ルカによる福音書13章1~9節

「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。
(ルカ13章8-9節 p.112 )

序 論)主イエスがご自分のもとに集まって来た群衆たちに対してお語りになっているとき、何人かの人たちがイエス様のもとに来ました。彼らは、ローマ帝国の総督ピラトが、ガリラヤ人たちにしたことをイエス様に告げます。
主は答えられ、その後、一つのたとえを話されます(6-9)。この箇所のみ言葉が伝えていることは…

1 悔い改めの勧め
    ガリラヤ人たちが殺害されたのは、過越祭のときだと言われています。この祭りのときは、祭司以外の人々が自分のささげる動物を自らほふることのできる唯一の機会でした。ガリラヤ人たちもエルサレムに上り、いけにえにする動物を神殿でほふっていました。そのときピラトが彼らを危険視し、殺害しました。当時、ガリラヤは反ローマの拠点と見られていたのです。ピラトがガリラヤ人の血を「彼らの犠牲の血にまぜた」(1)というのは、彼らが礼拝し、いけにえのための動物をほふろうとしたときと、彼らが殺されたときが同時であったことを示しています。この事件をイエス様に伝えた人たちは、不幸な出来事はすべて罪の結果であると思っていました。これらのガリラヤ人も過去に何かの罪を犯していたから、こんな災難に遭ったのだと思っていました。このような考え方を因果応報 の考え、応報思想と言います。このような考えをもう一歩進めると、何かの災いに巻き込まれなかった者は、罪がないことになります。そして、不幸な出来事のニュースを聞くと、知らず知らずのうちに事故や事件にあった人を断罪したり、自分は、罪汚れのないものであるかのように思い込んでしまいます。ところがイエス様は、彼らのこのような考え方に対して決してそうではない、と否定しておられます。(ヨハネ9章1-3節p.151 参照)  そしてここでは今度は主イエスの方から、最近起こった別の出来事を持ち出されました。それはシロアムの池のそばにあった塔が事故で倒壊し、18人の死者が出た事件でした。(4) ユダヤ人とかガリラヤ人とかに関係なく事故や事件は、誰にでも起こる可能性があることを示されました。そして、それらの根本にあるのは人間の罪なのです。
罪とは、何か不幸な出来事、事件や事故があってはじめて人の前に姿を現わすような影の薄いものでは、ありません。どの人間のうちにも罪は根強くはびこっています。
特に大きな罪は、天地を創られ、ひとり子イエス様をこの世に送って下さった父なる神様のご愛を信じきれず、イエス様を受け入れないことです。
イエス様が地上に来られ、公生涯の期間に福音を人々に宣べ伝え、この時代の人々と共に生きておられる「今の時代」(12章56節)は他のときにはない、特別な時でした。
神様のご愛と人を罪から救いたいという御心がイエス様によって明らかに示された時でした。神を信じなかったり、神様から心が離れている罪を悔い改め、神様のもとに立ち返ることをイエス様は願われ、悔い改めを説かれ、勧められました(2節、5節)。
私たちが神様のご愛に気づかず、ずっと罪の中に生き続けるのなら、最後に待つのは「滅び」です。でも、イエス様を遣わして下さった父なる神様のもとに「立ち返る(悔い改める、心を向ける)」とき、私たちは、罪による滅びから逃れ、永遠の命に生かされる道が示されるのです。それは、イエス様を神の御子、救い主と信じ、心に受け入れ、主イエスに従うことです。

2 神の忍耐、主のとりなし
   次にイエス様はぶどう園に植えられた一本のいちじくの木のたとえを話されます。この木は植えられてからもう3年になりますが、実をみのらせたことがありませんでした。 ぶどう園の主人は、それが実をみのらせることを願っていました。このいちじくの木が実をみのらせること、それは主イエスが人々に求めておられる悔い改めを象徴しています。  イエス様は、このたとえで主人(父なる神様)の裁きの厳しさではなく、ぎりぎりまで待ってくださる忍耐を強調しておられます。確かに、この主人の忍耐は普通ではありません。実を結ぶのを当然期待できる年限が過ぎてからさらに三年も待ったのです。ついに実を結ばなかったいちじくを切り倒してしまうのは、ごく当然のことと言えます。
しかし、このぶどう園の園丁は三年を無駄に待った上になお、木の周りを掘って、肥しをやってみますと言います(8)。この園丁の忍耐は常軌を逸しています。イエス様は、ご自分を園丁にたとえ、神様と御自分が、人間に対して長く忍耐しておられることを語っておられます。そして、この忍耐の背後に、ご愛といつくしみがあるのです。
園丁の最後の言葉は、「私が切り倒します」ではなく、「(あなたが)切り倒してください。」(9)です。いちじくの木(わたしたち人間)を愛し、いつくしまれる園丁(イエス様) 木(わたしたち人間)を愛し、いつくしまれる園丁(イエス様)は、最終的判断をご自分では下さず、主人(父なる神様)に委ねておられます。主人(神様)の怒りと裁きを前にして、切り倒されそうになっているいちじくの木のために執り成しをする園丁、それは、悔い改めようとしない罪人である私たちのために、父なる神様との間に立って執り成しをして下さる主イエス・キリストです。この園丁、主イエスの執り成しの祈りがあるから、私たちはなお切り倒されず、裁かれて滅ぼされずに歩むことが許されているのです。

結 論)私たちは、神様の方に向きを変えることがなかなかできません。まことに頑なな、悔い改めることができない私たちです。
しかし、そのような私たちのために主イエスが人間となって下さり、十字架にかかって死んで、復活して下さいました。主イエスによって、私たちが悔い改め神様に心を向けて生きる者となる道が開かれたのです。
神様は今もイエス様を通して私たちが悔い改め、ご自身のもとに帰ってくることを今も待っておられます。神様に立ち返りましょう。
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」 (Ⅱペテロの手紙3章9節 p.374)

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ルカによる福音書12章49~53節

「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。」   (ルカ12章49節 p.111 )

