ルカによる福音書15章1~7節

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。           ルカ15章7節 (p.115)

序 論)イエス様のもとに取税人や「罪人」と呼ばれていた人たちが、やって来ました。主イエスが彼らと一緒に食事をしていたことをパリサイ人たちは非難しました。
主イエスはたとえ話をして、パリサイ人たちに答えられます。「いなくなった羊のたとえ」が示していることは…

本 論)1.主イエスは一人ひとりを捜し回られる
「百匹の羊を持っている者」(4)は、雇われた羊飼いではなく、「自分の羊」を飼っている羊飼いでした。旧約聖書でも、神様を羊飼い、イスラエルの民を羊にたとえている 箇所がいくつかあります。(詩篇23篇1節p.766等)
羊は臆病で脆弱です。視力もよくありません。だから羊飼いの助けを必要とします。  「一匹の羊」がいなくなっているのを発見するのは、羊を囲いの中に入れるとき、通常、夕方でした。この羊飼いは「九十九匹の羊」を他の羊飼いに託して、一匹を捜しに行きました(4)。
迷い出る羊は、旧約聖書では神様から離れてしまったイスラエルの民を表しています。イエス様はご自分のことを羊飼いにたとえられます。(ヨハネによる福音書10章11節 p.156)   このたとえの焦点は99匹ではなくいなくなった一匹に当てられています。「いなくなった」は、人が神様のもとを離れ、罪の中に陥ってしまっていることを示しています。
神様は、人を罪から救うためにイエス様を地上に送って下さいました。
そして、イエス様は人々を訪ねて行かれ、ご自分のもとに来るようにと招かれました。

2. 神様の大きな喜び
いなくなっていた羊をようやく捜し出した羊飼いは喜んでそれを自分の肩にのせました(5)。(原文では「両肩」。羊が弱っているのを表しているのかもしれません。)そして家に帰ってきて、友人や隣人たちを呼び集め、喜びを共にしてくれるように頼み、共に喜びました(6)。「いなくなった羊」は、原文では「いなくなったわたしの羊」です。
羊飼いが、いなくなっていた一匹の羊が見つかったことを喜ぶように、イエス様は、ご自分のもとに来た一人ひとりを喜ばれるのです。
このたとえは、イエス様のもとに来た取税人たちのことを神様もイエス様も喜んでおられることを示しています。逆に、彼らを見下し、神様の喜びを共にできない、パリサイ人たちの罪深さをも主イエスは指摘しておられるのです。
7節の「罪人」は、1節でパリサイ派の人たちが考えていた「罪人」とは違う意味で用いておられます。イエス様の言われる「罪人」は、神様の御前における罪人のことを示しています。
「悔い改めを必要としない正しい人」(羊飼いに数えられて羊の囲いの中に入った99匹の羊)(7)は、すでに悔い改めてイエス様に見出された罪人たちのことです。彼らも、イエス様から見たら大切な一人ひとりです。
でも、ここでは神様の御前から「いなくなっていた」(失われていた)一人が、神様のもとに帰ったときに神様もイエス様もどれほど喜ばれるかということが最も強調して語られています。

結 論)「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10章11節 p.156)と言われたイエス様は、この言葉の通り、十字架の上で御自分の命を捨てられました。
それは、神様から離れた罪人であった私たちの罪の罰を受けられた身代わりの死でした。イエス様の十字架によって私たちの罪は赦され、父なる神様のもとに立ち返る道が開かれました。
十字架にかかられたイエス様は三日目に復活され、今も生きておられるお方です。そして、私たちが神様のもとに帰るように、今も私たちを捜し求めておられるのです。
神様は、罪人である私たちが一人でも自分の罪に気づいて悔い改めることを心から願っておられます。
悔い改めとは、自分の力で何でもできると思う傲慢さに気づき、謙遜に父なる神様のもとに帰ることです。そのとき99人の正しい人に勝る喜びが天にあります。
父なる神様が送られたイエス様を知り、イエス様を信じて悔い改め、罪から救われ永遠の命に生かされること神様は今も願い、そのことを喜ばれるのです。
主イエスは、私の「良き羊飼い」、「牧者(かいぬし)」私はその「羊」です。      (詩篇23篇 p.766  新聖歌255番)

カテゴリー: Uncategorized | ルカによる福音書15章1~7節 はコメントを受け付けていません。

ルカによる福音書14章25~35節

自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。 ルカ14章25-35節 (p.115)

 

序 論)イエス様は、ご自分についてきた大勢の群衆に向って語られます。
そして、主の弟子として求められることは・・・

本 論)

1.主を愛すること
26節のみ言葉は厳しい言葉ですが、「捨てる」という言葉を吟味する必要があります。新改訳聖書では「憎む」と訳されています。元の言葉は、「愛する」という言葉と対比させて「より少なく愛する」の意味で使われています。家族や周りの人たちを愛することは、もちろん大切です。でも、ここではイエス様を誰よりも愛し、従うことを求めておられます。
ここで、イエス様は、本当の意味で親子の関係、あるいは夫と妻との関係に生きようとするならば、まず神を第一とする「聖別」が必要であると仰っています。神様が家族の絆の中にいて下さるならば、この神様は私たちをお救い下さった方、造り変えて下さっているお方ですから、親と子の関係も、夫と妻の関係も祝福を受けることができます。
それは家族の絆を捨てることではなく、イエス様との関係を第一として聖別されることなのです。
そして、イエス様は、十字架を負うてご自身に従うようにと言われます(27)。私にとっての「十字架」はそれぞれが人生の歩みの中で与えられている、苦しみや痛み、悩みのことです。私たち自身が、痛みを負いつつ神様に従うようにと言われます。
神様は、私たち人類が神様から離れて永遠の滅亡に行くことに心を痛めておられました。それで父なる神様は御子イエス様を地上に送られました。主イエスの十字架の死によって私たちは罪から救われました。ご自身の御子を犠牲とされるという神様にとっての最大の痛みを通して救いのわざがなされたのです。
私たちの周囲には、いろいろな痛みやそれぞれの十字架を負っている人がたくさんおられます。キリストを信じ、従うことを通して、そのような人の痛みに共感できる人になることが、キリストの弟子になることなのです。私たちの痛みを共に負って下さる、イエス様と一緒に、他の人の痛みを思い、祈り、その人に対して自分ができることをさせていただきましょう。

