小屋 を三つ建てて、そこに入ってもらおう。そうすれば、これからも、人々が彼らの姿を見ることができると思いました。 (33節)しかし、栄光の御姿が雲に包まれていく中で、神様の御声が響きました。「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け。」(35) その御声が響いたとき、そこには主イエスだけがおられました(36)。つまり「これ」 というのは主イエスのことです。「主イエスこそわたしの子、選ばれた者だ。このイエスにこそ聞け。」と神様は仰たのです。ここに、「いったい、このかたはだれだろう。」(ルカ8章25節 p.99)という問いへの決定的な答えが、神様ご自身によって与えられました。主イエスこそ、栄光に輝く神の独り子、神様が選び、遣わして下さった救い主です。 主イエスの問いに答えてペテロが告白した信仰を、神様ご自身がその通りだと受け入れて下さったのです。(ルカ9章20節 p.102)
主の栄光に触れるために神様が私たちに求めておられるのは、「主イエスに聞きなさい。」ということです。イエス様の言われることだけを聞きなさいとも受け取れますし、 いつも主イエスの言葉を聞きなさいという意味も含まれています。
聖書を通して、主イエス・キリストに聞くこと、そのみ言葉に耳を傾け、従っていくこと、そのことの中でこそ、私たちは、主イエスとお出会いすることができるのです。  イエス様は、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから捨てられ、また殺され、三日目に復活された御方です。(22) その主イエスに聞き従うとき、私たちの歩みも、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従っていくことになります。(23)
主イエスに従って歩む信仰の人生は、決して祝福と喜びのみに満ちた栄光ある人生ではありません。しかし、主イエスに聞き従っていくことによって、私たちは、弱く罪深 い私たちをご自身の十字架の死によって赦し、神の民として新しく生かして下さるまことの救い主イエス様と新たに出会い、このお方と共に生きることができるのです。そし て、この信仰の歩みの後には、私たちにも栄光に輝く復活と永遠の命が約束されています。 変貌の山上で三人の弟子たちが垣間見た主イエスの栄光に輝く御姿は、その約束が確かであることを証ししているのです。

結論)ペテロはこのときの出来事を生涯忘れませんでした。(Ⅱペテロの手紙1章16-18 p.372)私たちはいろいろなことで悩んだり、心が苦しいときもありますが、そんなときこそ、神様に祈り、イエス様のみ言葉、聖書の言葉に耳を傾けるときを持ちましょう。主はみ言葉によって私たちを励まし、力を与えて下さいます。 「そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。」(8)とあるように、最後に残られたのは主イエスだけでした。私たちはイエス様から目を離さず、聞き従って歩みましょう。神様はイエス様を信じる私たち一人一人をも「わたしの愛する子」と呼んで下さっています。

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ルカによる福音書9章18~27節

彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。 ルカ9: 20

序 論)イエス様が弟子たちに、人々がご自身のことをだれと言っているかと尋ねられます。弟子たちの答えを聞いて、今度は弟子たちに、「…、あなたがたはわたしをだれと言うか。」(20)とお尋ねになりました。それに対してペテロが答えたことと主イエスが弟子たちに命じられたことは…

本 論)1.神のキリストです
  ペテロは、「神のキリストです」と信仰告白しました。これは、父なる神が遣わされた救い主という意味です。この信仰告白の前に、主イエスは一人で祈っておられました(18)。イエス様は、弟子たちに問う前に父なる神様に真剣に祈られ、準備をなさったのです。ペテロの信仰告白は、主イエスご自身のこのとりなしの祈りによって与えられたのです。マタイによる福音書では、次のように言われます。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」(マタイによる福音書16章17節 p.26)   私たちにおいてもそれは同じです。「あなたはわたしをだれと言うか」という主イエスの問いかけの背後には、主ご自身の私たちのためのとりなしの祈りと愛があるのです。そして父なる神様が、私たちを、イエス様に対して「あなたこそ、キリスト、私の救い主です。」という信仰告白にへと導いて下さいました。そして、「人の子」とは主イエスが、ご自分のことを語られるときに使われる言葉です。それは、神の御子が人となられたこと、そして、人となられたイエス様は、やがて、天に挙げられる(昇天される)栄光の主であることを示しています。
「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」   (ダニエル書7章13-14節 p.1254)
主イエスは、私たちのために多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて十字架につけられ、三日目に復活することを通して、救いを実現して下さるお方です。「神のキリスト」という言葉には、神様のご意志とご計画がこの主の受難と復活によって実現する、という意味も込められています。

