使徒行伝22章6~10節

旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照した。わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。 わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。
(使徒22章6-10節)

序 論)あなたが憧れの芸能人やスポーツ選手と5分間お話できるとしたら、何をその方とお話するでしょうか?
 私たちはこの世のどんなスターよりも偉大な方である神様、イエス様と無限にどんなことでも語り合うことができます。しかし、実際のところ、私たちは何を語ったらよいかわからない者ではないでしょうか?
今日の箇所に見る使徒パウロの祈りは、私たちが神様、イエス様にどんなことを祈ったらよいかを教えてくれます。パウロの人生を変えた三つの祈りから、私たちの人生をも変え得る祈りを学んでみましょう。

本 論)1、主よ、あなたはどなたですか
 パウロの人生を変えた第一の祈り、また私たちの人生をも変える第一の祈りは、8節の「主よ、あなたはどなたですか。」という祈りです。皆さんはこの祈りをささげたことがおありでしょうか?
私は岩手県の田舎に生まれ、幼少時代は豊かな自然と大家族の中で何不自由なく育ちましたが、小学校に入ってからいじめに遭い、苦しみの日々が延々と続いていきました。
しかし、中学2年生の時、いじめの事実に気づいてくれた担任の先生の指導のお陰で、私は彼らから解放され、ついに自由に生きられるようになったのです。「これで私は幸せになれる」と思いましたが、しばらくこのような生活をする中で私は「どのように生きたらいいのか」という新たな悩みを抱えることになりました。
そんな中、たまたま訪れた書店で1冊の本が目に留まったのです。それは、三浦綾子さんの「塩狩峠」という本でした。この本を読んだ時、私は伝道者が語った十字架上でのイエス・キリストの言葉を通して、この方が「私の人生の導き手である」ことを確信することができ、私はこの方を信じ、この方に人生をささげることを決意したのでした。その時私は不思議な平安と喜びに満たされ、その後イエス様は私の人生を最善に導いてくださいました。
主が自分にとってどんな方かをはっきりと知る時、私たちの人生は必ず変わります。パウロがささげた「主よ、あなたはどなたですか。」という祈りをささげ、その答えをはっきりと受け取らせていただきましょう。

2、主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか
 パウロの人生を変えた第二の祈りは、また私たちの人生をも変える第二の祈りは、10節の「主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか」という祈りです。
私たちは「~をください」「~してください」のような自分の願いを聞き届けてほしいという祈りばかりをささげてしまいがちですが、この祈りは「私に対する主の願いは何ですか? 私はそれを知り、そのことを行いたいのです」という祈りです。
この祈りをささげる時、「起きあがってダマスコに行きなさい。」という御言葉のように、主は次になすべき一つのことを示してくださいます。そして、それに忠実に聞き従った時、主はまた次になすべきことを示して下さり、このようにして私たちは主の望まれる道をまっすぐに歩んでいくことができるのです。ですから、私たちにとって大切なことは一歩一歩の聞き従いです。
今日の朗読箇所の後で、主は私たちにしてほしいと願っている二つのことが記されています。
一つはバプテスマ(洗礼)です。(16節)主はご自身と出会ったすべての人に、信仰告白をし、バプテスマを受けることを望んでおられます。
もう一つは伝道です。(15節)主はご自身と出会ったすべての人に、全世界のすべての人々に対して証人となることを望んでおられます。