2. まず座して祈ること
28~32節で、イエス様は二つのたとえ話をしておられます。一つは家を建てるときは予算をちゃんと組んで、きちんと計算しなければ、土台だけしか作れなくて笑われてしまうだろうというお話です。もう一つは戦争で敵を打ち破ろうとするときには、敵の兵力がどれくらいかをよく計算しなければ勝てないと言われました。
どちらのたとえも、神の国に入る、イエス様の弟子になるには、何かの犠牲を払うことなしにはできないということです。家を建てるには大きな費用がかかります。犠牲を払わないと家は建ちません。戦争に勝つにも、よく準備して臨まなければ敵に勝てません。 またどちらのたとえにも「まず座して…考え(計算する)ないだろうか」(28,31節)と言われています。「まず座して考える」は、「まず祈ること」、「時間をかけて真剣に祈ること」という意味も含まれています。 祈り、聖書のみ言葉を黙想し、主に従う歩みをしていく中で、イエス様が測り知れないほどの愛のお方であり、自分の人生のすべてをかけても余りあるほど素晴らしいお方であるかがだんだんと分かってくるのです。そしてそのご愛に応答し、主を愛する愛も増し加わっていきます。
次の「…自分の財産をことごとく捨て切る…」も、「それを生活の中心にするほど執着してはならない」という意味で、持ち物に対する聖別ということです。神様は「富を持ってはいけない」とは仰いません。むしろ、本当の意味で、神様第一として従っていくならば、神様は必要なものの一切を私たちに備えて下さいます。主イエスは「まず神の国と神の義とを求めなさい。」(マタイによる福音書6章33節 p.9)と言われます。

結 論)イエス様を信じ、愛し、従っていく者の内にイエス様が住んで下さって、
主のみ心、願いを実現することができるように助け導いて下さいます。
そして、主イエスは、ご自分の弟子は、多くの人々の中にあって人々の中にあって塩のような役目を果たすのだと言われました。(35)塩は物が腐敗するのを防ぐ役目をします。また食物に良い味を付けます。イエス様は「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節 p.6) と仰っています。この世にあっても、罪に染まらず、きよい生活をして、よい影響を与えていく使命がキリストの弟子に与えられています。
私たちは力なく、小さな者ですが、「私は聖霊の力をいただいて主を愛し従います。主よ、お助け下さい」と祈りながら、主に委ね、主の弟子としての道を歩み続けてまいりましょう。

カテゴリー: Uncategorized | ルカによる福音書14章25~35節 はコメントを受け付けていません。

ルカによる福音書14章15~24節

そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。…」
ルカ14章16-17節 (p.114)

序 論)あるパリサイ人が安息日にイエス様を食事に招きました。主イエスはその家にいたパリサイ人たちに「神の国」について語られます。神の国にふさわしい者、終わりの日の神からの報いについて教えられた後、さらに語られたたとえ話の意味することは…

本 論)

1 招きを断る人、招きにあずかる人
「列席者のひとり」(15)(パリサイ人)は「正しい人の復活の際」(14)には、自分たちこそ神の国の食事に招かれるのにふさわしい者だと思っていました。彼の言葉を聞いてイエス様が三つ目のたとえ話をされます。(15-24節) 当時のユダヤでは晩餐会の正式な招待は2度に分けてなされていました。1度目の招待(16)を受けた人が「晩餐の時刻になった」(17)ときになされる2度目の招待を断ることは非常に無礼なことと見なされていました。
けれども、「最初の人」(18)と「ほかの人」(19)は、買った土地や牛のことを理由として断りました。3人目の人は「新婚生活」を理由に断りました。ここでの「断る」は 「口実を設ける、言い訳をする」という意味です。(彼らの断りの理由はつじつまが合っていません。「土地」は買う前に見に行くものです。まして買ったなら宴会後にでも見に行けます。2人目、3人目の人たちも宴会に行こうと思えば行くことができました。) 以上の事を「僕(しもべ)」から報告された「主人」は怒りました(21)。晩餐会の開催時刻が迫っているので「いますぐに」(21)他の人々が招かれました。彼らは「町の大通りや小道」(晩餐会の開かれる家の近く)にいました。
まだ席があったので、主人はさらに手当たり次第に人を連れてきて「家」をいっぱいにしなさいと命じます(23)。「道」(23)はこの場合、町の外にある道です。「垣根」は 郊外の農園の「垣根」です。家から遠く離れた場所にいる人々を呼ぶようにと言われています。「無理やりに」は、「力づくでも」という意味ではなく、「説得して、強いて願って」という意味です。
このたとえ話で言われた「主人」は「神様」、「しもべ」は「イエス様」のことです。最初は招かれていたのに招きを断った人たちは、パリサイ人、律法学者たちのことです。彼らは、自分たちが「義人」であると自負していたので、神の御子であるイエス様を救い主と信じることができず(招きに応じず)、イエス様の命を奪おうと企みました。
彼らは自分の罪を認めることができず、神の前に自分を低くすること(へりくだること)ができませんでした(11)。彼らは神様から招かれていたのに、「わたしの晩餐」(主の 晩餐)にあずかることができなかったのです(24)。