序 論)弟子たちへの教えを語り続けられたイエス様は、さらにご自分の宣教の目的について語られます。イエス様がここで言われた「火」(49)は、何を意味するか、いろいろな説がありますが、「聖霊」のことを言われていると解釈することができます。主が投じられる火は…

1 罪をさばく火
「舌は火である。不義の世界である」(ヤコブの手紙3章6節 p.362)、「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ人への手紙3章5節 p.317)とあるように、私たちは 舌(言葉)で過ちを犯し、心の中には不義や貪欲、罪の火が燃えています。私たちは罪の火に燃やされながら滅びに向っていました。しかし、神様は、私たちを罪から救うために、イエス様を地上に送って下さいました。主イエスは、私たちを新しく生かす神からの火を投じるためにこの世に来られたのです。そのことによって私たちを救われることが、
イエス様の救い主としてのみわざです。
そして、この火を投じるために、ご自分には受けねばならないバプテスマ(洗礼)がある、と言われました(50)。
「それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。」(50)と言われた様に、主イエスは深く苦しまれることによってこのバプテスマを受けられます。ですからこのバプテスマは、十字架の死を意味しています。苦難と十字架の死という洗礼を主イエスはこれから受けようとしておられました。そして、そのことによって聖霊が私たちの内に投じられるのです。
罪に支配され神様に背き逆らっていた私たちは、神様の怒りの火、さばきの火によって焼き滅ぼされるべき者でした。そのさばきの火をイエス様が十字架の上で私たちに代わって受けて下さったのです。50節「それを受けてしまうまで」(口語訳)(「それが終わるまで」(新共同訳)「それが成し遂げられるまで」(新改訳))の「終える」のもとの言葉は受け身形です。火を燃やされるのも、主イエスの受けられる洗礼を成し遂げられるのも父なる神様です。主イエスの死は神様のみ心によるものでした。ご自身の独り子をこのバプテスマのために、すなわち十字架の苦しみと死のために遣わして下さったところに、神様の私たちに対する深い愛が示されています。
そして、主イエスが引き受けて下さった神様のさばきの火は、同時に主イエスを復活させ、新しい命を与える救いの火となったのです。
私たちが受ける洗礼は、主イエスによって投じられたこの神の火によって古い自分が焼き尽くされて死に、同時にその火によって新しい命を与えられて生きるという救いの徴(しるし)なのです。洗礼によって私たちはキリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命によみがえったのです。(ローマ人への手紙6章3-4節 p.240) イエス様を信じて洗礼を受けたキリスト者の内には、主イエスによって投じられた神の火が燃えているのです。

2 罪をきよめる火
     この神の火が、私たちの間に分裂、対立を引き起こすと言われます(51-53節)。家族の中で初めにイエス様を信じた人とまだ信じていない人たちの間に、見えない「壁」ができてしまうのです。はじめは誤解されたり反対を受けることもあります。それは神の火と罪の火の対立でもあります。しかし、聖霊を内にいただいて、神を愛し、隣人を愛して歩む者たちを通して、主イエスの愛が証しされ、家族や周りの人たちに神様のご愛が伝えられていきます。主イエスを信じ、受け入れる人たちも起こされてきます。隣人のために祈り、愛し、仕えてまいりましょう。
イエス様の御降誕のとき、御使いの軍勢が「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」と賛美しました。    (ルカ2章14節 p.85)
主イエスは、最終的には地上に平和をもたらすために来て下さったことを忘れないようにしましょう。
出エジプト記に出て来るモーセが出会った「燃える柴」(出エジプト記3章2-3節 p.76)について日本伝道隊の竹田俊造先生は次のように言われています。「燃える柴は聖徒(クリスチャン)の型であり、その炎は主の臨在のしるしである。…燃えているのに燃え尽きないのは、焼き尽くされるべきもの(罪)が焼き尽くされたからである。」(『燃える柴』より)
私たちは、柴のようにもろく、弱く、燃え尽きやすい者です。そんな私たちを主は聖霊の火で燃やし、 罪をきよめ、支えて下さいます。十字架を仰ぎ、聖霊により頼んで、罪のきよめの恵みをいただきながら歩みましょう。

結 論)私たちは主の十字架による罪の赦しの恵みと、主の復活により神の子として生きる新しい命の恵みをいただきました。
今も、この世の火、人間の火同士の対立の炎が世界中に広がり、私たちから平和を奪い、恐れさせ、不安にしています。しかし、だからこそ私たちは主イエスが投じて下さる聖霊の火を祈り求め、この火によって新しくされ、主のご愛と平和の中に生きてまいりましょう。

(参考)
ブレーズ・パスカル(1623-1662)の「覚え書き」
(1654年11月23日)

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。 哲学者および識者の神ならず。 確実、確実、感情、歓喜、平和。 イエス・キリストの神。 わが神、すなわち汝らの神 汝の神はわが神とならん。 神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。 人の魂の偉大さ。 正しき父よ、げに世は汝を知らず、されどわれは汝を知れり。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。 われ神より離れおりぬ。

生ける水の源なるわれを捨てたり わが神、われを見捨てたもうや。願わくはわれ永久に神より離れざらんことを。 永遠の生命は、唯一のまことの神にいます汝と、汝の

つかわしたまえるイエス・キリスト とを知るにあり。 イエス・キリスト。 イエス・キリスト。 われ彼より離れおりぬ、われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ。 願わくはわれ決して彼より離れざらんことを。 彼は福音に示されたる道によりてのみ保持せられる。 全くこころよき自己放棄。 イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従。 地上の試練の一日に対して歓喜は永久に。 われは汝の御言葉(みことば)を忘るることなからん 。アーメン。

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詩篇37篇1~9節

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ
 主が成し遂げてくださる。」
             (詩篇37篇5節 新改訳)

序 論)この詩篇は、ユダヤの人々が記憶しやすいように始まりがヘブル語のアルファベットによって区切られている、いわゆる「アルファベットのうた(いろは歌)」の型になっています。知恵の教師らによって教えられた、多くの人々が口ずさんできたものと考えられています。今回の箇所で示されることは…

