ルカによる福音書10章17~24節

そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。…」   ルカ10章21節

序 論)主イエスのみもとで訓練を受けた弟子たち72人が町々に伝道に遣わされました。その後、弟子たちがイエス様のもとに帰って来ました。イエス様が喜ばれることは…

本 論)1 私たちの名が天に記されていること
      弟子たちは、悪霊さえも服従させるという素晴らしい経験をして帰って来ました(17)。「あなたの名によってなしますと」と言っているのは大切なことです。彼らの働きはすべて、主イエス・キリストのお名前によってなされました。主イエスのことを宣べ伝える中でこそ、病気をいやし、悪霊を服従させることができたのです。主イエスのみわざ が自分たちを通して、そのみわざのために用いられるという素晴らしい体験を彼らは与えられました。72人は、エルサレムへと向かうイエス様の先駆けとして遣わされました。このとき、主イエスが十字架で死なれ、復活して天に昇られる時が近づいていました。
主イエスが昇天され、神の右の座に着かれるとき、私たちを支配していたサタンが力を失って天から落ちるのです。イエス様にはその様子を前もって見られたのです(18)。神様の恵みの力がサタンに勝利しました。その恵みとは、独り子主イエスの十字架と復活とによって、神様が私たちの罪を赦して下さったという恵みです。その恵みによって、もはやサタンがどれだけ私たちのあら探しをし、罪を言い立てても、神様は私たちを赦し、義として下さっています。神様が義であると宣言なさった者を、サタンは断罪することはできません。サタンが稲妻のように天から落ちるのは、神様の恵みによる罪の赦しが実現したことを示しています。「へびやさそり」は、危険な敵、心の内なる悪の思い、様々な誘惑、罪の力の象徴と解することができます(19)。それらに打ち勝つ力も主によって与えられます。しかし、イエス様は悪霊が服従することが本当に喜ぶべきことではないと言われます。本当の喜びは、私たちの名が天に書き記されていることにこそあるのです(20)。神様が、ご自分の救いにあずからせる者として私たちの名を書き記して下さっています。神様のリストに書き記されているということは、もはやそれは消し去られることはありません。地上の人生においてどのようなことがあっても、神様は「この人の名は、私のこのリストに書き記されている。この人は私の民、私の救いにあずかる者だ」と宣言して下さるのです。(「あの書」ダニエル書12章1節 p.1243「いのちの書」ピリピ4章3節 p.312    黙示録20章15節 p.407   参照)
私たちの信仰は、主イエスの十字架と復活と昇天によって、神様が私の罪を赦して下さり、私の名が天に記されていることを信じることです。そこにこそ、私たちに与えられる本当の喜びがあります。主の十字架によって私は罪赦され、主のものとされている、この喜びが与えられるとき、地上の人生において何があっても、「あなたがたに害をおよぼ す者はまったく無いであろう。」(19)と言われる約束が真実であることを知ることができるのです。

2.主を信じ、救われること
 イエス様は聖霊による喜びにあふれて父なる神様を賛美されました(21-22)。「これらの事」(21)とは、イエス様が神の御子、救い主であること、主が十字架にかかり復活されること、主イエスを信じた者たちの名が天に記されていること、です。そのことが知恵ある者や賢い者には隠され、幼な子のような者に示されました。つまり、自分の力に依り頼み、自分の力で何とかできると思っている者、しようとしている者には、イエス様が救い主であること、名が天に記されている恵みは隠され、分からないのです。
「幼な子」は、自分の無力、自分が罪ある者であることを知っている者のことです。そのような者にこそ、神様は、イエス様が救い主であることを示して下さり、主を信じ、救われて「あなたがたの名が天にしるされている」恵みを与えて下さいます。
父なる神様と御子イエス様が一つであり、イエス様に私たちの救いに関する全てのことは任せられています。(22節) (「わたしと父は一つである」ヨハネ10章30節 p.157   「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである」ヨハネ5章22節p.142  参照)
「あなたがたが見ていること」(23)、それは、父なる神様が地上に送って下さった、御子、救い主イエス様ご自身の御姿とそのなされているみわざです。「預言者たちと王たち」(24)は、旧約聖書のイザヤやエレミヤやアモス等の預言者たちです。王は、ダビデ、ソロモン、ヒゼキヤのような人たちです。この時の弟子たちだけでなく、私たちキリスト者は、聖書を通して彼らが見たいと願いながら見ることができなかったことを見、聞きたいと願いながら聞くことのできなかった言葉を聞くことができるのです。

結論)主イエスが十字架の死と復活を経て昇天されたことによって、サタンは既に天から落とされました。神様が私たちの罪を赦し、私たちの名が天に記されている。これらのことを信仰の目で見、この恵みのみ言葉を聞く幸いを私たちは与えられています。この恵みの事実を見、この恵みの言葉を聞くことができるのは、知恵ある者でも賢い者でもありません。私たちは狼の群れの中に送り込まれた小羊のように、あるいは幼な子のように無力な者です。しかし、自分の力ではどうすることもできない現実の中で、主イエスを信じ、主によって遣わされていることを信じ、主に従って歩もうとするときに、主イエスご自身が私たちの霊の目と耳を開いて下さいます。そして神様とイエス様のことをまだ知らない多くの人たちが見ることも聞くこともできないでいる喜びを先駆けて与えて下さっているのです。
この喜びをもっと多くの人たちが知ることができるように祈り、日々の生活の中で証ししてまいりましょう。

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ルカによる福音書11章1~13節

「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 … ルカ11章1-2節

 

序 論)イエス様の祈られるみ姿を見、言葉を聞いた弟子たちは、イエス様に祈りについて教えを乞いました。主は弟子たちに「主の祈り」を教えられます(2-4 )。(マタイ6章9-13節 p.8 参照) さらに祈りについて語られたことは…