3、主よ、・・・・・・・・・・・・
 パウロの人生を変えた第三の祈りは、また私たちの人生をも変える第三の祈りは、19、20節の「主よ、・・・」という長い祈りです。この祈りは「自らのマイナスをさらけ出す祈り」と言うことができます。
第二の祈りで学んだように、主は私たちに伝道することを望んでおられます。しかし、伝道する方法はいろいろあります。牧師や宣教師のようなフルタイム奉仕者もいれば、主婦やビジネスマンとして証しする人もいます。今いる所で証しする人もあれば、国内や海外の別の場所に遣わされて証しをする人もいるでしょう。私たちそれぞれがどのような形で伝道したらよいか具体的な方法を知ることができるのは、この自らのマイナスをさらけ出す祈りをささげた時なのです。パウロを初め、主に豊かに伝道のために用いられた人たちは、みなこの祈りをささげ、自分にしかできない伝道の方法、つまり「自らのマイナスがマイナスにならず、自らのプラスだけが発揮されるような伝道方法」を主から教えていただいたのです。パウロの場合は「あなたを遠く異邦の民へつかわす」(21節)と言われ、異邦人伝道に召されることになりました。
私は東京開拓伝道に遣わされる時、この自らの弱さをさらけ出す祈りをささげました。「こんな自分が東京で開拓伝道などできるのでしょうか」と本気で主に祈ったのです。その祈りの格闘の中で主は「あなたの手にあるそれは何か」(出エジプト4:2)と語ってくださり、自分の手の中にある「杖」がそれを可能とすることを示してくださいました。そこで、私が「その杖とは何ですか」と続けて祈った時、主はその杖が自分が救われるきっかけとなった「三浦綾子さん」であることを示してくださり、こうして「三浦綾子読書会」が東京からスタートすることになったのです。
三浦綾子読書会の働きを通して東京開拓伝道は見事に成し遂げられ、その後には私が想像すらできなかった国内、海外各地での伝道の働きが豊かに開かれていきました。 

結論)今日は使徒22章のパウロの祈りから、私たちの人生を変える三つの祈りを学びました。
「主よ、あなたはどなたですか」
「主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか」
「主よ、・・・・・・・・・・・・」
是非これらの祈りを主にささげてみてください。そして、その祈りに対して主が語られたことに真摯に応答してみてください。必ずや皆さんもパウロのように豊かに変えられ、豊かに用いられることになるでしょう。

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ルカによる福音書11章33~36節

「だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。(ルカ11章35-36節)

序 論)イエス様は、「天からのしるし」(16)を求めてくる群衆に対して答えられました(29-32)。主イエスはご自分がソロモン王や預言者ヨナよりもまさった者であり、ご自身がしるしであることを示されました。さらに、「あかり」、「目」、「内なる光」の三つのたとえを語れらます。主が伝えようとされたことは…

本 論)1、「世の光」なる主
ここで言われる、「あかり」(11)は、この罪(闇)の世に来て下さった、イエス様ご自身と受け取ることができます。イエス様は、「わたしは世の光である。」(ヨハネ8章12節 p.151)と言われました。父なる神様は、世の人々がイエス様を信じ、受け入れることを願ってイエス様を送られました。イエス様もご自分の言動を通して、ご自分が救い主であることを明らかにされたのです。
しかし、律法学者、パリサイ人たちは、イエス様を受け入れることができませんでした。  当時は、多くの人は目から光が出て、ものが見えると考えていました。目があかりの役割を果たしていると思われていたのです。目から光が入るという考え方もありまし た。この箇所(34-36)は、これらの両方の考え方が反映されています。「目が澄んでいる」(34)と訳されている原語は「単純である(英語ではsingle eye)」という意味です。それは、一つのもの、見つめるべきものをしっかりと見ているということです。反対に「目が悪い」(34)は見るべきものがよく見えていないという意味です。
ここでの「目」は肉体の目ではなく、「霊的な目」、真理を受け入れる心を意味しています。この目は、輝いている「あかり」の光を受け止める器官です。私たちが、イエス様を救い主と信じ、心に受け入れるなら、「全身も明るい」(34)、すなわち「あかり」によって全身が照らされ、明るくなります。それは、主と共に「光の中を歩む」ことができるようになるからです(Ⅰヨハネの手紙1章7節p.376) しかし、目(心)があかりの光(イエス様)を受け止めることができないと、あかりが輝いていても、その人の世界は暗いままなのです。
ここで大切なことは、「あかり」は私たちの外に輝いていて、私たちは「目(心)」によってそれを受け止めることです。
私たちはすぐに不安や怒りや嫉妬などの暗い(闇の)思いに支配され、全身が暗い闇に覆われてしまいます。苦しみ、悲しみ、不幸の中でも自分の全身を明るく照らす光を私たちは、自分の力で持つことはできません。その本当の光は私たちの外にあります。私たちはその光を受け止める目を持たなければなりません。目が悪ければ、その光が輝いていてもそれに照らされることができないのです。