1 主に信頼して善を行え
     現実の世の中では、悪人が栄え、善人が苦しんでいます。そのような現実の中で私たちはどう生きるべきなのかをこの詩篇は教えています。
「この国に住んで…」(3)(「地に住み」新改訳)とは、自分の置かれた場から逃げ出さないで踏みとどまるという意味です。そこで、神に対する誠実、人に対する誠実を養えと勧められます。
口語訳で「安き」、新改訳で「誠実」、新共同訳では「信仰」と訳されたヘブル語の言葉は、「アーメン」と同じ言葉が由来です。神様はご自身が約束されたことを決して破られることがありません。それが神様の「真実」です。そして、人から神様に対する場合は「誠実」と訳されています(主に新改訳)。
人の神に対する誠実は「神様を尋ね求める誠実」です。そして、それが「信仰」とも言えます。それゆえ新共同訳では、「信仰」と訳されています。(詩篇14章2-3節 p.758 で「神をたずね求める」 と「善を行う」が対応している)
私たちは逆境の日に、人の弱さと心の優しさ、そして互いに思いやることを学びます。また苦しみの中で、神様への信仰と人との連帯を学ぶのです。
そうした生き方ができるためには、主を自らの喜びとしていることが大切です。「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ記8章10節 p.675)
「喜び」は、自発的なところに生まれてきます。強制されているところには「喜び」はありません。喜びは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われる、主のご愛をいただき、その愛に応えて自発的に主イエスを愛し、人を愛するところに生まれてきます。

2 あなたの道を主にゆだねよ
       主に「ゆだねる」ためには、神様を知ること、神様との親しい交わりが必要です。しかし、私たちにはゆだねることがなかなかできません。ゆだねる相手が神様であっても 疑ってしまったり、神様以外のものに頼ってしまいます。ここに私たちの根深い罪があります。しかし、そんな私たちのために主イエスは十字架にかかり、復活して下さいました。主イエスを通して神様のご愛を知る時、私たちは神にゆだね、主を信頼する者に変えられていきます。
また、私たちはなかなか「主の前にもだす」(7)「主の前に静まる(新改訳)」ことがなかなかできない者です。いろいろな恐れのゆえに揺れ動いてしまいます。しかし、主に信頼し、主にゆだねることによる平安と安全を経験していく中で、主の前に静まることができる者とされていきます。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46篇10節 p.788)も同じメッセージが語られています。自分だけで戦おうとせず、主の前に出て、主と共に歩めと告げています日々の忙しい生活の中でも主の前に静まるときを持ちましょう。

結 論)「たとえその人が倒れても、全く打ち伏されることはない。」(24節)
「その人は倒れてもまっさかさまに倒れはしない。主がその手をささえておられるからだ。」(24節新改訳)
私たちはたとえ倒れることがあるとしてもまた立ち上がることができます。私たちには、愛と恵みに満ちた導きの御手、支えの御手があります。
神様は正しい者(主にお頼りする者)の人生の歩みを固くして下さり、確かな導きをもって、その人を導き、必要を満たして下さいます(25節)。
新しい年の歩み、宣教の働きに対しても、会堂建築のことに対しても、与えられたみ言葉によって主を信頼し、主に委ねて、取り組んでまいりましょう。

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ローマ人への10章14~17節

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」 (ローマ10章17節 p.246)

序 論)ローマ人への手紙への手紙9章から、パウロはユダヤ人の救いの問題について語ります。彼らは、行いによって神の前に義とされようとしましたが、それを得ることはできませんでした。パウロはこの手紙でも信仰によって義とされることを説き続けてきました。今回の箇所で示されることは

本 論)1 キリストの言葉を聞き、信じて救われた
「キリストの言葉」(17)は、福音書の中で、イエス様御自身が語られた言葉であり、
イエス様が神の御子、救い主であることを証しする言葉、福音のことです。私たちは、聖書を通して、キリストの言葉を聞きました。旧約聖書では「聞く」と「従う」という言葉は、同じ「シェマー」という言葉が使われています。ですから、単に聞くだけでなく、従わなければ本当に聞いたことにならないのです。
パウロは16節で、イザヤ書53章1節の言葉を引用しています。(旧約聖書p.1021) イザヤ書53章は「主の僕の歌」と呼ばれ、ここで歌われている僕は「苦難の僕」と呼ばれています。パウロは、この主の僕の歌がイエス・キリストにおいて現実となったと語ります。苦難を受け、十字架にかかって死んだ人を、救い主(メシヤ)として信じ、受け入れることは当時のユダヤの人たちには難しいことでした。彼らは、ローマ帝国の支配から武力によって、解消してくれるメシヤを待ち望んでいたからです。
しかし、パウロは、十字架にかかられ、復活されたイエス様こそが唯一の本当の救い主であることを証しし、宣べ伝えていきました。そして、ユダヤ人以外の人たち(全世界の人たち)にも福音が伝えられ、イエス様を救い主と信じ、受け入れる人たちが次々に起こされてきたのです。自分が、神の前に罪ある者であると認め、この私の罪のために
主イエスは十字架にかかって復活して下さったと信じ、イエス様は私の救い主です、と告白する者は救われるのです。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」        (ローマ人への手紙10章9節 p.246)
そして、自分の罪を認め、主イエスを信じることができるのは、聖霊によるのです。 「…、また聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということはできない。」        (Ⅰコリント12章3節 p.270)
主イエスに信頼し、主の御名を呼び求めるものは、だれでも救われるのです。