2.日々自分の十字架を負って主に従う
  イエス様に対して、信仰告白した者は、主イエスに従う者とされます。自分を捨て、日々自分の十字架を背負っていくこと、それは大変なことだ、そんなこと自分にはとてもできそうにないと私たちは思うかもしれません。けれども主イエスは「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(24) と言われます。つまり自分を捨て、十字架を背負って主イエスに従うことは本当の意味で自分の命を救うことなのです。主に従うことを通して、私たちは主イエスの十字架の死によって自分の罪が赦されていることを知り、主イエスの復活によって自分にも死に勝利する新しい命の約束が与えられていることをさらに知っていきます。この新しい命を 得ることは、全世界を手に入れるよりも価値のあることなのです。主イエスは、「よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」(27)と仰いました。あなたがたの中には、生きている間に神の国を見ることができる者がいる、という主イエスの約束、祝福の言葉です。
私たちも、主イエスに従う歩みの中で、主の十字架と復活によって実現している神様の恵みのご支配、神の国を確かに見るのです。教会は神の国の雛形です。教会では神の言葉が語られ、それが聴かれています。神の国の姿がそこには映し出されています。聖餐の食卓は、神の国の食卓の象徴です。そして、同じ信仰に生かされている者が、共に神様に祈っています。この交わりにも神の国が見られます。
主イエスは、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17章21節 p.119)と言われました。私たちの間に、この教会に神の国がすでに実現しています。

結論)信仰告白した、バルヨナ・シモン(ペテロのもとの名前)に対して、イエス様は、こう言われます。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」     (マタイ16章18節 p.26)
イエス様を、キリスト(救い主)と信仰告白するその土台(岩)の上に教会を建てると主は言われました。そして、この岩は、キリストでもあります。(Ⅰコリント人への手紙3章10節  p.259 10章4節  p.267)この土台は決して揺らぐことはありません。
教会は主イエスを救い主と信じる者たちによって建てられていきます。十字架にかかられ、復活されたイエス様によって生かされている信仰者たちがここにいます。もはやそれ以前の古い自分ではなく、新しい人として生かされています。死を乗り越えることができる力がこのお方にはあるからです。その力をいただいて、私たちも、主イエスのために日々を歩みます。主イエスの十字架と復活によって、この世界も、教会も、私たちも新たにされていきます。

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ルカによる福音書9章7~17節

「イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。」 ルカ9: 16

序 論)領主ヘロデは、イエス様の行っておられる奇跡のことについて聞いたとき、当惑しました。彼はイエス様に会いたいと思いました。一方、主イエスは弟子たちを連れてベツサイダに行かれます。イエス様は…