2 主イエスの招き
家の近くで招かれた人たち(22)は、イエス様の弟子たちを意味しています。家の遠くで招かれた人たちは、後にイエス様を信じる「異邦人クリスチャン」を意味しています。 当時、神様の祝福から遠いところにいると思われていた人たち(22)がかえって先に主イエスの救いの恵みにあずかりました。彼らは、イエス様の招きに素直に応じ、自分が罪あることを認めてイエス様を信じ受け入れた人たちです。神様から選ばれたユダヤ民族とは違い、「異邦人」(ユダヤ人以外の世界中の人たち)は、神様の祝福から遠いところにいると思われていました。しかし、イエス様の十字架の死と復活、その後のペンテコステ以降、イエス様を信じることによって罪から救われる時代(聖霊の時代)が到来しました。イエス様を信じ、従う人たちが世界中から起こされてきました。今、私たちもイエス様から招かれ、主の救いの恵みにあずかっています。

結 論)「わたしの晩餐」(24)は「神の国の食事」(15)のことであり、教会は「神の国」、礼拝や聖餐は御国での「主の晩餐」、「神の国の食事」の雛型(ひながた)です。 イエス様を信じ、共に礼拝する私たちは、天の御国での礼拝と主との交わりを待ち望みつつ歩みます。
私たちもかつては神様から遠い「罪人」であり「異邦人」でした。このたとえ話の中の貧しい者、垣根の外にいた者と言えます。そんな私たちをイエス様は神の国の食事(主の晩餐)に招き入れて下さいました。そして豊かな恵みを今も与えて下さっています。
17節の文語訳「来たれ、既に備(そなわ)りたり。」はかつて教会の聖餐式の際に読まれていたみ言葉でした。
イエス様は、今もすべての人を神の国に招いて下さっています。そしてご自分のもとに引き寄せ続けて下さっています。先に主の晩餐の恵みにあずかり主の僕とされている私たちが、新しく来られる方々を招き、お迎えしましょう。

カテゴリー: Uncategorized | ルカによる福音書14章15~24節 はコメントを受け付けていません。

ヨハネによる福音書21章15~17節

またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」 彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい。」
 ヨハネ21章16節 (p.178)

序 論)テべリヤ(ガリラヤ)湖の岸辺で、朝の食事の後、イエス様は、ペテロに三度にわたって質問をされます。主の問いとペテロに命じられたことは…

本 論)

1 ご自身への愛を問われる
イエス様はペテロに三度「わたしを愛するか」と質問されました(15,16,17節)。 「この人たちが愛する以上に」(15)は、「他の弟子たちがわたし(イエス様)を愛する以上に」という意味です。
三度目にイエス様から問われたとき、ペテロは「心をいためて(新共同訳では「悲しくなって」)」(17節)とあります。この時のペテロは、自分の過去の失敗を思い起こして悲しくなってしまったのでしょう。
ペテロはかつては他の弟子たちより自分は偉い者だと思っていました。そして最後の晩餐の席上でイエス様のためには命を捨てることもいといません、と断言しました。         (ヨハネ13章37節 p.164)
しかし、イエス様が予告された通り、彼は三度イエス様を知らない、と否定してしまいました。 (ヨハネ18章17節、25-27節p.172)
けれどもここで、主イエスから、問われたペテロは、もう他の弟子たちと自分を比べて答えることはしていません。
彼は弟子たちのことについては一言も触れず、ただ「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」と控えめに答えました。
三度にわたる主の繰り返しの問いに、「主よ、あなたはすべてをご存じです。」(17)と述べて、すべてをご存知であるイエス様に一切を委ねました。
イエス様とペテロの間のこれらのやり取りは、イエス様のペテロに対しての特別な取り扱いを示しています。主は失敗し、悩み苦しんでいたペテロをいやし、新たに立ち直らせ、弟子たちの中での真のリーダーとしての立場を回復させて下さったのです。

2 ご自分の羊を飼うように命じられた
ペテロの答えを聞いてイエス様はペテロにご自分の羊を委ねられました。(15,16,17節)  かつてイエス様は、ペテロに「今からあなたは人間をとる漁師(福音を伝え、イエス様を証しする伝道者)になるのだ」(ルカによる福音書5章10節 p.91)と言われましたが、ここでは、羊を養う「羊飼い(牧者)」としての使命を果たすことを命じておられます。 「羊」は、弟子たちを通して福音を聞き、イエス様を信じて「キリスト者(クリスチャン)」になったばかりの人たち、霊的にまだ幼い人たちのことです。
そして「わたし(イエス様)の羊を飼う」とは、そのような人たちがキリストの弟子として霊的に成長するように愛をもって指導することです。
キリスト者の愛は、キリストにある最も小さい兄弟に仕えることによって示されます。その愛は、キリストの愛をいただき、キリストを愛することから生まれてきます。  この後のペテロは、イエス様を愛し、他の弟子たちを愛して、キリストの弟子としての生涯を全うします。
後に書いた「ペテロの第一、第二の手紙」を通しても、ペテロの他の弟子たち、幼い兄弟たちへの配慮と愛が感じられます。「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ いっさいの悪口を捨てて、今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」     (ペテロ第一の手紙2章2節 p.367)
「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛(アガペー)を加えなさい。」 (ペテロ第二の手紙1章5-6節 p.372)

結 論) かつてイエス様は最後の晩餐のとき、「人がその友のため自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」と言われました。 (ヨハネ15章13節 p.167)
ここでの「愛」は「アガペー」、神の愛を表す言葉が使われています。友を愛する愛は、ご自分の命を捨てるアガペーの愛だと言われます。さらにこの直後の箇所でイエス様が弟子たちのことを「友」と呼ばれました。イエス様にとって弟子たちは命を捨ててまで愛する友であり、アガペーの愛が注がれる友です。そのような愛でイエス様はペテロや弟子たちやすべての人を愛されました。
そして、主はペテロにご自身を愛しますか、と問われました。ペテロはその問いに答え、主のご愛によって立ち直り、新たな出発をしたのです。
1982年にマザーテレサが来日したとき東京での講演で次のように語られました。  「聖書には、イエス・キリストが世に来られたのは、神は愛であり、わたしを、そしてあなたを愛しておられるという福音をもたらすためだと記されています。…では、どのようにしてこの愛をお互いに伝え合えるのでしょうか。 イエスは十字架上で亡くなりました。そして「わたしがあなたがたを愛したように愛しなさい」と言われました。 ですからそのように愛さなければなりません。愛はどこから始まるのでしょう。…家庭です。」
彼女は「家庭」という言葉を頻繁に用いられたそうですがこれは「自分の家族」というだけでなく、私たちの今、生きている場所、地域、周りの共に生きている人たちという意味で使っておられます。そして、隣人愛の大切さを伝え、その根源に神の愛があることを伝えておられます。マザー・テレサは、隣人愛に生きました。しかしそれ以上に、神を愛し、主イエスを愛した人です。「わたしを愛しますか。」という主イエスの問いかけに、真摯に向き合った人です。
イエス様は、今も、私たち一人ひとりに「わたしを愛しますか。」と問われています。主のご愛に、ペテロのように応答し、たとえ小さな歩みであったとしても、すべてをご存知である主に委ね、主を愛し、人を愛する歩みを全うさせていただきましょう。