2 私たちも主から遣わされた者
パウロは主イエスから遣わされた者であるがゆえに宣 べ伝えることができました(11)。   牧師や宣教師だけでなく、キリストの救いにあずかった 私たちは皆、主から遣わされた者であり、神様がそれぞれの地に置いて下さっているのです。
パウロは、15節後半でもイザヤ書の言葉を引用しています。これは、イザヤ書52章7節の言葉です(p.1020)。ここでの「良い知らせ」は「あなたの神は王となられた」  ことです。主なる神がシオン(エルサレム)で王となられ、バビロンに捕らえ移されている民を故郷に連れ帰って下さる、その救いの知らせを伝える者の足は何と麗しいことか、と歌っています。
パウロはこの言葉を、神によって遣わされた人がキリストの言葉を宣べ伝えることを語った後に引用しています。その人が宣べ伝えるキリストの言葉は、捕囚の民の解放宣言以上に喜ばしい知らせなのです。それは罪からの解放を伝える言葉だからです。   そして、福音を伝える人の足(その人の存在そのもの)は麗しい(「美しい」(新共同訳))のです。それは、私たちが伝え、持ち運ぶ、福音、キリストの言葉そのものが尊く、麗しいものであるからです。

結 論)伝道すること、人を訪問すること、奉仕すること等、それらは、とても大切なことです。でも、まず神様の前に出て祈り、主との霊的な交わりを深め、聖書のみ言葉を聞き、黙想し、心に留めていくことが最も大切です。
主との交わりの中でキリストから受け取った愛とみ言葉をたずさえて、他の人に、周りの人に対していきましょう。
新しい年、忙しい日々の中にあっても聖書のみ言葉をじっくりと読む時間を取り、黙想し、 主との交わりを深めつつ、福音に生かされて主と教会と地域の人たちのため仕えてまいりましょう。

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ルカによる福音書2章22~35節

「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。」              (ルカ2章29-32節 p.86)

序 論)イエス様がお生まれになってから40日後、両親のヨセフとマリヤはイエス様を連れてエルサレムに上り神殿で犠牲をささげました(22-24節)。(23節は出エジプト13章2節 p.92  24節はレビ記5章7、11節の律法の引用)
そのとき神殿に来ていたシメオンは…

本 論)1 聖霊に導かれて救い主にお出会いした
   シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた(25)のです。神様の慰めと、救いを願い、どれほど祈り、待ち望んできたことでしょう。彼に「聖霊が宿り」(25)、 救い主にお出会いするまでは死ぬことはないという約束を聖霊によって与えられていました。彼は、エルサレム神殿で両親に抱かれた赤ん坊のイエス様を見て、腕に抱いて神様をほめたたえました。
私たちも人生の中にいろいろな苦しみや悲しみや不安があります。でも、その中で、いつか希望の光が見出されることを待ち望んで歩んで来ました。そのような中で、神様の霊(聖霊)に導かれて、聖書の言葉に出会い、真の神様を知り、イエス様にお出会いすることができたのです。イエス様は「わたしは世の光です。」(ヨハネ8章12節 新改訳)と言われるように、闇のように思える世に輝く唯一の希望の光なのです。
シメオンは「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます。」(29)と言いました。「あなた」とは主なる神様です。主にある平安は、人との関係や自分の力で得るのではなく、神様が与えて下さるものです。主イエスが仲保者となられることによって神様と自分との間に「あなたと私」という一対一の関係が与えられ、その神様によって安らかさ、平安、慰めが与えられるのです。

2 聖霊によって十字架の救いを預言した
  「シメオンの賛歌」(29-32)は、長年待ち望んでいた救い主と出会い、生涯最大の目的を果たし、安心して平和のうちに世を去ることができる喜びを歌っています。また幼子イエス様を腕に抱きながらの賛美は、神の救いが、この方が地上に来られたことによってなされるという高らかな宣言でもありました。さらにシメオンはこの幼子による救いが「万民のまえにお備えになったもの」であり、「異邦人を照らす啓示の光」(31-32)であると宣言しました。シメオンは聖霊によって、この幼子が全世界の救い主であることを示されました。そして、救い主が、このイスラエルの民の中から出現したことは「み民イスラエルの栄光」(32)でした。このような預言はヨセフとマリヤをとても驚かせました。
さらに驚くべきことは、シメオンがこの幼子がやがて体験することになる受難を予告したことでした。そのことを母マリヤに祝福と共に語ります。(34-35節)。
「多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせたりする」
イエス様を救い主として信ずることができず、受け入れない人たちは、つまずいてしまいます。しかし、イエス様を信じ、受け入れる人は、絶望から新たに立ち上がることができるのです。
イエス様は、イザヤが預言したように「万軍の主から与えられたしるし」(イザヤ書8章18節 p,953)でした。しかし、多くのイスラエルの民は、イエス様を受け入れず、十字架に追いやったのです。主は「反対を受けるしるし」(34)となられました。
イスラエルの民たちのイエス様に対する拒絶とイエス様の死は、悲しみの「剣(つるぎ)」となって、母マリヤの「胸(心)を刺し貫き」ました。
そして主イエスの言動と十字架の死によって、「多くの人の心の思い」、罪が明らかにされました。神に背を向け、反抗し、神を愛することができず、人を愛することができない私たちの罪を主イエスが背負われ、私たちのために十字架で死なれ、私たちの救い、万民の救いを実現して下さったのです。

結 論)シメオンの預言は後に現実となり、主イエスは十字架と復活によって、万民のための救いを成し遂げて下さいました。
イエス様を信じ、心に受け入れ、従って歩む者は、主にある平安と祝福の中で歩むことができます。地上の人生が終わるときも、祝福の中で、御国へ移されるのです。
今年一年を振り返りその恵みを数え、主に感謝し、新しい年を迎えましょう。
シメオンのように主にお出会いできた恵みを覚え、感謝と喜びをもって主を賛美しつつ、新たな歩みをなしてまいりましょう。

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ルカによる福音書11章45~54節

「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」 (新約聖書 ペテロの第一の手紙2章24節 p.368)

序 論)主イエスはパリサイ人に対して、三度「あなたがたは、わざわいでる。」(42、43、44)と叱責され、まず内側(心)をきよめなさい、と言われました。次にイエス様は律法学者に対して語られます。主が語られたこととなされたことは…