本 論)1.5000人以上の人々に食物を与えられた
  イエス様は、み言葉を求め、病の癒しを求めてやって来た人々にみ言葉を語り、癒しをなさいました。やがて日が傾いてきたとき、弟子たちは、群衆を解散させて、それぞれ自分で夕食を確保させて下さいと言います(12)。彼らに対してイエス様は、「あなたがたの手で食物をやりなさい。」と仰いました。弟子たちは、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、…」と答えます(13)。
イエス様はそれらを手に取られ、「天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせ」なさいました(14)。「それを祝福してさき」は新共同訳聖書では、「それらのために賛美の祈りを唱え」と訳されています。
イエス様は、日々の食物を与えて下さる、父なる神様を讃美し、感謝の祈りをささげられたのです。(本日の交読文 詩篇136篇25-26節 p.870 を参照) (参考:英語の say a blessing は「食前の祈りをする」の意味)当時、この祈りをささげるのは、家長の役目です。ここでイエス様は、草の上に座ったイスラエルの人々の家長として天を仰ぎ、祈りをささげられたのです。
この後、イエス様は、5000人を超える人々の飢えを満たし、満腹にされるという恵みのみわざを行われました。
このとき、人々を組にして座らせたのも、パンと魚を配ったのも、後でパン屑を集めたのも弟子たちでした。このようにイエス様は弟子たちを用い、派遣し、みわざをなされていかれます。
初め、彼らが持っていたものは、小さく、わずかなものでありましたが、イエス様がそれらを多くの人々を養い、育んで下さる恵みの食物として下さいました。また彼ら自身は何の力もない者たちなのに、主イエスは彼らを多くの人々を養う恵みの食事の給仕者として用いて下さいました。弟子たちは、この奇跡のみわざを通して、イエス様が神の力を持ったお方であることを再度、知らされました。無限の供給者であるイエス様は、今も私たちを通して、恵みのみわざを行って下さいます。

2.すべての人のためにご自身を与えられた
  このパンの奇跡の後、イエス様を王にしようとする人々もいました(ヨハネ6章15節 p.145) しかし、イエス様は山に退かれます。イエス様が本当に与えようと願っておられたものは食物のパンではありませんでした。パンと魚を「さき、」(16)の個所から、故小島伊助師は、『さき』て与えては、一年後の予表ともなる。」と霊想しておられます。このときから一年後、エルサレムにおられたイエス様は、十字架にかかられます。そして、ご自分の御体が、十字架の上で裂かれました。神様の御子イエス・キリストは、私たちを罪から救い、永遠の命に生かすためにご自身をささげて下さったのです。
イエス様は「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネによる福音書6章35節p.146)と言われ、ご自身をパンにたとえられました。ベツサイダの奇跡のパン以上のパン、罪の中に死んでいた者を生かして下さる「命のパン」であるお方が、このとき、地上に来られ、人々の目の前におられたのです。しかし、そのことに気づいた人はごくわずかな人たちでした。
イエス様は、今も私たちがご自身を信じ、心に受け入れることを願っておられます。聖餐式でパンとぶどう酒(汁)をいただくことは、イエス様を信じ、心に受け入れ、罪赦され、永遠の命に生かされている恵みをさらに覚えるときです。
「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。 」(ヨハネ6章53-54節 p.146)

結論)先に登場したヘロデは、聖書の中で「罪人の代表」とも言える人物の一人です。「この人は、いったい、だれなのだろう。」(「いったい、何者だろう。」(新共同訳))という問いと、「イエスに会ってみよう」と言う願い(9)は、私たちの問いでもあり、願いでもあります。私たちは真の神様に出会い、イエス様を知るまでは本当に心が満たされるということがありません。私たちは、今、聖書を通して、「主イエスとは何者か」、「どのようなお方か」を知ることができるのです。
弟子たちは、イエス様とお出会いし、従う者となり、主イエスと共に歩みました。その中でいろいろな失敗や間違いを犯すようなことがあっても、それらを赦し、正してくださり、さらに支えて下さる主のご愛を示されました。そして彼らの信仰は強められ、成長していきました。イエス様を信じ、従っていく信仰の歩みの中で、私たちも同じことを体験していきます。その体験の中で、イエス様はどのようなお方かをさらに深く示され、このお方によって養われ、育まれ、支えられていることを深く知っていきます。
主イエスのご愛と恵みをさらに深く知らせていただきましょう。

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ヨハネによる福音書21章15~23節

「イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。
…イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。」
                ヨハネ21: 17

序 論)復活されたイエス様は、ガリラヤ湖畔で、弟子たちといっしょに食事をされました。その後、イエス様は弟子のペテロに語りかけられました。そして、ペテロはどのように応えたのでしょう。