カテゴリー: Uncategorized | ヨハネによる福音書21章15~17節 はコメントを受け付けていません。

ヨハネによる福音書21章1~14節

 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。             ヨハネ21章4-5節 (p.177)

序 論)エルサレムでイエス様は、復活された御姿を弟子たちに二度、顕されました。その後、彼らは、故郷のガリラヤに帰っていました。イエス様が、彼らに対してなされたことは…

本 論)

1 ご自身のみ姿を新たに顕された
弟子たちの内7人はペテロに引き連れられて漁に出かけました。テべリヤ湖(ガリラヤ湖)で一晩中働いても何の収穫もありませんでした。夜明けに岸辺に立たれたイエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べるものがあるか。」(「食べる物がありませんね。」新改訳)(5)と尋ねられました。彼らが「ありません。」と答えると主イエスは「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう。」と岸から声をかけられました。彼らが主イエスのお言葉に従ったとき、大漁となりました(6)。この素晴らしい大漁の経験は、ペテロたちに以前経験した同じような出来事を思い出させたに違いありません。(ルカによる福音書5章1-11節 p.91)
このときから約3年前、イエス様はペテロに「今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」(ルカ5章10節)と言われ、いっさいを捨てて、イエス様に従いました。復活された主イエスは、ここでペテロや弟子たちに新たに使命を与えようとしておられたのです。  彼らの目は、いっせいに岸辺に立っている人物の方に注がれました。朝もやの中で、最初にその人がイエス様であることが分かったのは「イエスの愛しておられた弟子」(7)
だったのです。  そして、岸辺に立っておられる人が「主であると聞いて」ペテロは一刻も早く主イエスに近づきたいと「裸になっていたため、上着をまとって海にとびこみ」ました(7)。
彼は前の大漁のときにも、真っ先にイエス様の足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」と言いました(ルカ5章8節)。ペテロは岸に向かって泳ぎましたが、他の弟子たちは小舟に乗ったまま、「魚のはいった網を引きながら」(8)陸地までやってきました(8)。(「50間」は約100m)
弟子たちは自分の力だけで魚を獲ろうとしても一匹も獲ることができませんでした。しかし、「舟の右の方に網をおろしてみなさい」と言われる、主イエスのみ言葉に従ったとき、大漁となりました。「舟の右側」は主イエスが新たに示される場所であり、道です。私たちも、自分の力では何もできない弱く無力な者だと認め、主イエスに信頼し、み言葉に従うとき、イエス様は私たちに道を示され、私たちを通して、みわざを成して下さいます。

2 朝の食事を備えておられた
弟子たちが陸地に上がると、そこに炭火がおこしてあり、彼らは「その上に魚がのせてあり、またそこにパンが」あるのを見ました(9)。このように復活されたイエス様は、弟子たちのためにパンと魚の食事を用意し「さあ、朝の食事をしなさい」と彼らを招いて下さいました(12)。「イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。」(13)このときのイエス様のご様子は、かつて5000人にパンを分け与えられたことや最後の晩餐で聖餐を制定される御姿を弟子たちに思い起こさせたことでしょう。 (ヨハネによる福音書6章11節 p.145   ルカによる福音書22章19節 p.128)
炭火を囲んでのイエス様との食事は、弟子たちにとって沈黙と緊張、喜びと神聖な畏れの気持ちの入り混じった中でのものだったことでしょう。
イエス様が彼らのために食事を備えて待っておられたように、今も、私たちに先駆けて進まれ、必要なものを備え、そして私たちと共に歩んで下さいます。

結 論)5000人にパンを与えられた後、イエス様は、「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」 (ヨハネによる福音書6章51節 p.146)と言われました。イエス様の与えて下さるパンは、イエス様ご自身であり、主のご愛(聖霊)とみ言葉です。
弟子が復活された主からいただいた食物は、主のご愛の表れでした。私たちも、祈りと聖書のみ言葉を通して、イエス様と交わり、霊の糧(聖霊とみ言葉)をいただきます。   「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」 (ヨハネによる福音書8章31節 p.153)
み言葉による主イエスとの交わりと恵みにあずかりつつ、主のご愛と命をいただいて、日々の歩みをなしてまいりましょう。

カテゴリー: Uncategorized | ヨハネによる福音書21章1~14節 はコメントを受け付けていません。

マタイによる福音書28章16~20節

わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。               マタイ28章18-20節 (p.50) 

序 論)
復活されたイエス様は、ガリラヤで弟子たちに会われました。そして、弟子たちに山に行くように命じられました。主イエスは…

本 論)