本 論)1 天の父に親しく呼びかけて祈る
     イエス様は、神様に「父よ(アラム語でアバ)」と親しく呼びかけて祈ることを教えられました(1)。(マルコ14章36節 p.77 参照)。主イエスの十字架により罪赦され、神との関係が回復した私たちは、神様に「父よ」と呼びかてよいのです。そして、そのことを天の父もお喜びになるのです。そして、主イエスは、「願われ続けた友人のたとえ」を語られます(5-9)。「真夜中」に、「友よ、パンを三つ貸して下さい」と願い求めるのは人間的に見ると非常識です(5)。しかし、あえてそれができたのは、「友と私」の間に友人同士の信頼関係が土台にあったからでした。友人は、彼の願いを聞いてくれます(8)。
しかし、神様と私たちの関係は 友人関係以上の父子の関係です。私たちは父なる神様に信頼し、親しく呼び求め、願うことができるのです。「しきりに願うので」(8)は「しつように頼めば(新共同訳)」、「あくまで頼み続けるなら(新改訳)」と訳されてい ます。これらを見ると熱心に粘り強く求めていくことが強調されているように読めます。一方、求めに応えて下さる父なる神様の愛を強調する捉え方もあります。原文の言葉を見ると「恥」という言葉から来ています。「恥をも顧みずに」、「恥を忍んで」となります。ある人は「私たちが恥をも顧みずに祈りをする。神がその祈りに応えてやらなけらば、神の方が恥知らずになってしまう。」と言われています。つまり、もしも神様が私たちを恥のまままに放置されるとしたら、放置した神こそが恥知らずになってしまうではないか。しかしそうではなくて、恥知らずに祈り求めた私たちを恥知らずのままに神様はしておかれない。神様は父としての責任を必ず果たされるお方だとその人は言っておられます。9節以下でも父なる神の愛が強調されています。

2.天の父に信頼して祈る
 親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。子どもにそんなものを与える親はいません(11-12)。「このように、あなたがたは悪い者であっても」(13)は、罪があり、欠けが多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、という意味です。私たちは神様をないがしろにし、隣人を本当に愛することができずにいる罪人です。しかし、基本的には、私たちは罪人であっても子供には良いものを与えようとします。「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」(13) イエス様は、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を示され、それよりもはるかに大きく広く深い、天の父なる神様の愛に心を向けさせられました。このたとえの「友人」の姿もまた神様のことではなく、私たち罪ある人間の姿を表しています。私たちは、友人だからという理由で、つまり純粋な愛によってというよりもしつこく言ってきてうるさいから、これ以上迷惑をかけてもらいたくないから、などという理由でようやく腰を上げるような者です。それが「悪い者である」私たちの姿なのではないでしょうか。しかし、天の父は、そんな不純な動機によってではなく、いやいやながらでもなく喜んで、あなたがたに良いものを与えて下さるのだと主イエスは言われます。 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(9)のみ言葉は天の父なる神様が喜んで、進んで、あなたがたに良いものを与えようとしておられる、だから父に信頼して求め続けていきなさいと語っておられるのです。神様が私たちの天の父であり、私たちを子として愛し、父親が子に必要なものを与え、養い育てるように、私たちを育んで下さいます。私たちにおいても、親は子にその求めるものを出来るだけ与えようとします。しかし、それは何でも子供の言いなりになるということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要なときに与えようとします。私たちに人間の親子関係においてさえそういうことがあるならば、天の父、まことの父となって下さる神様は、私たちに、本当に「必要なものを」(8)を与えて下さるのです。
主なる神様はあなたたちの祈りを聞くと約束して下さっています(エレミヤ書29章10-14節 p.1094)。
祈りが聞かれるとは「わたしを尋ね求めて、わたしに会う」(エレミヤ29章13節)ことです。つまり神様との出会いと交わりが与えられることこそ、祈りが聞かれることなのです、私たちにはその恵みが聖霊によって与えられます。私たちの祈りに応えて神様が聖霊を与えて下さり、聖霊が私たちを御子イエス・キリストと結び合わせて下さり、神様との間に、父と子の関係と交わりを与えて下さるのです。それが、祈りにおいて与えられる大きな恵みです。 

結論)今回のたとえの中で彼は、自分のためではなく困っている「友だち」(5)のために「友人」に求めていきました。私たちも、自分の内に愛が足りないことを日々の歩みの中で示されます。「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。」(4)「私たちの罪をお赦しください。私たちに負債のある者を皆ゆるしますから。」(原文直訳)主の十字架によって罪赦された私たちは、父なる神に人に対する愛と赦しの心が与えられるようにさらに求めてまいりましょう。

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ルカによる福音書10章38~41節

「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。…」 ルカ10章41-42節

序 論)ある村で、マルタという女性が主イエスと弟子たちを自分の家に迎え入れました。マルタは接待してもてなしました。妹のマリヤは、主イエスの足元に座り、み言葉に聞き入っていたのです。やがてマルタは忙しさに気をいらだて、マリヤのことでイエス様に文句を言いました(40)。
イエス様がマルタに教えようとされたことは…

本 論)1 主のみ言葉に聞き入る
主は、「マルタ、マルタ」と名前を二度、呼ばれています。聖書の中で神様やイエス様から名前を二度呼ばれる人たちは神様から特別に愛されたり、大きな使命が与えられている人です。(創世記22章11節 p.25 ルカ22章31節 p.128 使徒行伝9章4節 p.195 参照)  イエス様はマルタが思い煩いに陥り、心を乱している(40)と言われます。心が乱れると、自分のしている接待、働き、奉仕を喜んでできなくなります。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなにしているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか。」という思いに支配されていきます。マルタはそのような思い煩い、心の乱れに陥ったのです。
信仰における奉仕は、喜んで、自発的に行うものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰の生活の中でも時として起こるような事態を表しています。
マルタは主イエスを迎え入れ、接待しました。彼女のような奉仕は主イエスに従う者たちにとってとても大事なことです。でも、主イエスがマルタに望んでおられたのは彼女が、その奉仕を、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなく、本当に喜んで、自発的にしていってほしい、ということです。そしてそうなるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さいました。それが、マリヤのように、主イエスの足元に座って、そのみ言葉に聞き入ることです。
主イエスはどのようなみ言葉を語っておられたのでしょうか。それは、主イエスによって、神の国が、つまり神様の恵みのご支配が、確立しようとしているということでし た。人間の力や努力によって神の国を築くのではなく、神様が、その独り子イエス様をこの世に遣わされ、主によって神の国を実現し、そこに私たちを招いて下さるのです。
その神の国の実現のために、この時、イエス様はエルサレムヘ、十字架の苦しみと死、そして復活と昇天による、救いのみわざの成就へと向かっておられました。