2、み言葉と内なる光
 「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節 p.859)とあるように、聖書の「光」は「み言葉」をも意味しています。私たちの外に輝いている光、それは主イエス・キリストが与えて下さった神様のみ言葉です。このみ言葉のみが、主イエスの十字架と復活による救いを私たちに告げています。それは、神様が独り子イエス・キリストの命をすら与えて私たちを罪の支配から解放して下さり、神の子として新しく生かして下さるという恵みです。この恵みのみ言葉を聞き、しっかりと受け止め、それに聞き従うことによってこそ、私たちはキリストによる恵みの光に全身を明るく照らされて生きることができるのです。しかし、そのそのみ言葉を受け止めて聞き従うことをせず 当時の群衆のようにしるしや証拠だけを求めていったり、パリサイ人たちのように自分の薄っぺらい知識や、限られた範囲でしか通用しない人間の常識によって主イエスを試そうとするならば、キリストによる恵みの光に照らされることはできません。
南の国の女王やニネベの人々は、澄んだ目で神様のみ言葉の光を受け止め、それに従っていった人々でした。それに対してしるしを求めていた当時の人々は目が悪くて光を しっかりと受け止めることはできませんでした。(29-32)
「だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。」(35)  これは自分の中にもともと持っている光が消えてしまわないように気をつけなさい、ということではなく、目が悪くなることによって私たちの外に輝やいている神様のみ言葉の光を受け止めることができなくなり、その結果私たちの内にある光が消えてしまわないように注意しなさいという意味です。そして、いつも澄んだ目でまっすぐにみ言葉の光を見つめ、それに照らされて歩みなさいと言われています。
私たちが自分の内に光を持つことができるのは、自分を磨き、人格を高めて、自分の内から光を放つことによってではありません。それは、目(心)をまっすぐにみ言葉の光 へと向けることによって、「神の言を聞いてそれを守る」(28)ことによってです。そして、私たちの内に神の御子イエス様を受け入れることによって、私たちは神様の聖なる霊の住まい、聖霊の宮となるのです。

結 論)私たちの目がみ言葉の光をしっかりと見つめているなら「ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなる」(36)のです。み言葉の光に照らされるとき、私たちは自分が光の中を生きることができるだけでなく、周囲をもその輝きで照らすことができるのです。
「あかり」は「はいって来る人たちに、そのあかりが見えるように燭台の上に」(33)置かれます。私たちが輝かす光は、「入って来る人たち」に道を示し、その足元を照らすのです。それは、主イエス・キリストを救い主と信じ、その救いにあずかる者の群れである教会に新たに招かれて来る人、キリストの救いの中へと導かれて来る人です。
み言葉を求め、み言葉の光に照らされ、キリストとの交わりを持ち共に生きる人は、まことの光へと世の人々を招くあかりとなるのです。

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エレミヤ書29章10~14節

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。(エレミヤ書29章11節)

はじめに
日本は世界3位の経済大国であり、衛生面・経済面においても、他国より優れています。しかし、日本人の多くが心に平安がなく、将来に不安を抱えている状態です。それは真の神を離れ、幸せの秘訣である神の戒めに背いているからです。

Ⅰ.幸せの秘訣は、神の戒め
神はイスラエル民族を幸せにするために、彼らと契約を結び、戒めを与えられました。しかし、彼らは神との契約を忘れ、戒めを捨てたため、神の裁きを受けたのです。彼らが70年間、バビロンで捕囚にされたのは、実に神の裁きであり、神の計画だったのです(10)。現代も、人や国家が神の戒めを破るほどに、破綻しているのを見る事ができます。