本 論)1.わたしを愛するか
  イエス様は、ペテロに、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか。」と尋ねられました。以前のペテロは、弟子たちの中で自分が一番、主イエスを愛していると自負し、そのことを誇っていました。 (マタイによる福音書26章33節 p.44ヨハネによる福音書13章37節 p.164)
しかし、イエス様が捕らえられたとき、ペテロは三度も主を知らないと否定してしまいます。絶望の中で、苦しんでいたペテロを立ち直らせるために三度、「わたしを愛するか」と問われました。ペテロはこう答えました。「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です。」(15) 以前のペテロとは違い、遠回しな答え方です。では、彼はなぜ、「はい、愛します。」と答えることができなかったのでしょう。それは以前、イエス様に「どんなことがあっても従います。」と自信を持って告白したのに、いとも簡単に否定してしまったからでした。かつてのように「はい、自分は他の仲間たち以上に、あなたを愛します。」と宣言することは到底できなかったのです。
けれども、ペテロのイエス様を愛するという思いが偽りでないこともまた事実でした。そんなペテロの正直で謙遜な思いをイエス様が、彼の内から引き出して下さったのです。
私たちも、時にはイエス様から心が離れたり、他の人をねたんだり、敵対する気持ちを持ってしまうことがあります。しかし、そのような罪をも赦し、私たちをもろもろの罪から解放するために主は十字架にかかって下さいました。自分の罪を示されたときは、神様の前に悔い改め、十字架にかかられたイエス様を仰ぎましょう。
次にイエス様は、ペテロに「わたしの羊を飼いなさい、養いなさい。」(15-17節)と言われました。かつて、イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のため に命を捨てる。」と言われました(ヨハネによる福音書10章11節 p.128) この言葉の通り、イエス様は羊である私たち一人一人を罪による滅びから救うために命を捨てられました。イエス様が弟子たちの羊飼いとなられたように、ぺテロたちも、教会に加わる人たちの「羊飼い」となりなさい、と言われました。
自らの失敗に打ちのめされたこととそれを謙虚に受け止め、そこから一方的なイエス様の愛と赦しによって回復させられ、立ち直ったこと。これらの経験を、ペテロが後に 教会に加えられる人たちに主への喜びと感謝をもって証ししたことでしょう。彼の証しは人々にとって大きな慰め、励ましとなりました。
教会の歴史は、ペテロや他の弟子たちによってイエス様の十字架と復活が証言され、罪の赦しと命の福音が語り継がれることによって造られてきました。そして、イエス様が「わたしの羊」と言われたように、教会に集められた私たちは、皆、イエス様に属する羊です。私たちは羊のように一人一人は弱い者です。ですから私たちは、教会に共に集い、礼拝し、聖書を読み、分かち合います。そうすることによって新たに主からの励ましや慰めをいただき、傷ついた心もいやされ強められて新たに出発することができます。このように私たちは共に主によって養われ、育まれていきます。

2.わたしに従いなさい
  イエス様を愛し、従って歩んで行こうとするペテロに対して、イエス様は「あなたの生涯には苦しいことが続く。そして最後には私と同じように刑場に連れていかれ、十字架にかけられる、そのようなことが待ち受けているのだ」と言われます。(18-19節)そして、それでも「わたしに従ってきなさい」と言われました。そのときペテロが振り返ると、イエス様の愛しておられた弟子、ヨハネが後からついてくるのを見ました。ペテロはヨハネのことが気になりました。「主よ、この人はどうなのですか。」 するとイエス様は、「… あなたは、わたしに従って来なさい。」と答えられました。弱かったペテロも、主イエスが共におられることによって変えられ、強められ、どんな逆境も主に信頼して乗り越え、死さえも恐れず進むことができました。ぺテロの最期は、十字架にかかっての殉教でした。イエス様と同じ十字架では申し訳ないと逆さ十字架にかかって死んだと伝えられています。
一方、ヨハネは長命でしたが、晩年はパトモス島に流刑となり苦難の生活を送ります。しかし、新約聖書の中のヨハネの福音書、手紙、ヨハネの黙示録を書き残し、これらの書によって神様とイエス様の愛と救いを多くの人に伝え励ましを与えてきました。
 ペテロはペテロに与えられた生涯を送り、ヨハネはヨハにふさわしい歩みをしたのです。私たちもそれぞれの役目や働きは違いますが、イエス様に従っていくとき、その人にふさわしい道に導かれ、それぞれの歩みを通して、神様はご自身の栄光を現されます。 