2.本当に必要なこと
 マルタが立ち戻るべきところは、マリヤのように、主イエスの足元に座ってそのみ言葉に聞き入ることでした。(当時、足元に座って聞くのは師の教えを受ける弟子の姿でした。また当時のラビ(ユダヤ教の教師)は女性には教えていませんでした。) 「無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである。」(「必要なことはただ一つだけである(新共同訳)」)という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そして私たちに教えています。 マルタの奉仕が本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、マリヤの姿にならうことが必要なのです。主イエスはマルタの信仰と主への愛が増し、その奉仕が本当に生かされることを願っておられます。マリヤに対してと同様、マルタをも愛しておられるのです。それゆえ、「マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。」と仰ったのです。それは、マリヤの姿勢を喜ばれると同時に、マルタが喜んで奉仕に生きるために必要なことを教えようとされるみ言葉でした。
そして、主の福音のみ言葉を本当に聞いた者は先回の「あわれみ深いサマリヤ人」の箇所の最後のところで語られた「行ってあなたも同じようにしなさい」(34)という主イエスの励まし、勧めを受けます。主イエスの愛のみわざにならう奉仕は、この主イエスの励ましの中でこそなされていきます。そのようにしてマリヤもマルタも共に主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自発的に献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者とされていきます。
ある説教者が、ここでの一番の奉仕者は、マルタ、マリヤ、弟子たちではなく、主イエスであると言っています。マリヤは足元に座って、主を見上げるように一心不乱に聞き入っている。主イエスも一生懸命、マリヤに対して語りかけておられたことでしょう。この神の言葉を語られる主イエスのお姿こそ、最大の奉仕者の姿である。マルタが最大の奉仕者ではなく、主イエスである。この説教者は、こう言っています。

結論)マルタが、イエス様から示されたことは、主イエスのみ言葉を聞くことを忘れていたことでした。様々な奉仕は、み言葉を聞いた後に、主のご愛と恵みへの応答として行われるべきものです。
主の足元に座ってみ言葉に聞き入ることが、マリヤの主イエスを愛する行為であり、主のためにまずなすべきことでした。私たちに注がれ続けている神様の愛に応えて、主イエスの足元に座り、そのお話に聞き入る。このことこそ私たちに無くてならぬものです、教会の礼拝は、主のみ言葉をいただき、主の臨在に触れる場です。教会は2000年前の出発の時から、主イエスの足元に座り、み言葉を聞くことを大切にしてきました。そして隣人愛の実践(27節、37節)には、愛の源である主イエスを愛し、み言葉に耳を傾けることがどうしても必要なことです。
礼拝、日々のデボーション(聖書を読み、祈ること)を通して、主イエスとの交わりとみ言葉に聞くことを何よりも大切にしていきましょう。

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ルカによる福音書10章25~37節

この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。ルカ10章36-37節

序 論)イエス様が、弟子たちに語っておられたときに、一人の律法学者が現れ、
イエス様に質問しました。「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。」(25)その動機は、イエス様を「試みる」ためでした。逆にイエス様に問われた律法学者は、旧約聖書に書かれた律法を引用して、答えます。(27) (申命記6章5節 p.255レビ記19章18節 p.163)イエス様は彼の答えが正しいことを認め、それを実行することを命じられます。すると、彼は「自分の立場を弁護しようと思って」イエス様に尋ねます。「わたしの隣人とは誰のことですか。」と。このやりとりの後、イエス様は「良きサマリアヤ人のたとえ」を語られます。このたとえを通して示されることは…

本 論)1 サマリヤ人はイエス様
     神を愛し、隣人を愛することを実行しようとすればするほど、それが難しいこと、そして、自分の内の罪と愛のなさが示されます。ハイデルベルク信仰問答は、この「神を愛し、隣人を愛しなさい。」の戒めは人間の悲惨と罪を明らかにすると告げます。「戒めを完全に守ることはできません。なぜなら(私たちは)生まれつき神様とわたしの隣り人を憎む傾向にあるからです。」(信仰問答5) 主イエスの「そのとおり行いなさい。」(28)の言葉は、最初は主イエスを試そうとした、律法学者の罪を明らかにする言葉になっています。この律法を本気でとことん実行してみなさい。そうすれば、あなたも人間の罪、自分の罪が分かるだろう、と。
しかし、それはただのさばきではなく、イエス様の彼に対する招きでもありました。あなたの功績や実績と引き換えに永遠の命が得られるのではない。それを与えることが できるのは私だけである。あなたはそのままではいけない、私のもとに来なさい、と。
イエス様が彼に語られたこのたとえのサマリヤ人は誰のことをたとえて語られているのか。いろいろな捉え方をすることができますが、注目したい言葉は「気の毒に思い」(33)です。新改訳聖書では、「彼を見てかわいそうに思い」、新共同訳聖書では「その人を見て憐れに思い」と訳されています。ここで使われている「あわれに思う」の元の言葉は、「内臓が痛むほどに深く同情する」という意味の言葉です。ルカによる福音書では、イエス様が、「ナインのやもめ」を見て「深い同情を寄せられ」たとき(7章13節)、「放蕩息子のたとえ(あわれみ深い父のたとえ)」の父親が「哀れに思って走り寄る」ときにも (15章20節)同じ言葉が使われています。これらは父なる神様やイエス様の「深いあわれみ」を表すときに使われています。このことからもこのサマリヤ人はイエス様のことを表していると受け止めることができます。古代教会の伝統的な解釈でも、サマリヤ人は主イエスのことだとされています。「あわれみ深いサマリヤ人」イエス様は、罪のために傷つき倒れていた私たちたちをあわれみ、私たちのもとに来て下さったのです。