本 論)1、預言者を受け入れなかった人々
 主イエスは律法学者に対しても、「あなたがたは…わざわいである。」(46、47、52)と三度、叱責されました。律法学者は「これは律法違反になるかならないか」「このことについて律法はどう教えているか」を判断する役目を担っていました。モーセ律法(十戒等)以外にたくさんの掟(口伝律法)を作って「律法に従うためにはこうしなければならない」と命令し、人々の自由を奪っていました。さらに、自分たちに都合のよいように律法を解釈していたのです。彼らは律法を重荷にして人々に負わせてしまいました。主はそれを「負いきれない重荷」(46)と言われました。
また、律法学者たちは殺された預言者たちを記念しその業績を偲ぶ碑(墓)をあちこちに建てていました。そうして自分たちが昔の預言者たちを尊敬していることを示そうと しました。しかし預言者たちを記念するなら、預言者たちが語ったように神の言葉に聞き従うべきであり、今、彼らの目の前におられる預言者以上のお方、イエス様の語られる言葉に素直に耳を傾け、主を救い主として受け入れるべきでした。しかし、彼らは、そうすることができなかったのです。彼らは、預言者を迫害した人々と同じことをしていました。
49節では旧約聖書の特定の箇所の引用ではなく、旧約の歴史を通して神様が今まで、なされてきたことを「神の知恵」と表現し、イスラエルの人々が預言者や使徒たちに対してしてきたことが一文に要約して語られています。
次に主イエスは、殺された全ての預言者の血の責任が、今の時代の者たちに問われるのだと言われます(50-51節)。その殺された預言者の代表として、アベル(創世記4章1-16節 p.4)とザカリヤ(歴代志下24章17-22節 p.632 この箇所では「祭司エホヤダの子ゼカリヤ」と表記されている)が挙げられています。ここでは、アベルは最初の預言者、殉教者として扱われています。ゼカリヤは、み言葉を語ったため、それを受け入れない人々によって殺されました。旧約時代を通して神様のみ言葉を語ったことによって殺された人々の血の責任が、「この時代(の人々)」に問われると主イエスは仰ったのです。
「知識のかぎ」(52)は、聖書の意味を解き明かす鍵、神の救いの計画に関する知識を明らかにする鍵のことです。聖書と神の世界が「知恵の家」にたとえられています。(箴言9章1節 p.890) パリサイ人や律法学者たちは、自分たちが「知識のかぎ」を持っていると自負し誇っていました。しかし、真にそれを持っておられるのはイエス様です。(「神の知恵たるキリスト」(Ⅰコリント1章24節p.257) 私たちはイエス様の言動を通して、父なる神様がどのようなお方かを知るのです。

2、主ご自身が私たちの罪の責任を負われた
 パリサイ派の人々や律法学者たちこそ、かつて預言者を殺した者たちの子孫であることを自ら顕わしてしまいました。イエス様に対して敵意を増大させ、昔の人々と同じことをしようとしていたのです(53-54節)。今回の箇所(46-52節)は、本来は神様の愛と祝福の現れである律法やみ言葉を、彼らが御心とは違うものへねじ曲げ重荷に変えてしまっている人々に対する主イエスの怒りが語られています。
「アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。」(50)
と主イエスは言われました。そのように語られた主イエスはどうなさったのでしょうか。主は、パリサイ人たちや律法学者たちの激しい敵意によって、捕らえられ、十字架につけられて死なれたのです。主イエスもまた、殺された預言者の一人に加えられました。しかし、イエス様を捕らえ殺した人々が、そのことの責任を問われて神様の裁きを受けたとは、福音書のどの箇所にも語られていません。
では、「この時代がその責任を問われる」というみ言葉はどうなってしまったのでしょうか。その責任は誰に問われたのでしょうか。驚くべきことに、主イエスご自身がそれを引き受けて下さったのです。神様のみ言葉を拒み、捻じ曲げ、預言者を受け入れない私たちすべての人の罪の責任を、主イエス・キリストご自身が引き受け、背負って十字架にかかって死なれました。そのことによって、私たちに罪の赦しと新しい命が与えられました。私たちは、この主イエスの十字架による罪の赦しの恵みの中で生かされています。

結 論)主イエス・キリストを信じ、従う歩みは、負いきれない重荷を背負わされてあえぎながら生きるような喜びのない歩みではありません。またみ言葉を守るべき掟とだけ思い込んで、自分がそれをどれだけ守っているかに一喜一憂し、他の人と自分をいつも見比べながら、人間ばかりを見つめて生きるのでもありません。私たちは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストをこそ見つめて生きるのです。そのことによってこそ聖書に記されている神様のみ言葉を恵みのみ言葉として読み聞くことができます。
私たちは、神の恵みのみ言葉を、単なる倫理道徳の教えへとねじ曲げ、自分にとっても隣人にとっても裁きの言葉、重荷へと変えてしまう傾向があります。それは私たちの内に根深く残っている間違った捉え方です。
しかし、主イエスはその誤りからも私たちを解放して下さいます。私たちは主イエスによって与えられた救いの恵みに感謝し、喜びをもってそれに応答していく信仰の生活を送っていくのです。

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ルカによる福音書11章37~44節

「愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。 ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」(ルカ11章40-41節)

序 論)イエス様があるパリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いておられました。その前にイエス様が身を清めることなさらなかったので、このパリサイ人は不審に思いました。主イエスは彼に向かって語られます。主が伝えようとされたことは…