1.私たちにも近づいて来て下さる
よみがえられたイエス様の御姿を見て、拝した彼らの中に疑う者もいました(17)。「疑う」の元の言葉には、「二つの方向に進む」という意味があります。復活されたお方に出会うというのが、余りにも不思議な体験で半信半疑の弟子たちもいたということかもしれません。あるいはこの場に他の弟子たちもいて、彼らが疑ったのかもしれません。
しかし、イエス様は、疑う者も含めて彼らに近づいて来て下さいました。(18) 私たちも信仰の弱さを覚えるとき、主イエスが遠くに感じるときがあります。けれども、そのようなときこそ主イエスは最も近づいて来て下さいます。弟子のトマスも、かつて主の復活を疑いました。でも、主イエスはトマスに近づかれて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきに差し入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネによる福音書20章27節p.177)と言われました。
私たちも、ときに疑うことがあっても、さらに聖書のみ言葉を求め、礼拝し、神様に自分の心を正直に打ち明けて祈りましょう。イエス様は、み言葉を通して語りかけて下さり、私たちの信仰を強めて下さいます。そしてイエス様は、私たちの恐れを取り除き、さらに主のみ言葉に心を向ける者へと変えて下さいます。

2. 私たちと共におられる
「天においても地においても、一切の権威」を父なる神様から授けられたイエス様は「それゆえに」宣教を命令されます。その権威は神の御子としての権威であるだけでなく、十字架によって、罪と死と悪魔に勝利されたことによって父なる神様から与えられた二重の権威です。この権威の及ばないところはどこにもありません。それがたとえ地の果てであっても、日本の国であっても、主の権威の下にある場所であることを覚えましょう。
「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(19-20)
この言葉の中心となる動詞は原文では「弟子とする」です。私たちは、洗礼を受け、聖書の教えを知り、行うことによって、キリストの弟子となり、成長し、イエス様に似た者へと変えられていきます。
かつて洗礼は、バプテスマのヨハネがヨルダン川で授けていました。しかし、イエス様は、今、ここで新たにヨハネのバプテスマとは違う、「父、子、聖霊の御名による」 洗礼を授けることを命じておられます。すなわち、洗礼によって私たちは三位一体の神との交わりの中に入れられるのです。
そしてイエス様は「いつもあなたがたと共にいる」と約束して天に昇られました。  インマヌエルの神(マタイ1章23節 p.2 )(マタイ16章19-20節 p.28)である、イエス様が今も聖霊によって私たちと共におられます。
そして、ここでの臨在の約束は、私たち一人ひとりに与えられている約束であると同時に、特に宣教する教会に向けられている約束でもあります。主イエスは、教会(私たち) と共にいて下さいます。そして教会の喜びや苦しみはイエス様の喜びや苦しみでもあります。他の誰でもなく弱い不完全な私たちと共に宣教することをイエス様は選んで下さったのです。

結 論)イエス様が死んで復活され、世の終わりまでいつも共にいてくださることを信じ、心に覚えるとき、私たちの心と生活が守られ、新たな力が与えられます。
主イエスはいつでも、どんな場所でも共にいて私たちを励まし、悔い改めに導いて下さいます。そして、新たに立ち上がらせて下さるのです。
イエス様は宣教においても私たちを用いて下さり、共に行って下さいます。共におられる主イエスから勇気と力をいただいてそれぞれの場所に新たに遣わされてまいりましょう。

カテゴリー: Uncategorized | マタイによる福音書28章16~20節 はコメントを受け付けていません。

マタイによる福音書27章45~56節

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。                     マタイ27章46節 (p.48)

 

序 論)ローマ総督ピラトは、イエス様に何の罪もないことがわかっていました。それで人々の前でイエス様を釈放しようとします。しかし、イエス様をねたみ憎んでいた宗教指導者たちに扇動された群衆が「十字架につけよ」とますます激しく叫び、今にも大騒ぎになりそうでした。それでイエス様を十字架につけるためにローマの兵卒たちに引き渡してしまいます。(マタイ27章15-26節 p.47)
主イエスの十字架によって成されたことは…

本 論)

1 私たちの身代わりとなられ神様から見捨てられた
イエス様が十字架にかけられて、昼の十二時頃、突然、太陽の光が陰り、あたり一面が真っ暗になってしまいました。(45) これは父なる神様とイエス様の交わりが断たれたこと、断絶のしるしです。また、神無き世界の暗さ、罪深さを示しています。
これまでの覚悟を忘れて逃げ去った弟子たち、証拠もないのにイエス様に不利な証言を次々と重ねる人たち、イエス様が無実であることを知りながら十字架刑を許したローマ総督ピラト、皆自分の立場を守ることに精一杯でした。彼らは正しいことに目をつぶって、周りに流される方を選んでしまいました。
またイエス様のことを嘲(あざけ)って、つばをかけたり頬を打ったり、いばらの冠をかぶせた兵士たち、そして十字架につけられたイエス様を見てののしり続けた人たち、 それぞれの自分勝手な期待を押し付けたり、弱い者を嘲って自分が何者かであるようにふるまう者たちでした。そしてこれらの人々の姿に私たちの自己中心、自己保身に走ってしまう姿が表われています。
イエス様は、十字架につかれてからもこれらの人間の身勝手な振る舞いをご覧になり、心を傷つける言葉を聞かれました。しかし、沈黙を通されました。やがてイエス様の 口から出たのが、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と天の父なる神様に叫ぶ言葉でした。これはエゴイズム (自己中心)の罪のために本来なら神様に捨てられなければならない、私たち人間を代表しての叫びでした。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩篇22篇の最初の部分の言葉です。この叫びは、本来は痛みや苦しみの中で失望し、落胆し、神様に救いを求めている私たちの叫び です。イエス様は、私たちの身代わりとなるために、罪人と同じ立場に身を置き、私たちが神様に見捨てられなければならないところを代わりに見捨てられて下さいました。
主イエスが叫んで下さったこの祈りの言葉「どうして…」という問いの答えは「わたしのため」なのです。(「わたしの罪のため」、「わたしの身代わりとなるため」…)