2.私たちも「小さなサマリヤ人」とされている
 ある神学者は、このサマリヤ人は主イエスご自身のことを示しているのだととらえ、このように語りました。「私たちは主イエスをあわれみ深いサマリヤ人として見ることがゆるされる。この方が世に来て下さった。盗賊に襲われた人間たちの傷を介抱し、聖霊の油を注ぎ、サクラメント(聖餐)のワイン(ぶどう酒)でいやして下さるためである。」たとえ話の中の「旅をしていたサマリヤ人」は、「たまたまそこを通りかかっただけ」かもしれません。しかし、イエス様は、私たちをあわれに思い、一人ひとりのもとに訪ねて来て下さいました。神を愛することも人を愛することもできず、罪の中にいた私たちを、主イエスは十字架の死と復活によって救い出して下さいました。私たちは主の十字架によって罪赦され、様々な心の傷をいやされた者です。
このイエス様を救い主と信じ、従う者は、イエス様のあわれみと恵みの中で生かされている者です。私たちは主イエスの愛をいただき、そのご愛をさらに深く知る中で、神を愛し、人を愛する者へと造り変えられていきます。このサマリヤ人は、倒れている人の隣人になりました。始めに律法学者は、「わたしの隣り人とはだれのことですか。」(29)と問いました。しかし、イエス様は「隣り人になった人」の話しをされました。「あなたも行って同じようにしなさい。」は「あなたも自分が出会う人々の隣人となりなさい。」(p.106)とおっしゃっています。隣人を愛するとは自分自身が誰かの隣人となることです。
結論)
私たちは、この律法学者と同じように、言い訳や自己弁護をしてしまいやすい者です。ときには、祭司やレビ人と同じように知らん顔してしまう心が自分の内にもあることに気づかされます。しかし、そのような私のために主イエスは隣人となりご自分の命を捨ててくださいました。こうして主の日の朝、父なる神様に礼拝をささげ、友なる主イエスが自分の内に生きておられること、神の愛が内に注がれ続けていることを新たに示され、感謝することができる私たちは、神の愛を深く知らされた者です。どうか愛の乏しいこの者を憐れんでください、とさらに主イエスの前に悔い改め、愛を求めていきましょう。
あわれみ深い主イエスの愛を内にいただいている私たちは、サマリヤ人のあわれみの心を少しずつ知らされていきます。イエス様の愛をいただいた私たちは、それぞれが「あわれみ深いサマリヤ人」、小さなサマリヤ人として生きる者とされています。
このたとえの中のサマリヤ人は、自分にできることを精一杯しただけでした。倒れていた人を宿屋の主人に預けてから、自分の旅は予定通り続けました。2デナリは当時の二日分の給料でした。できることをできる形で自然に行いました。私たちも「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われる主イエスのお言葉を、自分に対して語られた励ましの言葉として心に留め、たとえ小さなことであったとしても愛のわざをなしてまいりましょう。

 

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ルカによる福音書10章1~16節

「どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。 もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。…」                  ルカ10章5-6節

序 論)イエス様のもとで訓練されていた弟子たち72人が伝道に遣わされました。(この数は創世記10章(p.10-11)に列挙されている異邦の国々の数と一致するので、将来の異邦人伝道を象徴するとの解釈もあります。)
イエス様が弟子たちを遣わされることによって…

本 論)1 主の平安が届けられる
 主イエスの先駆けとしての派遣はエルサレムへの旅において新しく始まったことです。9章のはじめにおける派遣は、神の国を宣べ伝え、病人をいやすためでした。(p.101)
ここ(10章9節)では、神の国が「近づいた」と伝えるという新しい要素が加わっています。これは、主イエスがまもなく来られることを意識した言葉です。主イエスがまもなくこの町に来られる。そのことによって神の国はあなたがたに決定的に近づいている。この主イエスを救い主として受け入れ、お迎えすることによって、神の国、即ち神様の恵みのご支配があなたがたの上に実現します、だから、イエス様をお迎えする準備をしなさい。そのように語るために弟子たちは遣わされました。
イエス様は、弟子たちを狼の群れの中に送り込まれる小羊にたとえられました(3)。また、自分の力、自分の持っているもの、自分で用意した備えによってどうにかしようとするなと言われました(4)。収穫の主である神様があなたがたの前に既に豊かな実りを用意して下さっている。あなたがたを狼の群れの中に送り込んだ神様があなたがたを守り、支え、主イエスによる救いの証人として用いて下さる。その神様の恵みの力にすべてを委ねなさいとイエス様はここ(2-4節)で教えておられます。
「平安があるように」(5)は「シャローム」というユダヤ人が普通に交わす挨拶の言葉です。しかし、この言葉は、主イエスによってもっと大きな意味と力を持つ言葉と成るりました。「平安の子」(6)は、弟子たちが宣べ伝える福音、救い主到来のメッセージを信じ、受け入れ、その「平安(平和)」を内にいただいて生きる者です。
かつてイエス様は弟子たちに「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」 (ヨハネによる福音書14章27節 p.166)と言われました。信仰者の告げる平安が、空しく消えていくただの音声ではなく、現実的に力があり、人々の中に留まり、慰め、支え、生かす言葉となるのです。それは語る私たちの力によるのではありません。主イエス・キリストが、エルサレムにおいて私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれ、復活し、天に昇られました。そのことによって実現した神の国、神様の恵みのご支配の中で、私たちに聖霊が与えられ、心に御霊の実、「愛、喜び、平和(平安)、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ人への手紙5章22-23節p.299)を結んでいきます。聖霊の力によって、私たちは力ある言葉、人を励まし、慰める言葉を語る者へと変えられるのです。

2.主の救いの言葉が伝えられる
  主イエスの先駆けとして派遣された弟子たちは、迎え入れようとしない町の人々に対して、足についたその町の埃を払い落とす、という仕方で抗議の思いを現し、「しかし、 神の国が近づいたことは、承知しているがよい。」(11)と宣言して出て行く、そのような権威を与えられていました。そのことは12節の主のお言葉にも現されています。
「ソドム」(12)は、かつて硫黄の火によって全滅した背徳の町でした。(創世記19章24節 p.22) 13-15節でイエス様は悔い改めない町々を叱責されます。「コラジン、ベツサイダ」(13)、「カペナウム」(15)はガリラヤの町です。主イエスと弟子たちによって、これらの町では神の国が宣べ伝えられ、奇跡が行われました。
しかし悔い改めてイエス様を受け入れることがありませんでした。それらの町は、あのソドムと同じように神様の怒りを受けると宣言されています(12)。「ツロとシドン」(13)は、現在のレバノンの首都ベイルートの南方の町です。(外国人(ユダヤ民族以外の人々)でさえ、神の前に悔い改めたであろうと言われたのは、悔い改めないユダヤの人々に対する叱責の言葉)
このようにイエス様が地上におられたときの宣教の働きは困難と苦難の連続でした。そして、イエス様の地上での最期は十字架の死でした。しかし、イエス様の十字架の死は、私たちの罪の罰を身代わりとなって受ける贖いの死でした。それによって全ての人が罪から救われる道が開かれたのです。父なる神様は、御子イエス様を復活させられました。そして、昇天されたイエス様は、今も信じる者に聖霊を与えて下さいます。
聖書が「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」(Ⅱコリント6章2節 p.283)と告げているように、今は、イエス様を信じる人は誰でも罪から救われ、永遠の命に生かされる恵みのときです。私たちは、皆、神様から愛され、イエス様から「わたしのもとに来なさい」と招かれている一人一人なのです。(マタイによる福音書11章28節 p.17)