結論)ヨハネは、自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」(20)、と言いました。私たちも「イエス様が愛しておられる者」、「イエス様から愛されている者」です。そして、ペテロのように「罪赦された者」です。ペテロにはペテロに、ヨハネにはヨハネにふさわしく、イエス様がそれぞれに一対一で相対して下さったように、イエス様は私たちにもそうして下さっています。イエス様から示された道、与えられた道を歩んでまいりましょう。
私たち一人一人が「イエス様、あなたのご愛を感謝します。私はあなたを愛し、従います。」と告白して、主に委ねて歩み、主によって成長させていただきましょう。

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ヨハネによる福音書21章1~14節

「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。」ヨハネ21: 4

序 論)週の初めの日(日曜日)、復活されたイエス様は弟子たちの前にみ姿を現されました。弟子たちは、イエス様にお目にかかり、喜びました(20章20節)。その次の週の初めの日、主イエスはトマスにもみ姿を示されました(20章26-29節)。その後、彼らはガリラヤへ行きます。彼らに対してイエス様は…

本 論)1.先にガリラヤで待っておられた
     エルサレムにいた弟子たちは、女性の弟子たちから御使いの伝言を聞きます。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と。」(マルコによる福音書16章7節 p.81)
この後、彼らはガリラヤに向かいました。ガリラヤ湖に漁に出た弟子たちがまだ気づいていなかったときからイエス様は、彼らを待っておられ、近づいて来て下さっていました。彼らが一晩中、網を投げて漁をしても魚は一匹も取れませんでした。「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」(4) イエス様はいつから岸に立っておられたのでしょう。イエス様は、弟子たちが夜通し漁をしている間中、網を打っても打っても何も獲れないという虚しい作業をしているときも、ずっと立って見ておられたことでしょう。弟子たちが気づかないときから、イエス様は彼らを見守っておられました。夜が明け始めたとき、岸辺に立たれたイエス様が彼らに声をかけられました。「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう。」(6) 弟子たちがイエス様のお言葉通りにすると驚くほどたくさんの魚が獲れました。弟子たちはそのとき、以前の体験を思い出しました。(ルカによる福音書5章1-11節 p.91)ペテロにも「あの時と同じだ」という感覚がよみがえってきたことでしょう。ペテロはこの時、改めてイエス様と最初にお会いして召し出されたときの言葉を思い起こしました。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」(ルカ5章10節)  彼らはこの方が主イエスだとわかりました。イエス様に心を向けず、自分たちだけの力で獲ろうとしたとき、彼らは魚を一匹も獲ることができませんでした。しかしイエス様のみ言葉に素直に従ったとき、たくさんの魚が獲れました。私たちも日々の生活の中でイエス様との交わりを持たず、心の定まらない生活をし、自分の力だけで何とか頑張っていこうとしても、良い結果は生まれず、空回りしたり、疲れてしまうだけだったりします。イエス様に心を向け、信頼し、そのみ言葉に従っていくなら、その働きは良い実を結びます。