2 罪の赦しと回復への道が開かれた
イエス様は最後に大声で「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」叫ばれ、息を引き取られました。(ルカ23章46節 p.132) そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けました(51)。神殿の垂れ幕とは、神殿の至聖所に至る隔ての幕です。そこには、選ばれた大祭司だけが一年に一度入ることが出来る幕です。最も聖なる神の臨在を表す、至聖所への幕、神の臨在に触れるためには供え物の動物の血を携えなければ入ることのできない幕です。それが、十字架の上でキリストの血が流されきったときに、人の手ではなく、神様の手によって、上から下に真二つに裂けました。それはイエス様が贖い(救いのみわざ)の使命を完了され、生ける神の臨在の前に罪ある人間が赦されて立つことのできる道が、このときに天より開かれたことを示しています。
イエス様はどんなに嘲られても、ののしられても、十字架から降りることも、死から逃れることもなさいませんでした。このときは天からの声も助けもありませんでした。 人間の目には、弱さと敗北のどん底での死をイエス様は迎えられました。しかし、百卒長(百人隊長)や、イエス様の見張りをしていた人たち、つまり一連の出来事とイエス様の御姿を最後まで、見続けた人たちが、「まことに、この人は神の子であった」と告白しました。(54)   彼らは、今まで自分たちが考えてきた救いとは違う、本当の救い、神からの救いを感じ、今まで当たり前と思い流されてきた自己中心の世界とは全く違う世界があることをイエス様の姿を通して見たのです。
私たちはイエス様のどの御姿を見て、信仰を言い表すでしょうか。イエス様の素晴らしい言葉やみわざを通しても、もちろん神の子、救い主の御姿を見ることができます。日々の生活の中で、目に見える具体的な祝福を受けることも感謝であり、喜びです。しかし、絶望に捕らわれているときや、愛する者を失うとき、十字架にかかられたイエス様を通して、他にはない神の救いを得ることができるのです。

結 論)イエス様は虐げられ、苦しみの中で、何の抵抗もされず、ただ神様の前に祈り、叫ばれながら十字架の上で死なれました。しかし、イエス様が息を引き取られたその時に地震が起こり、幕が開きました。これは、絶望のどん底と思えるようなところにも、希望の光が大きく差し込んでことを示しています。イエス様が私たちの身代わりに神様から見捨てられ、絶望を体験し、復活して下さったので、私たちはもう絶望しなくてよいのです。主を信じ、希望をもって新しい道を踏み出すことができるのです。
イエス様が私の罪の身代わりとなって十字架の上で死んで下さったことを信じ、感謝して受け入れましょう。神様のあわれみと救いの御手にいつも守られて、希望のある幸いな歩みをなしてまいりましょう。

カテゴリー: Uncategorized | マタイによる福音書27章45~56節 はコメントを受け付けていません。

マタイによる福音書26章36~46節

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください。」         (マタイ26章39節 p.45 )

序 論)イエス様は弟子たちといっしょに、それまでよく祈りをしておられたゲツセマネという園に行かれます。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちだけを連れてさらに奥に進まれます。さらにご自分だけ少し離れた所に行かれ、うつぶせになって祈り始められました。主イエスは…

1 苦しみと霊的戦いの中で祈られた
「悲しみを催しまた悩みはじめられた」(35)イエス様はペテロら三人に、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。…」(36)と言われました。
主イエスの悲しみと悩みは、十字架の苦しみと死がいよいよ目前に迫ってきたことによるものでした。悲しみのあまり死ぬほど、それは深い絶望です。イエス様はそういう 悲しみを味われました。
そしてその悲しみの中で主イエスはペテロたちに、「ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい。」と言われました。弟子たちに、一緒にいて私を支えてほしいと頼んでおられます。それは、後で「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい。」(41)と言われたように、主イエスと共に目を覚まして祈ること、それがイエス様にとって支えとなり助けとなります。それを主イエスは願われました。
イエス様の祈りの言葉の中の「この杯」は、これから起ころうとしている受難、十字架の死のことです。できることでしたら十字架につけられなくてもよいように、他に道があるのでしたら死ななくてもよいようにして下さいと切に祈られました。
なぜ、主イエスはそのように祈られたのでしょうか。それは主が、これから起こる十字架の出来事がどのようなものであるかをよく知っておられたからです。全人類の罪を 一身に負い、世の罪を取り除く神の小羊として十字架にかけられるのです。その結果、今まで父なる神様との交わりの断絶を経験されたことのない、お方が、神の怒りを受け、捨てられ、断たれるからです。それは、他の誰も味わったことのない苦しみでした。
初代教会のキリスト者(クリスチャン)たちは必要とあらば喜んで殉教の死を遂げました。しかし、イエス様は何の罪もないにも関らず、罪人の中の罪人として、十字架の上でさばかれ、苦しみもだえ、死んで下さったのです。
このように、イエス様が死を恐れられたのは、勇気の欠乏によるのではなく、十字架の苦痛の特別な意味をよく知るっておられたからでした。そのために、苦しみもだえ、 血のしたたりのように大粒の汗を流して、切々と祈られたのです。(ルカによる福音書22章44節 p.129)
しかし、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」(40)と続いて祈られます。これは直訳すると「わたしの意志するようにではなく、あなたが意志されるように」となります。わたしの意志、願いは この杯を去らせて下さること、十字架の死を免れることです。しかし、私の意志をではなく、あなたのご意志を行って下さい、そしてわたしがそれに従うことができるようにして下さい、と主イエスは祈られたのです。この祈りは、十字架の道を行かせまいとする、悪魔との激烈な霊の戦いの祈りでもありました。