結論)神様の救いにあずかるか、それとも裁きを受けるか、を分けるような働きを、主イエスから遣わされる弟子たちは委ねられています(16節)。私たちの語る言葉が、主イエスのお言葉と、さらに主イエスをお遣わしになった父なる神様のお言葉と重ね合わされています。そんな大それたことはあり得ない、私たちにはそのような権威ある言葉を語ることなどできるはずがない、と私たちは思ってしまいます。しかし、神様が豊かな恵みの御力を発揮され、主イエスの十字架と復活と昇天による救いを実現して下さり、私たちを実りを刈り入れる収穫のための働き手として派遣して下さることを信じるなら、私たちは、私たちを通して神様が語って下さり、私たちを通して主イエスの恵みのみわざが行われるという驚くべき出来事を体験していくのです。今、主イエスによって遣わされ、置かれている所で、家族、親族、友人、知人、地域の人たちの救いのために祈り、仕えていきましょう。神様は私たちの小さな祈りや愛のわざをも覚え、大きく応え、報いて下さるお方です。聖霊の力により頼んで、祈りに応えて下さる愛の神様と救い主イエス様を証しし、み言葉を宣べ伝えてまいりましょう。

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ルカによる福音書9章51~62節

イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである。」ルカ9章62節

序 論)ルカ福音書のこの箇所(9章51節~)から19章までイエス様と弟子たちのエルサレムへの旅の中での様々な出来事が語られています。今回の箇所で、イエス様が、エルサレムに向かわれる御姿、途中で出会われた三人に対して語られたことを通して、イエス様の願っておられることは…

本 論)
1.エルサレムに御顔を向けられる主
イエス様がエルサレムに上ろうと決意されたのは、天に上げられる時期が近づいたからでした。十字架の死と復活と昇天によって天に上げられる、その時がいよいよ近づい たことを主イエスは悟られ、そのことが起こるべき場所であるエルサレムへ向かう決意を固められたのです。多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして復活することへと
主イエスはまっすぐに顔を向けて歩み始められました  (22節)。
ユダヤの人たちと長年、対立してきたサマリヤ人たちは、イエス様と弟子たちを歓迎しようとはしませんでした。憤慨したヤコブとヨハネは「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。(54)と言いました。しかし、イエス様は彼らをお叱りになりました。
弟子たちは、イエス様が旧約の預言者エリヤのように天から火を呼び下す力を持ったお方だと信じていました。(列王記下1章p.519 参照)  ヤコブとヨハネの姿を通して、私たちも、怒りの気持ちや復讐の思いに支配されてしまい、時にはそれを実行しようとさえしてしまう罪ある者であることを示されます。しかし、イエス様はそのような罪ある私たちを救うためにエルサレムに向かおうとしておられたのです。
本来ならば、私たちが受けるべき「神の怒りとさばき」(「天からの火」)を主イエスは私たちの身代わりとなって十字架の上でその一身に受けて下さったのです。以前、このサマリヤの地からもイエス様を信じる人たちが起こされました。(ヨハネ4章39-42節P.141) ユダヤ人サマリヤ人だけでなく、世界中のすべての人が、イエス・キリストを信じ、真の神様に立ち返り、罪による滅びから救われることをイエス様は願っておられます。
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」
(ペテロの第二の手紙 3章9節 P.374)

2.主イエスから目を離さずに
  「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります。」(57)と自分の決意を語った人に対して、イエス様は御自分に従うことの困難さを語られました(38)。
主イエスに従っていく信仰の歩みは、自分の決意や努力によって、つまり人間の力によって実現するものではない,ということを示されます。私たちが、自分は主イエスにどこまでも従って行くことができる、などと思うこと(自己過信)は大きな傲慢なのです。
二人目の人は、イエス様の招きに従って行こうとしています。しかし、まず父親の葬りをすませたいと言いました(59)。当時のユダヤ人たちの間でも、父親の葬式を出すことは、子供としての最大の務めだとされていました。しかし、このときのイエス様は、ご自分に従うことを何より優先しなさいと仰いました。当時のユダヤの状況で、十字架に向かわれる主イエスに従っていくことは大きな困難な道を通過する覚悟が求められました。この人の姿は、「主に従うという「第一のこと」を第一にできない私たちの心の弱さや罪の姿を示しています。
三人目の人は、主イエスに従う前に、家族に別れを告げに行かせて下さいと言いました。主イエスは、家族に別れを告げに行こうとすることは、鋤に手をかけてから後ろを顧みるような未練がましいことだ、そういう思いを断ち切るのでなければ、神の国にふさわしくないと言われました。当時、地上におられた主イエスに従っていくことはそれほどの覚悟と緊急性を要することでした。
この三人だけでなく、同じように弱く罪あるすべての人私たちのためにも主イエスは十字架にかかられ、復活されました。イエス様は、私たちの弱点や欠点をすべてご存知でありそれでも私たちに「わたしに従ってきなさい。」(マタイ9章9節 P.12 ヨハネ21章19節 P.178)と呼びかけておられます。それぞれが置かれている立場や状況の中でイエス様を信じ一心にお従いしてまいりましょう。
かつて「雷の子」と呼ばれていたヤコブとヨハネでした。(マルコによる福音書3章17節 P.55) しかし、主イエスに最後まで従った彼らは、主のご愛と力によって変えられ、それぞれの立場で神様の栄光を現し、ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれるほどになりました。