Ⅱ.神の計画は、平安と希望
しかし、神は、イスラエル民族を御前に招かれ、彼らに回復の計画を約束されました(11)。全ての人は、神を無視して、神の戒めを破り、律法の呪いと神の怒りの中にいます(10)。しかし、神は全ての人が罪を悔改め、福音を信じて、罪赦され、平安と将来を与える神の計画に従って歩んで欲しいと願っておられます。神の招きに応えましょう。

Ⅲ.心を尽くして、神を求める
そして、人が罪を悔改めて、いつも神に祈り(12)、心を尽くし(13)、聖霊の助けによって、神の戒めに生きたいと願うなら、神は応えて下さいます(14)。神は、主イエスの福音を通して、私達の心を新たにし、神の御言葉に従う心を徐々に与えてくださるのです。そして、私達を将来と希望を与える計画に従って、永遠の天国まで導いて下さいます。

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ローマ人への手紙1章7~17節

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。          (ローマ1章16-17節  p.233)

序 論)パウロは、この手紙を、第3回伝道旅行(AD53-57年頃)の際に3か月滞在した、リントで書いたと考えられています。あいさつ(1-7)の後、ローマ訪問を熱望していることを語ります(8-15)。そして、福音を宣べ伝えたい理由を語ります。(16節の原文には「なぜなら」という意味の言葉が使われている)

本 論)1、福音は救いを得させる神の力であるから
 パウロは「わたしは福音を恥としない」と語ります(16)。しかし、私たちが日本の社会でキリストを信じそれを宣べ伝えようとようとするとき、私たちは恐れと不安を覚え、ときには恥ずかしい思いをすることがあるかもしれません。
では私たちも「わたしは福音を恥としない」と言えるために何が必要なのでしょうか。パウロがここで伝えているのは、自分の意思の強さや信仰の深さではなくて、福音そ のものの力です。「ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも」は世界の全ての人々にという意味です。すべての人々に信じることにより救いをもたらす、その神の力が福音には働いています。その神の力を信じ、それに信頼することによってパウロは、福音を誇ることができたのです。私たちも福音を恥とせず、誇ることができるために必要なことは、自分の強い意志や不屈の信仰を持とうとすることではなく、福音に働いてい神の力を知ることです。  パウロは福音の中心を1章2-4節で語っています。それは神の独り子イエス・キリストの十字架と復活です。そこに信じる者すべてに救いをもたらす神の力が働いているの
です。では、主イエスの十字架と復活はどのようにして、信じる者すべてに救いをもたらすのでしょうか。そのことを語っているのが次の17節です。(17節にも16節と同じく原文では「なぜなら」という接続詞がある。)

2、福音には神の義が啓示されているから
 17節のはじめを原文の語順に従って訳せば「神の義は福音の中に啓示されている」となります。かつてのマルティン・ルター(1483-1546)にとっては神の義は福音どころか、裁きの宣言、自分は救われないという悪い知らせでしかありませんでした。しかし、例えば詩篇71篇を読むと詩人は何度も「あなたの義(神の義)」という言葉を繰り返し、喜びと感謝の思いで歌っています。「わたしは主なる神の大能のみわざを携えゆき、ただあなたの義のみをほめたたえるでしょう。」(詩篇71篇16節 p.809)神の義が福音の中に啓示されているとはどういうことか、ルターはそのことを日ごと神様に祈り、聖書研究を続けながら問いました。
そして、示されたのは「神の義」は、神様が義なる方、正しい方であられる、ということだけを意味しているのではなく、神がご自身の義を与えることによって罪人を義として下さり、救って下さるということでした。
ルターは、「神の義」は「恵みの御業(みわざ)」であることを発見したのです。(詩篇71篇2節の「あなたの義」(口語訳p.808)が新共同訳聖書では「恵みの御業」と意訳されている) 罪に満ちており、どんなに努力しても自分の力では義なる者、救いにふさわしい者となることができない私たちに神様がご自分の義を与えて下さり、私たちの罪を赦し、義なる者として下さる、これが「神の義」です。神の義は、主イエスの十字架と復活において実現し、私たちに分け与えられました。
主イエスの十字架によって神様は私たちの罪を赦し、帳消しにして下さいました。そして、主の復活によって、私たちをも、主イエスと共に神の子として新しい命を生きる者にして下さいました。これがキリストの福音です。この福音に神の義が啓示されているのです。