2 神のみこころに従われた
ゲツセマネの祈りは、イエス様ご自身が、霊の戦いを祈りにおいて戦われたことを示しています。主イエスの二度目の祈りの言葉、「…、どうかみこころが行われますように。」(42)は、イエス様が、この戦いにおいて悲しみと恐れを乗り越えて、父なる神様のみ心(ご意志)に従って歩む信仰を貫かれたことを示しています。「あなたのみこころが行われますように」という祈りは、この後のイエス様の十字架の死への歩みの全てを支える祈りでした。
弟子たちが祈りを失い、眠り込んでしまっている中で、主イエスは祈りの戦いを戦い抜かれ、勝利されました。弟子たちはイエス様のために何の力にもなれませんでした。イエス様はただお一人で、戦い抜かれたのです。
「見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。…」(45-46)。
この後、イエス様を捕らえ、十字架につけた宗教指導者たちは、「自分たちが勝った」と思ったことでしょう。
しかし、実は、そうではなく、罪人らの手に渡されることによって、イエス様は悪魔に対する完全な勝利をされたのです。この後の主の十字架、復活によって、神様の救いのご計画は成就しました。 この戦いは私たちのためでした。イエス様が、父なる神様のみ心に従って、十字架の死への道を歩み通して下さったことによって、私たちの罪が赦され、罪の支配から解放されて神様の恵みの下で新しく生きることができるようになった のです。

 結 論)私たちの祈りは、神様に自分の思いや願いを投げ かけているだけのことが多いのではないでしょうか。そのような「願う祈り」、「願い求める祈り」も大切です。 しかし、ときには神様のみ心、ご意志はどこにあるのかを求める祈り、それに従って行こうとする祈りが必要なときがあります。
神様のみ心、ご意志を求めていくときに、それが自分の願いや思いと違うことに気づかされるときがあります。そのとき、神様のみ心に従っていくかが問われます。
主イエスがゲツセマネで祈り抜かれ、神様のみ心に従われたとき、全人類の救いの道が開かれました。
私たちも、神様のみ心に従うとき、その時はわからなくても、後に大きな世界が開れたり、道が開かれたとき、あのとき、み心と信じて、従ってよかった。み心に従うことが神様の恵み、大きな祝福の道だったのだと気づかされます。これからも行くべき道や選択に迷ったときも、神様のみ心を求めて祈ってまいりましょう。
最も大切なこのときに眠り込んでしまった弟子たちと同じように、主イエスと共に目覚めていることができず、すぐに祈りをやめたり、眠り込んでしまう私たちです。でも、イエス様は、今も私たちのために天においてとりなしの祈りをしておられます。そして私たちの内なる聖霊も、うめきつつ、私たちと共に祈って下さっています。      (ローマ人への手紙8章26節 p.243)
私たちは、主イエスの祈りの姿にならい、主の恵みに支えられて、祈りの生活を続けます。

カテゴリー: Uncategorized | マタイによる福音書26章36~46節 はコメントを受け付けていません。

ルカによる福音書14章7~14節

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」               (ルカ14章11節 p.114 )

序 論)あるパリサイ人が安息日にイエス様を食事に招きました。主イエスを訴える口実を得るためでした。でも、主は彼らを恐れず、水腫をわずらっていた人をあわれんでいやされました。そしてその家にいた人たちに譬(たとえ)を語られました。彼らに伝えようとされたことは…

1 自分を低くする者となるように
食事に招待された人々が、できるだけ上席に着こうとしている様子を主イエスはご覧になりました。律法学者やパリサイ人たち(3)はいつも人々から「先生」と呼ばれて尊敬を受け、招待されればいつも上席(上座)に案内されていました。だから自分は上席に着く者だという感覚が身についていたのでしょう。
イエス様が語られたこの婚宴に招かれた人のたとえ、の中心は何でしょう。それは上座よりも末座に着く方がよい、ということではありません。その中心は、上座についた者は後で末座の方に移動させられ、末座についた者は後で上座に移動させられる、という箇所(9-10)です。そのことによって、イエス様が語ろうとしておられるのは、「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(11)ということです。新共同訳聖書では、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と訳されています。自分を高くする者(高ぶる者)とは、神様に対し、自分でお返しができる、自分の中にも、神様に貢献することができるものがあると思っている人です。逆に自分を低くする者(へりくだる者)とは、神様の恵みをただで受けるだけで何のお返しもできない、神様に貢献するようなものは何も持っていない、という人です。神様は、高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお与えになるお方です。(ペテロへの第一の手紙5章5節p.371)
「高ぶる」、「へりくだる」というのは、人間同士の比較によって、自分の方が上だと思って誇るとか、自分は駄目だという劣等感によって卑屈になる、ということではありません。イエス様はそのような人間同士の比較ではなく、まことの主人である神様が、どのような者をご自身の宴会の席に招いて下さるのか、ということにこそ、目を向けなさいと教えておられます。神様が招き、救いにあずからせて下さるのは、私は、自分の力でやっていけるし、神様のために何かをすることができると自負している人ではなく、私は、自分の力ではとうていやっていけない、神様のために何かをすることなどとてもできない、と思っている人です。

2 神様は「貧しい人」をこそ招かれる
次にイエス様は、自分たちを招いた人、パリサイ派の人に向って言われます(12-14)。これは人を宴会へと招くときの話しです。これも、11節の言葉と関連付けて語られています。「友人、兄弟、親族、金持ちの隣り人など」、これらの人が「自分を高くする者」です。「貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人など」、これらの人が「自分を低くする者」です。そして両者の違いは「お返し」ができるか、できないかです。宴会に招かれたら、今度は自分の方も宴会を催してその人を招待する、そのようにお返しができる人と、貧しくて宴会を催すことなどとてもできず、お返しをすることのでできない人が対比されています。そして、その貧しくてお返しのできない人をこそ招きなさい、と教えられています。そうすることによって、「正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」(14)と言われます。これは、この世の終わりにおける神様の裁きのときに、という意味です。(ここでは正しい人への報いを強調しておられるので、「正しくない者」の裁きへの復活を否定しておられるわけではありません。ヨハネによる福音書5章29節 p.144使徒行伝24章15節 p.225   参照)
報いて下さるのは神様です。つまり、このように貧しい人を招くことを、神様は喜んで下さいます。神様がそのことを喜んで下さるのは、神様がそのようなお方だからです。父なる神様の神の国への招き、救いはこのたとえの宴会への招きのようなものです。神様は、お返しができる者をではなく、お返しなどできない、ただ恵みを受けることしかできない者をこそ、招き、救いにあずからせて下さるのです。これが、「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と言われる言葉の意味です。