結論)天に昇られ、父なる神の右の座に着かれているイエス様は私たちのために絶えず祈り、聖霊を送って下さっています。(ローマ人への手紙8章34節 P.244)
私たちは今いるところでイエス様に心を向け、呼び求め、信じ、従うことができるのです。そして、家族、知人、友人地域の人たちにも福音を伝え、イエス様を証しすることができます。主を信じ、神様を信じる私たちは、神様の祝福の中で生き、やがて地上の生涯の終わり(死のとき)を祝福の中で迎えることができ、御国に移されます。
主イエスに従い、永遠の命の道を共に歩んでまいりましょう。

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詩篇131篇1~3節

主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、
わたしはわが力の及ばない大いなる事と
くすしきわざとに関係いたしません。
かえって、乳離れしたみどりごが、
その母のふところに安らかにあるように、
わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。
わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。
イスラエルよ、今から とこしえに
主によって望みをいだけ。
             詩篇131篇1-3節

序 論)
  体の健康は大切ですが、体と心は繋がっています。忙しい現代において、心が壊れてしまわないように、幸いな人生を送るため、心が健康であるためにはどうしたらよいのでしょうか。そのために大切なことを今日の箇所から見て参りましょう。

本 論)
心配事を主に委ねる(131:1)
「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、
わたしはわが力の及ばない大いなる事と
くすしきわざとに関係いたしません。」

この詩篇の作者ダビデは、イスラエルの王として大きな責任を抱えていました。国の最高権力者でありながら、「主よ」と神様を崇め、自分にはコントロールできないことがあることを認めていました。私たちもそれぞれの立場で様々な責任がありますが、私たちは他人の気持ちや感情をコントロールできないということを認めているでしょうか。自分に出来ることと出来ないことがあることを認めることは、神様に自分自身をゆだね、心配を手放すことにつながります。いつも神様を認め、神様の恵みの中に生きたいと思います。

2.主の愛に包まれる(131:2)
「かえって、乳離れしたみどりごが、
その母のふところに安らかにあるように、
わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。
わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。」

ダビデは、赤ん坊が母親に抱かれるように平安でした。私たちも心の重荷を本当に下ろせる場所が必要です。愛なる神様は真の父であり、その神様の御前では、何の遠慮もなく全ての重荷を下ろし、休んで良いのです。神様は私たちをそのような愛で包み、無条件で愛して下さるお方です。毎朝、天のお父様の御前に出て、御言葉を通して愛されていることを確認し、日々歩んで行きたいと思います。神様が私たちの重荷を負って下さいます。

3.主によって望みをいだく(131:3)
「イスラエルよ、今から とこしえに
主によって望みをいだけ。」

今は、希望を持ちにくい時代かもしれません。自分の持っている力だけを見るならば、先が見えてしまうでしょう。しかし、全能の愛なる神様にあって私たちには希望があります。なぜなら、神様は神のひとり子イエス・キリストを十字架にかけるほどに私たちを愛して下さり、すべての失敗や罪を赦し、限りない愛で愛し続けて下さるからです。たとえ今どのような状況にあったとしても、愛なる神様は私たちを神の子としてくださり、とこしえまで真実に導いて下さいます。

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マタイによる福音書章11章28~30節

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。」
   マタイ11章28節

序 論)イエス様は弟子たちと共に、ユダヤの町々を回り福音を伝えられました。多くの人々は、イエス様のお話を聞いても悔い改めませんでした(11章21節)。宗教指導者たちは、洗礼者ヨハネやイエス様に反発し、非難しました(11章19節)。
そのような中でも、イエス様を信じる人たちが起こされ、イエス様は、父なる神様に感謝の祈りをささげられます。その後、人々に語られた言葉は…

本 論)1.わたしのもとに来なさい
     律法によって自分の罪を自覚し、罪の重荷に苦しんでいる人々に対して、イエス様は
「わたしのもとに来なさい。…」(28)と招かれました。イエス様は、約2000年前に、この地上に生きられた方です。でも、今は、目に見える姿で地上におられるわけではありません。聖書は、キリストは十字架にかかられて死に、三日目に復活し、40日後に天に昇られ、今は天におられると語っています。では、どうしたら私たちはこのイエス様のもとに行くことができるのでしょう。このマタイの福音書の一番最後のところで、イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(28章20節 p.50)と約束して下さいました。天に昇られ、父なる神様から天と地の権威を与えられた イエス様は、聖霊によっていつも私たちと共にいて下さいます。聖書のみ言葉を求め、
イエス様に心を向け、父なる神様に祈るとき、私たちはイエス様のもとに行っているのです。 私たちは、いろいろな場所に行ったり、気晴らしによって罪の重荷から解放されよとし、心の疲れを癒そうとします。しかし、それらは一時的なものです。イエス様のもとに行くことだけが、罪から解放される道です。十字架にかかり、復活されたイエス様だけが、「罪を赦す権威」を持っておられます。イエス様に罪を告白し、罪の赦しをいただくとき、罪の重荷と心の疲れがぬぐい去られます。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネの第一の手紙1章9節 p.376)