本 論)1、神の愛をいただいて内側がきよめられる
 イエス様はパリサイ派の信仰のあり方を厳しく批判されました。外側ばかりを懸命にきれいにするが、内側は汚れに満ちているのがあなたがたの姿だと言われたのです(39)。 「外側と内側」(40)は私たち人間の外側と内側、外面と内面、人に見える部分と心の中をたとえておられます。私たちの外側も内側も神様が創造されました。(創世記2章7節 p.2 参照) 土の塵で造られたのは私たちの外面、肉体です。「外側をつくった方」(40)、創造主なる神様はそこに命を吹き入れることによって、私たちを生きる者として下さいました。それは、私たちに内面、魂を与えて下さったということです。
詩篇103篇1節は「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。(p.838)と歌っています。土の塵で造られた人間に「内なるもの(魂)」が与えられており、その魂において神様との交わりに生きることが歌われています。私たちは外側も内側も神様によって造られた者であり、特に内側、魂において、神様との交わりに生きるべき者です。罪によって神様との交わりを失い、隣人とのよい交わりも失い、本来の喜びを失っていた、私たちのために主イエスは、この世に来て下さいました。私たちの罪を身代わりになって背負い、赦しを与えて下さるために主イエスは十字架にかかられ、復活されました。主イエスを信じる者に神様は聖霊の息吹を注いでくださいます。 (ローマ人への手紙5章5節 p.238 参照)
私たちは自分で自分の内側をきよくすることはできません。主イエスを通して、神様のご愛に触れ、聖霊によってきよめられるのです。神様の恵みをいただき、自分に与えられたものを感謝して用いていくことによって、全てのものがきよいものとなるのです。

2、光によって自分の罪を認め、悔い改めること
 「あなたがたはパリサイ人は、わざわいである。」と主イエスは三度繰り返して語られています(42,43,44節)。自分の得た収穫の十分の一を神様にささげるべきことが律法に定められています。(レビ記27章30-33節 p.180 民数記18章26節 p.213 等)主イエスはこの定めをどうでもよいとか、こんなものは守らなくてよいとは決して言っておられません。
しかし、ここでイエス様は、パリサイ派の人たちが、「薄荷、芸香、あらゆる野菜の十分の一」を量って宮に収めながら「義と神に対する愛とをなおざりにしている」ことを問題にしておられます(42)。それでは、外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じになります。彼らは律法のもっとも大切な教え、神を愛し、隣人を愛するという「愛」を失っていたのです。(ルカによる福音書10章26-28節 p.104)
また会堂で上席に着くとか広場で挨拶されるというのは人々に尊敬され、一目置かれることです。神様の教えを語っている人に対してそういうことが自然に起こって来ることはあります。しかしここでは、そういうことを「好んでいる」(42)とあります。人に褒められ、尊敬され、重んじられることが結果ではなく、目的になっています。彼らは自分の誉れ、栄光を求めていたのです。それも外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じです。神様との関係における義と愛をないがしろにし、むしろ自分の誉れを求めています。
そのことが一つのたとえによって語られています(44)。律法には、死体に触れた者は汚れるという教えがあります。(民数記19章11節 p.214)それゆえにユダヤ人たちにとって、死体を葬る墓というのは汚れた場所でした。だから間違って墓の上を歩いたりして汚れを身に受けることがないように、墓には「ここは墓である」ことが分かるような目印を付けました。ところがここでは「人目につかない墓」と言われています。人目につかないのでそこに墓があるということが分からずにその上を歩いてしまって汚れた者になっている。つまり「人目につかない墓」とは、見た目には汚れていないように見えて実は人を汚すものを表すたとえです。
パリサイ派の人々は、神様に従って生きる生活を教えているように見えて、実は神様ではなく自分の誉れのために生きる人間を作り出していたのです。「内側は貪欲と邪悪とで満ちている」(39)と言われたのはそのことを指摘しておられたのです。パリサイ人たちが私利私欲に走り、神様を利用して金儲けをしていたわけではありません。しかし、彼らは自分の清さ、正しさ(義)を求めることによって、自分の栄光を追い求め、人よりも立派な者になることに誇りと喜びを見出すような生き方に陥っていたのです。私たちも自分は信仰者らしくきちんとやっているという誇りと自負が強まり、それに比べてあの人は…、という人への批判や軽蔑が生まれます。このような信仰のありかたはまさにパリサイ派の「律法主義」そのものです。そこには主イエスがおっしゃたように、外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているような、建前だけの、病んだ、屈折した喜びのない生き方しか生まれません。
そのような状態に陥っていたパリサイ人たちに対して主イエスは「わざわいだ」と言われました。これは彼らに対する厳しい叱責と批判が込められた言葉です。(英訳ではwoe や alas)それと同時に、「あなたたちのことを考えると、私の胸は張り裂ける!」という悲嘆、悲痛の意味も込められた言葉です。主イエスはパリサイ派の人たちに対しても、彼らがイエス様の言動を知り、そのご愛に触れ、自分の罪を認め、悔い改めて、ご自身を信じ、受け入れることを願っておられました。今も、主イエスは私たちに対して、罪を悔い改め、ご自身のもとに来ることを願っておられます。

結 論)主イエスを信じ、聖霊による愛を内にいただいた私たちは大胆に神様に信頼して歩むことができます。自分の誉れや評判のためではなく、心から隣人を愛し、仕えることを喜びとする者とされます。ペンテコステの日に弟子たちに降られ、教会を誕生させられた聖霊なる神様が、今、私たちにも降り、新しい命の息を吹き込んで下さっています主イエスは私たちを、外側をきれいにしても内側は貪欲と邪悪に満ちているような生き方から解放して下さり、喜んで大胆に神様と隣人を愛して生きる者として新しく生かして下さるのです。

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使徒行伝22章6~10節

旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照した。わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。 わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。
(使徒22章6-10節)

序 論)あなたが憧れの芸能人やスポーツ選手と5分間お話できるとしたら、何をその方とお話するでしょうか?
 私たちはこの世のどんなスターよりも偉大な方である神様、イエス様と無限にどんなことでも語り合うことができます。しかし、実際のところ、私たちは何を語ったらよいかわからない者ではないでしょうか?
今日の箇所に見る使徒パウロの祈りは、私たちが神様、イエス様にどんなことを祈ったらよいかを教えてくれます。パウロの人生を変えた三つの祈りから、私たちの人生をも変え得る祈りを学んでみましょう。