2.必要なものを備え、与えてくださる
  弟子たちが陸に上がってみると炭火がおこしてありました。イエス様が朝食の用意をして下さっていたのです。そして彼らのために用意された食事へと招いて下さいました(9-13)。このことは、イエス様は、弟子たちにいつも必要な養いを与えて下さる御方であることを示しています。主イエスは私たちに霊の養いだけでなく、心にも体にも必要な養いを与えて下さるのです。
日本に福音を伝えた宣教師たちも福音を伝えると同時に、医療・福祉・教育等の分野でも日本人のために大きな貢献をしました。私たちも地域の人たち、隣人との交わりの中で、福音を伝えると共に、たとえ小さな働きや奉仕であったとしても自分に与えられている賜物を生かし、自分が必要とされていることを、自分の出来る方法で提供していきましょう。この復活のイエス様との食事は、五千人の給食、最後の晩餐と共に、聖餐式の源流の一つと考えられます。最後の晩餐を共にした弟子たちが、イエス様とここでも食事をしました。そして、その後、教会で弟子たちは、聖餐にあずかる度に、復活の主がここに共にいて下さることを確認してきたのです。
復活されたイエス様が弟子たちに現れられたのは、これで三度目でした(14)。それは、弟子たちや私たちの信仰が弱く、もろいものであること、心が頑なであることを示しています。また、神様のご愛や恵みを忘れてしまいやすい者です。
イエス様は、そのような私たちに、主のご愛と恵みを示すために何度でもみ姿を現して下さいます。私たちの信仰の歩みは、何度も示されるイエス様の恵みの御業によって、 支えられ、導かれ、守れらていきます。イエス様に愛され、選ばれ、信仰を与えられた者は、この復活されたイエス様と共に生きるものであり、イエス様の愛と恵みを証しする者とされるのです。結論)イエス様が三度目に弟子たちにご自分を現わされたのはかつて彼らが慣れ親しんでいた場所であり、漁をしていた場所でした。
イエス様は彼らの日常の生活の場にご自分の姿を現して下さいました。今、聖霊なる神の御力とお働きによってイエス様は、いつもどんなときも私たちと共にいて下さいます。この地上だけでなく、天の御国に移されてもずっと一緒にいて下さいます。
イエス様は弟子たちと一緒に食事をされました。食事は私たちにとって日常のごくありふれた光景の一つです。そして食事はリラックスした語らいのときでもあります。
 ヨハネの黙示録3章20節でイエス様は「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(p.390)と約束しておられます。ここで「彼と食を共にする」というのは最も親しい関り、交わりを示す表現です。
イエス様は、私たちと共に食事をして下さる方、私たちの日常生活の中で、親しく共に交わり、共に歩んで下さる御方です。イエス様が弟子たちをもてなして下さったように、私たちを養い、霊的に成長させて下さいます。主イエスから豊かで幸いな養いをいただき、交わりをさらに深めてまいりましょう。

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ヨハネによる福音書20章1~18節

イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。                 ヨハネ20: 16

序 論)週の初めの日の早朝、マグダラのマリヤは、墓の入り口に置いてあった石が取りのけてあるのを見て、それを弟子のペテロとヨハネとに報告しました。二人はイエス様の御身体がなくなっていることを確認しましたが、それが聖書の預言の成就(9)だと悟ることはできませんでした。ペテロとヨハネは去り、その場にマリヤだけが残ります。
復活されたイエス様は…

本 論)1.私たち一人ひとりの名前を呼んで下さるマリヤは墓が空であることを見た後も、なおそこから離れることができずに泣いていました(11)。その涙はイエス様の死そのものを悲しむ涙であり、それに加えてその御遺体を誰かに奪われたと思い、御身体が失くなってしまったことを悲しみ嘆く涙でした。彼女は、自分の手でイエス様のなきがらを心を込めて葬りをしたかったのです。御遺体を目の前にして、お別れの時間がほしいと切に願っていたことでしょう。
まだイエス様が復活されたことを知らないマリヤは御使い(天使)の姿を見、声をかけられても悲しみから解放されませんでした(12-13)。しかし、イエス様はすでに復活しておられたのです。そして、マリヤのかたわらに立たれ、御声をかけられました。「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(14-15)。  絶望に打ちひしがれたマリヤの目にはこの方がイエス様だとわからず、園の番人だと思っていました。主はもう一度、マリヤに呼びかけられます(16)。「マリヤよ」と懐かしい御声でいつものように呼び掛けて下さいました。このとき初めて、マリヤは目の前におられる方がイエス様であると気づきました。彼女は、主イエスとの親しい交わりを持ち主を愛していましたから、その御声で気づいたのです。
私たちもときには、このときのマリヤのように大きな悲しみや痛み、苦しみの中に全く見捨てられたように感じるときがあるかもしれません。しかし、復活され、今も生きておられるイエス様は、私たちをお見捨てになることはなく、私たちのところにも訪ねて来られます。そして、「マリヤよ」と呼びかけて下さったように私たち一人ひとりの名前を呼んで下さり、私たちがその呼びかけに応えてイエス様と父なる神様に心を向けることを待っておられます。