3、信仰から信仰へ
 キリストの福音において啓示されているこの神の義は。信じる者にすべてに救いをもたらします。その神からの義を喜んで受け取ることが信じること、信仰です。「信仰に始まり信仰に至らせる」(17)の原文を直訳すれば「信仰から信仰へ」です。
私たちが義とされ、罪を赦されて救われる、そのことは最初から最後まで信仰において実現するのです。「初めから終わりまで信仰を通して実現される」(17 新共同訳)
17節の最後で、ハバクク書2章4節(p.1298)の「しかし義人はその信仰によって生きる」の言葉が引用されています。神様が独り子イエス・キリストによって与えて下さった義、神の恵みの業によってのみ生きる者、それが「義人、正しい人」なのです。
パウロがここで語っている「信仰のみによって義とされる」という真理をルターが再発見したことによって宗教改革が起こり、プロテスタント教会が誕生しました。ルターはこの福音が語られ、聞かれ、信じる人たちの集まりが教会だと言っています。

結 論)今回の箇所(特に17節)は、ルターによって始まった宗教改革に大きな影響を与えました。当時のカトリック教会が見失っていた真の福音、喜ばしい知らせを、このみ言葉からルターは聞き取ったのです。彼がこの福音に忠実に生きようとしたことによって宗教改革が始まりました。
神の義とはイエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、義として下さる神の恵みの業であり、私たちは信仰によってのみ、その救いにあずかることができます。この福音にこそ、信じる者すべてに救いをもたらす神の力が示されています。この神の力を信じ、それに信頼することによって、私たちもパウロと共に「わたしは福音を恥としない。」とはっきりと言うことができ、福音を誇ることができるのです。

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ルカによる福音書12章1~12節

「・・・あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」              (ルカ12:5,6,7)

序論)イエス様があるパリサイ人から食事の招待を受け、その席に着いておられた時、イエス様は、パリサイ人と律法学者たちに対して「あなたがたはわざわいである」と厳しく批判されました。その結果、彼らはイエス様を「ねらいはじめ」(11:53,54ました。そして敵対する者たちの敵意が高まり行くその中で、イエス様の周りに人々が色々な思いを持って群がってきました。
イエス様はまず、弟子たちに向かって語られます。