 結 論)神様は、「自分を低くする人」、「へりくだる人」と共にいて下さり、命を得させて下さいます。自分を低くする人は、自分の罪を認め、悔い改め、罪や罪のもたらす苦しみからの救いも、自分の力では得ることができないことを神様から示され、そのことを悟った人 です。このことを知っていることが、「へりくだり」です。
主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って、十字架にかかり死んで下さいました。そのことを信じ、主イエスを信じ、受け入れる者を、神様は神の国に入れて下さり、宴会の席に着かせて下さいます。神様は、十字架にかかられ、復活されたイエス様のもとに来るようにと、神の国の宴会の席へと今日も私たちを招いて下さっています。

カテゴリー: Uncategorized | ルカによる福音書14章7~14節 はコメントを受け付けていません。

ルカによる福音書14章1~6節

「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
 (ルカ14章5節 p.113 )

序 論)あるパリサイ人が安息日にイエス様を食事に招きました。「…様子をうかがっていた」(1)とあるように、招かれていた人々は、主イエスのことを疑いの目で見つめ監視していました。主イエスのなさったことと言われたことは…

1 癒しのわざをなさった
そこに水腫をわずらっている人がいました。これは体液が体にたまってむくみができる循環器系の病気です。当時のある宗教指導者たちはこのような病を本人の不道徳の結果とみなしていました。パリサイ派の人たちは潔癖であることを重んじていましたから、食事の席にこのような人を招くことはほとんどなかったでしょう。
しかし、このとき彼がイエス様の「みまえにいた(真正面にいた 新改訳)」(2)のは、「律法学者やパリサイ人たち」(3)の裏工作でした。彼らはイエス様が、安息日に病を癒すというわざ、つまり仕事をするのかどうか、それを試すためにこの病気の人を呼んでイエス様の目の前に立たせたのです。そして、それをもとに主イエスを訴える口実を得ようとしていました。
このように人と親しくなるはずの食事の席で、隣人であるはずの病気の人を主イエスを陥れるために利用し、軽んじるようなことが行われていたのです
イエス様は彼らの意図を全部見抜いておられました。そしてこのような隣人への愛を失っていたパリサイ派の人たちの態度に対して、イエス様は言われます。「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」(3)
この問いに対して彼らは黙っていました。そしてイエス様は、その答えも待たずに彼を癒されました。癒しが終わるとイエス様は、この人をお帰しになられました。(4)  律法の中心である「十戒」の安息日規定は出エジプト記20章8-11節(p.102)に記されています。「安息」は「落ち着き先」、「目的地」の意味も含まれた言葉です。そして安息日は「主の安息」(出エジプト記20章10節)ですから、天地を創造された神を礼拝し、神を愛し、隣人を愛することを実践する日です。
当時のパリサイ人や律法学者たちは、細かい規則に捕らわれ、律法の最も大切な、「神を愛し、隣人を愛する」という「愛」を見失っていました。イエス様は、その最も大切なことを教えようとされたのです。

2 主イエスが「安息日の主」
病気の人を癒された後、主はこう言われます。「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(5)自分の息子が井戸に落ちたときには「安息日が終わるまで待って」などと言う親はいません。またそのようなとき命を救うことを優先するのは律法においても認められていました。病気で苦しんでいる人を癒すことはそれと同じではないかと言われたのです。それを、「病気を癒すことは仕事だから安息日にしてはならない」などと彼らが言うのは、安息日の本来の意味や目的を全く理解していない本末転倒になっていました。この場にいたパリサイ人たちにとっては、水腫を患っていた人の痛みを感じることなどなかったのではないでしょうか。しかし、イエス様は、この人の痛みを「自分の」ことであると言われました。目の前にいる病人の苦しみと痛みを「自分の」子どもや家畜が井戸に落ちたようなものだと言われるのです。
私たちも人の痛みを「自分の」痛みとして覚えることができるのかが問われています。少しでも相手に寄り添ってお話を聞き、祈りに覚えたいと思います。そのように祈りをするときに、私たちが心に刻まなければならないことはイエス様がこの人の痛みを自分の痛みとして覚えて下さったことです。
イエス様は、この病の人の痛みをご自分の痛みとして癒しをして下さったように、私たちの痛みも覚えて下さり、私たちの最も良き隣人になって下さるのです。その愛をあなたたちの目の前にいる気の毒な病人になぜ注げないのか、あなたがたにとって「安息日」は一体、どういう日なのか、そのようなイエス様の鋭い問いに、「彼らはこれに対して返す言葉がなかった」(6)のです。
彼らはこのときは沈黙していましたが、このときの殺意を後に実行に移し、イエス様を十字架にかけてしまいます。しかし、そのような復讐を受けながら、彼らの罪を赦して ください、とイエス様は十字架の上で父なる神様に祈られました。(ルカ23章34節 .131)  父なる神様は十字架の上で死なれたイエス様を三日後に復活させられました。
それが週の初めの日(日曜日)の朝だったので、イエス様を信じる人たちは、安息日(土曜日)ではなく、日曜日にイエス様の復活を記念し、父なる神様を礼拝するようになり ました。

結 論) イエス様は「人の子は安息日にもまた主なのである。」と言われました(マルコによる福音書2章28節p.54)イエス様の十字架と復活によって私たちは罪赦され、罪の泥沼から引き上げられました。罪から救われ、罪赦された私たちにとっての安息日、「主の日」の中心はイエス・キリストです。イエス・キリストを通して神様を礼拝するとき、私たちそれぞれが、イエス様の真正面に立っています。
私たちは、主の日に、安息(心身の癒し)が与えられ、 食事(聖餐の恵み)にあずかります。そして、教会の交わりや愛餐は神の国の雛形(ひながた)(モデル)なのです。 そのような恵みをいただいて新たな一週間の歩みをなしてまいりましょう。

カテゴリー: Uncategorized | ルカによる福音書14章1~6節 はコメントを受け付けていません。