2.私たち一人ひとりを「わたしの兄弟」と呼んで下さる
  復活されたイエス様に名前を呼ばれたマリヤは、「ラボ二(先生)」と答えました。それは、マリヤがいつもイエス様をお呼びしていた呼び方でした。その後、すぐにイエス様は彼女に「わたしにさわってはいけない」と言われました。この訳を文字通り受け止めると、イエス様に出会うことができて喜んだマリヤが思わずイエス様にすがりつこうとしたので、イエス様が「私に触れてはいけない」と言われたように受け取れます。でも、ここの個所のもとの言葉を調べると、マリヤはこのときすでにイエス様にすがりついていて、イエス様は「すがりついていてはいけません。もう手を離さないといけません。」という意味で言われたことがわかります。
その後、イエス様は、マリヤにご自身が神の御もとに昇られることを告げ、またこれを弟子たちに伝えるように命じられました(17)。なぜイエス様は、神様のもとに行こうとされたのでしょうか。それは弟子たちに聖霊を与えるためでした。イエス様は十字架にかかられる前の晩、弟子たちと夕食を共にされたとき、「助け主」(聖霊)が、来ることを告げられます(ヨハネ16章7節 p.168)  復活されたイエス様は、信じる者の益となるために天に昇られます。その後、イエス様は、約束通り、弟子たちに聖霊を与えて下さいました。
イエス様は、聖霊によって信じる者たちの内に住んで下さいます。それは、イエス様とのより深い人格的な交わりを持って歩んでいくためでした。主がマリヤに「私にさわってはいけない」と言われたのは、マリヤに対しても、今までの地上におられた目に見えるイエス様との関係ではなく、内に住んで下さる聖霊によって、イエス様とより深い交わりを持つことを望まれたのです。私たちが求めるべきイエス様との交わりも、私たちにすでに与えられている聖書のみ言葉と聖霊による深い交わりです。そしてイエス様はご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました(17)。それによって、イエス様の父なる神様は、弟子たちにとって、そして私たちにとっても父なる神様であることを示されました。十字架によって罪赦され、イエス様の復活と昇天によって聖霊をいただいた私たちは神の子とされているからです。(ローマ人への手紙8章12-16節 p.243) イエス様が十字架と復活によって成し遂げて下さった救いのみわざを信じる私たちはもはや罪に定められることはありません。ここで「肉」と表現されている、罪に支配されて生きることから、私たちはもう解放されています。そして、ローマ8章15節で語っているように神の子とされる御霊、聖霊が与えられて、神様を父とし、イエス様の兄弟、姉妹として歩む者とされているのです。

結論)復活されたイエス様が、マリヤ、弟子たちをご自分の方から訪ねて行かれ、御姿をあらわして下さったように、今も、私たち一人ひとりを訪ね、名前を呼んで下さり、私たちがそのよびかけに応えるのを待っておられます。十字架の苦しみを経て、復活されたイエス様は、たとえ私たちがどんなに絶望的な状況にいるように思えるときであったとしても、私たちの最大の希望、慰め、支えです。イエス様の十字架と復活によって、私たちは、今、父、御子、御霊の愛の交わりの中に招かれ、その中に入れられています。主のご愛に応えて、さらに主イエスを慕い求め、御霊によってイエス様との親しい交わりのうちに歩ませていただきましょう。

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