2.わたしに学びなさい
  わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。」(29節)
  キリストの謙遜とは、神が私たち人間のために、天の栄光を捨ててこの地上に降られ、私たちと同じ人間になって下さったことです。そしてこの柔和さも謙遜も、一つのことに集約しています。それは主イエスの十字架の死です。イエス様は私たちの罪をご自分の身に背負って、私たちたちの身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さいました。このキリストの謙遜によって、私たちは罪を赦されて新しく生きることができるのです。
「くびき」は二頭の家畜を並べてつなぎ、農作業をさせる時に使われる道具です。「わたし(イエス様)のくびきを負う」とは、イエス様と共に歩んでいくことです。そして「わたしに(イエス様)に学ぶ」とは、イエス様をお手本として、みならって生きることです。聖書のみ言葉から、主イエスに学びましょう。柔和で謙遜なお方である、イエス・キリストと共に歩むところには、まことの安らぎがあります。主と共に歩むとき私たちに本当の休みが与えられ、リフレッシュされて、自分に委ねられている荷をしっかりと負って生きていく新しい力を与えられます。
イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(30)と言われます。主イエスは、私より先に、くびきを負い、重荷を負って十字架への道を歩んで下さいました。イエス様と共に負うから私たちの荷は軽いのです。主が共に負って下さるから、私たちの方に重くのしかかっている荷が軽くなります。あるいはキリストが私たちの重荷を取り除いて下さり、代わりに軽い荷を背負わせて下さいます。
私たちの方から重荷がなくなってしまうわけではありません。くびきを負うからには、自分の思い通りに生きるわけにはいかないのです。イエス・キリストを信じ、従って いく信仰の歩みは、確かにあるくびきを負い、荷を負って歩むことです。しかし、それは負いやすいくびき、軽い荷です。逆に私たちがキリストのくびきを負うことを拒み、あくまでも、自分の思い通りに生きようとすると、そこでは自分の人生の全ての荷を自分一人で背負うことになってしまいます。そこにあるのは、疲れ果て、重荷にあえぎつつ、しかも休むこともできないという歩みになるのではないでしょうか。
イエス様は、私たちの重荷を共に担うことを願っておられます。重荷をイエス様のもとにおろし、休んでからイエス様と共に歩んでいきましょう。

結論)  「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
イエス様は今も、私たちにこう呼びかけ、招いておられます。主イエスのもとに行って、まことのやすらぎと平安をいただきましょう。主イエスに学ぶ、すなわち主イエスと共に歩むことは、教会において礼拝を守り、日々聖書を通して主イエスのみ言葉を常に新たに聞きながら、それに従って生活することです。そして礼拝は、私たちが、柔和で謙遜なお方であるイエス様とお出会いする場です。そこで私たちはキリストから学ぶ弟子となって共に歩みます。主イエスと共に歩むところにこそ、まことの安らぎがあります。 日々の生活の中で様々な重荷を負ってあえいでいる私たちであり、この世界ですが、その中で私たちは礼拝を守りつつ、主イエスに学び共に歩んでまいりましょう。

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ルカによる福音書9章43b~50節

「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。…」 ルカ9章48節

序 論)イエス様は、弟子たちに二度目の受難予告をされます(44)(一度目は9章21-22
節)。しかし、彼らにはその意味が理解できませんでした。さらに、彼らは主イエスに対する無理解を示してしまいます(46、49)。
主イエスが彼らに言われたことは…

本 論)1.いちばん小さい者こそ…
弟子たちの間で、自分たちのうち誰が一番偉いか、という議論が起こりました。イエス様は、「彼らの心の思いを見抜き」、一人の幼な子をご自分のそばに立たせられました。  当時の社会では、「幼な子」、「子ども」は、今のように価値ある大切な存在ではなく、無価値な、一人の人間として受け入れるに足りない、軽んじられる存在だと思われていました。主イエスは、弟子たちに、無価値な存在として軽んじられている者を受け入れることを求められました。(48)  それが主イエスを受け入れることであり、主イエスをお遣わしになった父なる神様を受け入れることになるのです。誰が一番偉いか、誰が重んじられ、中心となるべきか、という争いが起こって来る原因には、小さな一人の人を受け入れようとしない思いがあります。弟子たちの、そして私たちの心の中に、共に歩んでいる人たちの中に序列をつけ、ある人は受け入れ、ある人は受け入れようとしない、という思いがある限り、「誰が一番偉いか」という議論は際限なく起こってきます。イエス様は、軽んじられている子供を受け入れることを求めることによって、この議論の背後にある私たちの心の根本的な問題に気づかせようとしておられるのです。
「いちばん小さい者」(48)とは「幼な子」に代表される、小さな、軽んじられているような人のことです。そういう人を受け入れ、仲間として大切にすることを主イエスは求めておられます。その人が「大きい」とは、最も小さい者こそ受け入れられ、重んじられるべきなのです。主イエスのこの教えを受けて、弟子たちがそして私たちが取るべき道は、最も偉い者になろうとすることではなくて、最も小さい者を受け入れる者となることです。
イエス様は、ただ小さな者を受け入れなさいと言われたのではなく、「わたしの名のゆえに」と言われました。この言葉は、44節の受難予告でなされた「主の十字架の死」と関連付けて語られています。人々の手に渡され、苦しみを受け、十字架につけられて死なれるお方、主イエスに従い、弟子として歩む道は、主イエスの名のゆえに小さな、軽んじられているような人々を受け入れる道でもあります。

なぜなら、主イエスが受けて下さった苦しみと十字架の死は、神様が、まさに受け入れ難い罪人である私たちを受け入れて下さった出来事だからです。私たちはかつて神様に背き逆らい、その御名を汚している者でした。私たちは、無価値な、受け入れるに足りない者として、神様に軽んじられ、捨てられても当然の者でした。しかし神様はそのような私たちを愛して下さり、私たちの罪を赦し、ご自分の子として下さるために、独り子イエス様を遣わして下さいました。そして主の十字架の死と復活によって私たちを受け入れて下さったのです。その主イエスのよる罪の赦しの恵みを受け、主イエスに従っていくのがキリスト者です。私たちの歩みは、主イエスのみ名のゆえに小さな、軽んじられ、軽蔑されているような人を受け入れ、仲間として大切にするという歩みです。

2.あなたがたに反対しない者は…
  弟子のヨハネは主イエスの名によって悪霊を追い出している人を見ました。しかし、彼はその人が「わたしたちの仲間でないので」その業をやめさせました。自分たちと一 緒に行動しないことが許せなかったのです。しかし、主イエスは、ヨハネをたしなめて、「やめさせないがよい。…」(50)と言われました。私たちも自らの信仰の良心に基づいて主イエスに従っている人たちの歩みに対して、それは間違っているとか、あれはキリストに従っていない、などと言って反対してはいけません。私たちとは違う仕方でキリストに従っている人々の存在を私たちは認め、受け入れるべきです。2000年の教会の歴史に比べれば短いですが約160年の日本のプロテスタント宣教においても、様々な教派が生まれ、多くのキリスト教に基づく学校が建てられ、信仰に基づく様々な社会事業が行われてきました。それらは幅広い影響を日本の社会に与えています。それらはどれも、それぞれ違った仕方で主イエスに従い、そのみ栄えを現している働きです。
46節には弟子たちの高ぶりの罪、49節には他の人の在り方を受け入れない彼らの狭量が現れています。イエス様は「主の名によって」歩む者同士の分派抗争を厳しく戒められたのです。