本 論)1、主よ、あなたはどなたですか
 パウロの人生を変えた第一の祈り、また私たちの人生をも変える第一の祈りは、8節の「主よ、あなたはどなたですか。」という祈りです。皆さんはこの祈りをささげたことがおありでしょうか?
私は岩手県の田舎に生まれ、幼少時代は豊かな自然と大家族の中で何不自由なく育ちましたが、小学校に入ってからいじめに遭い、苦しみの日々が延々と続いていきました。
しかし、中学2年生の時、いじめの事実に気づいてくれた担任の先生の指導のお陰で、私は彼らから解放され、ついに自由に生きられるようになったのです。「これで私は幸せになれる」と思いましたが、しばらくこのような生活をする中で私は「どのように生きたらいいのか」という新たな悩みを抱えることになりました。
そんな中、たまたま訪れた書店で1冊の本が目に留まったのです。それは、三浦綾子さんの「塩狩峠」という本でした。この本を読んだ時、私は伝道者が語った十字架上でのイエス・キリストの言葉を通して、この方が「私の人生の導き手である」ことを確信することができ、私はこの方を信じ、この方に人生をささげることを決意したのでした。その時私は不思議な平安と喜びに満たされ、その後イエス様は私の人生を最善に導いてくださいました。
主が自分にとってどんな方かをはっきりと知る時、私たちの人生は必ず変わります。パウロがささげた「主よ、あなたはどなたですか。」という祈りをささげ、その答えをはっきりと受け取らせていただきましょう。

2、主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか
 パウロの人生を変えた第二の祈りは、また私たちの人生をも変える第二の祈りは、10節の「主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか」という祈りです。
私たちは「~をください」「~してください」のような自分の願いを聞き届けてほしいという祈りばかりをささげてしまいがちですが、この祈りは「私に対する主の願いは何ですか? 私はそれを知り、そのことを行いたいのです」という祈りです。
この祈りをささげる時、「起きあがってダマスコに行きなさい。」という御言葉のように、主は次になすべき一つのことを示してくださいます。そして、それに忠実に聞き従った時、主はまた次になすべきことを示して下さり、このようにして私たちは主の望まれる道をまっすぐに歩んでいくことができるのです。ですから、私たちにとって大切なことは一歩一歩の聞き従いです。
今日の朗読箇所の後で、主は私たちにしてほしいと願っている二つのことが記されています。
一つはバプテスマ(洗礼)です。(16節)主はご自身と出会ったすべての人に、信仰告白をし、バプテスマを受けることを望んでおられます。
もう一つは伝道です。(15節)主はご自身と出会ったすべての人に、全世界のすべての人々に対して証人となることを望んでおられます。

3、主よ、・・・・・・・・・・・・
 パウロの人生を変えた第三の祈りは、また私たちの人生をも変える第三の祈りは、19、20節の「主よ、・・・」という長い祈りです。この祈りは「自らのマイナスをさらけ出す祈り」と言うことができます。
第二の祈りで学んだように、主は私たちに伝道することを望んでおられます。しかし、伝道する方法はいろいろあります。牧師や宣教師のようなフルタイム奉仕者もいれば、主婦やビジネスマンとして証しする人もいます。今いる所で証しする人もあれば、国内や海外の別の場所に遣わされて証しをする人もいるでしょう。私たちそれぞれがどのような形で伝道したらよいか具体的な方法を知ることができるのは、この自らのマイナスをさらけ出す祈りをささげた時なのです。パウロを初め、主に豊かに伝道のために用いられた人たちは、みなこの祈りをささげ、自分にしかできない伝道の方法、つまり「自らのマイナスがマイナスにならず、自らのプラスだけが発揮されるような伝道方法」を主から教えていただいたのです。パウロの場合は「あなたを遠く異邦の民へつかわす」(21節)と言われ、異邦人伝道に召されることになりました。
私は東京開拓伝道に遣わされる時、この自らの弱さをさらけ出す祈りをささげました。「こんな自分が東京で開拓伝道などできるのでしょうか」と本気で主に祈ったのです。その祈りの格闘の中で主は「あなたの手にあるそれは何か」(出エジプト4:2)と語ってくださり、自分の手の中にある「杖」がそれを可能とすることを示してくださいました。そこで、私が「その杖とは何ですか」と続けて祈った時、主はその杖が自分が救われるきっかけとなった「三浦綾子さん」であることを示してくださり、こうして「三浦綾子読書会」が東京からスタートすることになったのです。
三浦綾子読書会の働きを通して東京開拓伝道は見事に成し遂げられ、その後には私が想像すらできなかった国内、海外各地での伝道の働きが豊かに開かれていきました。 

結論)今日は使徒22章のパウロの祈りから、私たちの人生を変える三つの祈りを学びました。
「主よ、あなたはどなたですか」
「主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか」
「主よ、・・・・・・・・・・・・」
是非これらの祈りを主にささげてみてください。そして、その祈りに対して主が語られたことに真摯に応答してみてください。必ずや皆さんもパウロのように豊かに変えられ、豊かに用いられることになるでしょう。

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ルカによる福音書11章33~36節

「だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。(ルカ11章35-36節)

序 論)イエス様は、「天からのしるし」(16)を求めてくる群衆に対して答えられました(29-32)。主イエスはご自分がソロモン王や預言者ヨナよりもまさった者であり、ご自身がしるしであることを示されました。さらに、「あかり」、「目」、「内なる光」の三つのたとえを語れらます。主が伝えようとされたことは…