結論)キリストが伝えられ、福音の前進に役立つこと、御国の拡大につながる働き、奉仕、活動をしている限り、私たちは互いの違いを認めあい、協力していくことが必要です。私たちはそれぞれが、神様の恵みに応え、自分の信仰の良心に基づいて、神様が自分に与えて下さったと信じる働きを担い、行っていきます。私のあり方と人のあり方は違うということが当然そこには起こってきます。そこで、どちらがより大事だとか、重んじられるべきだという序列をつけ始めるなら、「だれが一番偉いだろうか」という思いに支配されていきます。
イエス様が弟子たちに、そして私たちに求めておられるのは、自分とは違う仕方で
主イエスに従い、仕えている人の存在を受け入れることです。「反対しない者は味方である」というみ言葉を心に留めましょう。その根本にあるのは、私たちは十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さった主イエスを信じ、従う者だということです。受け入れ難い罪人であった私たちを受け入れて下さった神様の恵みに生きる私たちは、同じ主イエスによって神様が受け入れて下さった人々を、受け入れて、大切な仲間として共に歩むのです。

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ヨハネによる福音書14章15~21節

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」   ヨハネ14章16節

序 論)ヨハネ14章は、イエス様が十字架にかかられる前日、木曜日の夜に弟子たちに語られた言葉が記されています。今回の個所では、イエス様は聖霊について語られます。聖霊は…

本 論)1.私たちと共にいてくださる
        イエス様は弟子たちに聖霊を与えると約束されました。「助け主」(16)(「弁護者」新共同訳)は聖霊のことです。「傍らで呼ぶ」が元の言葉の元来の意味です。
私たちがどう祈ったらよいのか分からないときに代わりにとりなし、祈って下さる方。そのとき、聖霊は私たちの「弁護者」です。
私たちがどの道に進むべきか迷ってしまった、八方ふさがりになったとき、私たちを助け、励ます言葉を告げて下さる。そのときは、「助け主」となって下さいます。
また私たちが苦しみや悲しみの中にいるとき、私たちに慰めの言葉をかけて下さる。そのとき、聖霊は「慰め主」です。私たちが道を逸れそうになったり、間違ったことをしているときは、それを示して下さる方でもあります。これらはすべて聖霊の働きです。
主イエスは、「もうひとりの助け主」(16 新改訳)について何度も語られました。(14章26節 p.166 、15章26節16章7節 p.168)  「助け主」(Ⅰヨハネ2章1節 p376)であるイエス様は間もなく去って行かれます。しかし聖霊が来て下さいます。そして、このお方は、「いつまでもわたしたちと共に」いて下さるのです(16)。
主イエスは、聖霊を「真理の御霊」(17)とも呼ばれました。その真理の御霊なるお方が私たちと共にいて下さいます。「世」(主イエスを信じない人たち)は、聖霊を「見よう とも知ろうとも」しません。(17) かつての私たちもそうでした。聖書に書かれていることも、自分には関係のないことだと思っていました。しかし、今は、神様が聖書を通して、自分に語りかけて下さっていると信じて読んでいます。なぜ、そのように変えられたのでしょうか。それは聖霊のお働きによってです。
聖霊によって、私たちは、「イエスは主である」と告白しました。 (Ⅰコリント12章3節 p.270) そして聖霊によって聖書の言葉は、神の言葉として私たちに与えられます。
「私は…。あなたがたのところに帰って来る。」(18)と弟子たちに約束されたように、イエス様は十字架にかかられ死なれた後、復活されて彼らを訪ねて来て下さいました。それから50日後、ペンテコステの日に、聖霊が降りました。「助け主」なる聖霊が弟子たちのもとに来て下さったのです。  旧約時代のユダヤの王ダビデは「御前からわたしを斥けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」と祈りました。(本日の交読詩篇51篇13節 讃美歌21  p.56)   旧約時代、聖霊は神に選ばれた一部の人たちにだけ注がれ、ときには取り去られることもありました。しかし、ペンテコステ以降、聖霊はすべての人に注がれ主イエスを信じる私たちといつまでも共にいて下さるのです。

2.私たちの内に生きて下さる
  ペンテコステの日に、ペテロは人々に説教をしました。(使徒行伝2章14-36節 p.182)「…あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。」(使徒2章23-24)「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである。」(使徒2章33節)
聖霊に満たされたペテロは、ユダヤの人たち、そして礼拝のためにエルサレムに世界中から集まっていた人々に福音を語り、イエス様を十字架につけた人々の罪を厳しく指摘しました。そして、主イエスの十字架と復活を力強く証ししたのです。人々は、強く心を刺され、悔い改めました。イエス様を救い主と信じた3000人が洗礼(バプテスマ)を受けました。ペンテコステの日は世界で最初の教会の誕生の日でもありました。 (使徒2章37-42節 p.183)ペンテコステ以降は、イエス様が約束された聖霊が与えられる「聖霊の時代」であり、「恵みの時代」です。主イエスを信じる者の内に聖霊は住んで下さり、共に生きて下さっています。そして、聖霊によって、父なる神、御子イエス様が内にいて下さいます。(19-20節) 「弁護者」、「助け主」、「慰め主」なる聖霊が私たちの内におられ、私たちの歩みのすべてを導いて下さるのです。結論)ペンテコステ以降、私たちは父なる神、御子なる神聖霊なる神(三位一体の神)に導かれ、主イエスを信じる者とされました。洗礼も「父、子、聖霊の御名」によって受けました。 (マタイによる福音書28章19節 p.50) 私たちは、もはや「孤児(神なき者)」ではないのです。どんなときも、聖霊によって主イエスが共にいて下さいます。そして、神と主イエスから愛されている私たちはそのご愛を知って、神を愛し、人を愛する者へと造り変えられ、成長していくのです。

ハイデルベルク信仰問答問い1
生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは   何ですか。
答え わたしたちがわたし自身のものではなく、体も魂も生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方はご自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいまし  た。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまたご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生き  ることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。              (吉田隆牧師訳)

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