本 論)1、「世の光」なる主
ここで言われる、「あかり」(11)は、この罪(闇)の世に来て下さった、イエス様ご自身と受け取ることができます。イエス様は、「わたしは世の光である。」(ヨハネ8章12節 p.151)と言われました。父なる神様は、世の人々がイエス様を信じ、受け入れることを願ってイエス様を送られました。イエス様もご自分の言動を通して、ご自分が救い主であることを明らかにされたのです。
しかし、律法学者、パリサイ人たちは、イエス様を受け入れることができませんでした。  当時は、多くの人は目から光が出て、ものが見えると考えていました。目があかりの役割を果たしていると思われていたのです。目から光が入るという考え方もありまし た。この箇所(34-36)は、これらの両方の考え方が反映されています。「目が澄んでいる」(34)と訳されている原語は「単純である(英語ではsingle eye)」という意味です。それは、一つのもの、見つめるべきものをしっかりと見ているということです。反対に「目が悪い」(34)は見るべきものがよく見えていないという意味です。
ここでの「目」は肉体の目ではなく、「霊的な目」、真理を受け入れる心を意味しています。この目は、輝いている「あかり」の光を受け止める器官です。私たちが、イエス様を救い主と信じ、心に受け入れるなら、「全身も明るい」(34)、すなわち「あかり」によって全身が照らされ、明るくなります。それは、主と共に「光の中を歩む」ことができるようになるからです(Ⅰヨハネの手紙1章7節p.376) しかし、目(心)があかりの光(イエス様)を受け止めることができないと、あかりが輝いていても、その人の世界は暗いままなのです。
ここで大切なことは、「あかり」は私たちの外に輝いていて、私たちは「目(心)」によってそれを受け止めることです。
私たちはすぐに不安や怒りや嫉妬などの暗い(闇の)思いに支配され、全身が暗い闇に覆われてしまいます。苦しみ、悲しみ、不幸の中でも自分の全身を明るく照らす光を私たちは、自分の力で持つことはできません。その本当の光は私たちの外にあります。私たちはその光を受け止める目を持たなければなりません。目が悪ければ、その光が輝いていてもそれに照らされることができないのです。

2、み言葉と内なる光
 「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節 p.859)とあるように、聖書の「光」は「み言葉」をも意味しています。私たちの外に輝いている光、それは主イエス・キリストが与えて下さった神様のみ言葉です。このみ言葉のみが、主イエスの十字架と復活による救いを私たちに告げています。それは、神様が独り子イエス・キリストの命をすら与えて私たちを罪の支配から解放して下さり、神の子として新しく生かして下さるという恵みです。この恵みのみ言葉を聞き、しっかりと受け止め、それに聞き従うことによってこそ、私たちはキリストによる恵みの光に全身を明るく照らされて生きることができるのです。しかし、そのそのみ言葉を受け止めて聞き従うことをせず 当時の群衆のようにしるしや証拠だけを求めていったり、パリサイ人たちのように自分の薄っぺらい知識や、限られた範囲でしか通用しない人間の常識によって主イエスを試そうとするならば、キリストによる恵みの光に照らされることはできません。
南の国の女王やニネベの人々は、澄んだ目で神様のみ言葉の光を受け止め、それに従っていった人々でした。それに対してしるしを求めていた当時の人々は目が悪くて光を しっかりと受け止めることはできませんでした。(29-32)
「だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。」(35)  これは自分の中にもともと持っている光が消えてしまわないように気をつけなさい、ということではなく、目が悪くなることによって私たちの外に輝やいている神様のみ言葉の光を受け止めることができなくなり、その結果私たちの内にある光が消えてしまわないように注意しなさいという意味です。そして、いつも澄んだ目でまっすぐにみ言葉の光を見つめ、それに照らされて歩みなさいと言われています。
私たちが自分の内に光を持つことができるのは、自分を磨き、人格を高めて、自分の内から光を放つことによってではありません。それは、目(心)をまっすぐにみ言葉の光 へと向けることによって、「神の言を聞いてそれを守る」(28)ことによってです。そして、私たちの内に神の御子イエス様を受け入れることによって、私たちは神様の聖なる霊の住まい、聖霊の宮となるのです。

結 論)私たちの目がみ言葉の光をしっかりと見つめているなら「ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなる」(36)のです。み言葉の光に照らされるとき、私たちは自分が光の中を生きることができるだけでなく、周囲をもその輝きで照らすことができるのです。
「あかり」は「はいって来る人たちに、そのあかりが見えるように燭台の上に」(33)置かれます。私たちが輝かす光は、「入って来る人たち」に道を示し、その足元を照らすのです。それは、主イエス・キリストを救い主と信じ、その救いにあずかる者の群れである教会に新たに招かれて来る人、キリストの救いの中へと導かれて来る人です。
み言葉を求め、み言葉の光に照らされ、キリストとの交わりを持ち共に生きる人は、まことの光へと世の人々を招くあかりとなるのです。

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エレミヤ書29章10~14節

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。(エレミヤ書29章11節)

はじめに
日本は世界3位の経済大国であり、衛生面・経済面においても、他国より優れています。しかし、日本人の多くが心に平安がなく、将来に不安を抱えている状態です。それは真の神を離れ、幸せの秘訣である神の戒めに背いているからです。

Ⅰ.幸せの秘訣は、神の戒め
神はイスラエル民族を幸せにするために、彼らと契約を結び、戒めを与えられました。しかし、彼らは神との契約を忘れ、戒めを捨てたため、神の裁きを受けたのです。彼らが70年間、バビロンで捕囚にされたのは、実に神の裁きであり、神の計画だったのです(10)。現代も、人や国家が神の戒めを破るほどに、破綻しているのを見る事ができます。

Ⅱ.神の計画は、平安と希望
しかし、神は、イスラエル民族を御前に招かれ、彼らに回復の計画を約束されました(11)。全ての人は、神を無視して、神の戒めを破り、律法の呪いと神の怒りの中にいます(10)。しかし、神は全ての人が罪を悔改め、福音を信じて、罪赦され、平安と将来を与える神の計画に従って歩んで欲しいと願っておられます。神の招きに応えましょう。

Ⅲ.心を尽くして、神を求める
そして、人が罪を悔改めて、いつも神に祈り(12)、心を尽くし(13)、聖霊の助けによって、神の戒めに生きたいと願うなら、神は応えて下さいます(14)。神は、主イエスの福音を通して、私達の心を新たにし、神の御言葉に従う心を徐々に与えてくださるのです。そして、私達を将来と希望を与える計画に従って、永遠の天国まで導いて下さいます。

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