1、「偽善に注意しなさい」
 イエス様は弟子たちに「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。」(1)と言われました。「パン種」はイースト菌のことですが、ほんのわずか入れただけで、すごい膨張力を持っています。偽善が心に入ってくるとまるでパン種のように、音をたてないけれども大きな力を持って、その人を占領していくと言われているのです。イエス様は人々を間違った信仰へと導くパリサイ人の「偽善」に影響されないようにと注意されたのです。パリサイ人は神の務めに生きているようでありながら、その内実は神の言葉を聞いて聞かない生き方をしていました。表面は信仰者らしく取り繕っても、心の中は貪欲や悪意に満ちていたのです。
偽善というのは人に良く見せようとして本当の自分を偽ることです。なぜ偽善が起こってくるのかというと、人を恐れるからだと4節で言われています。
律法学者やパリサイ人の敵意が高まる中で、イエス様の弟子と告白するなら迫害が自分たちの身にも及ぶかもしれない危険な状況の中に弟子たちはいました。そのような弟子たちにイエス様は「恐れるな」と言われます。それは彼らに恐れの思いがあったからです。
人を恐れ、信仰を隠し、イエスの弟子ではないように振舞ってしまうのは、パリサイ人が人前で自分を取り繕おうとする偽善と同じなのだ、とイエス様は弟子たちに言われたのです。後々、イエス様が捕らえられた時、筆頭弟子のペテロはイエス様のことを3度知らないと否定してしまいます。他の弟子たちも恐れて逃げ出しました。この弱い弟子たちの姿は私たちの姿でもあります。
しかしイエス様は私たちの弱さを全てご存知の上で「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが」(4)と弟子たちを、そして私たちを「友」と呼んで下さいます。
イエス様は私たちの罪を暴いてそれを裁こうとしておられる方ではなく、むしろ私たちが誰にも見せずに外側を取り繕いつつ隠し持っている罪を、私たちから取り去って、それをご自分の身に背負い、十字架にかかって死んで下さったことによってそれを赦して下さる方なのです。
そしてイエス様のご復活をもたらした神様が私たちの命を支えてくださるのです。

2、恐れを除く神への畏れ
 4節5節には、私たちが本当に恐れるべき相手は、人間ではなくて神様だということが語られています。その神様は「殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかた」(5)だと言われます。これを読むと神様とは恐ろしい方だ、死んでから地獄に投げ込まれたらどうしよう、と不安になります。
イエス様はここで私たちに、神への恐怖を植え付けようとしておられるのではなく、人間は肉体の命を奪うことはできても、死を越えて私たちを最終的に支配しておられるのは神様なのだよ。それは、死んだ後と言うよりもむしろ今生きているこの人生の日々の歩みにおいて、私たちを本当に支配し、支え、守り、導いて下さっているお方がおられるのだよ。と天の父なる神様を示そうとしておられるのです。
私たちは多くの恐れに取り囲まれています。人生には色々な苦しみや悲しみがあって、それが私たちを恐れさせます。恐れからの解放は、恐れから目を背けることによってではなくて、本当に恐れるべき方と出会うことによってこそ得られるのです。それはびくびくするというような意味の「恐れる」でなく、「畏れる」「神を神として崇める」ということです。
本当に恐れるべき方とは、私たちがこの世の人生において感じる恐れの全てを越えて支配しておられる方です。このお方に一切をお任せすることが神を畏れるということです。
6、7節はそのことを語っています。スズメや髪の毛一本に象徴されているように、神様は小さくはかないように見える私たち一人ひとりを決して忘れることなく、尊く思い、日々の歩みの隅々までをみ手の内に置いて守り導いて下さっているのです。それゆえに私たちは、人の目を恐れることなく、イエス様が私たちの中に見つめて下さっている信仰にしっかりと立たせていただきましょう。そうするならば、「人の子も天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とあります。「人の子」というのはイエス様がご自分のことを言われる言葉です。私たちがイエス様への信仰を人々の前で告白するなら、イエス様ご自身が天で、私たちのことを、「神よ、これがわたしの友です」と言ってくださる時がくるのです。どんな恐れや、困難や、途方にくれるように思える時でも、「イエスこそ私の主です。友です。」と主を信頼して生きることは、天に宝を積むことであり、永遠の価値を持っているのです。
それでも、私たちは弱い存在です。しかしイエス様はそのような欠けある私たちを知っていてくださっています。イエス様は十字架につけられながら、その十字架につける人々のために、逃げ去った者たちのため、そして私たちのために「父よ、彼らをおゆるしください」と父なる神に祈られました。そのイエス・キリストの愛がどんなに深いものであるかを私たちに証しするのは、聖霊の力です。この神の愛を拒み、イエス様の差し伸べて下さっているみ手を振り払いイエスの十字架の死による赦し、そんな救いは必要ない、自分には関係ないと言ってしまうことは聖霊を冒涜することです。十字架を仰ぎ、差し出されている御手にすがって参りましょう。

結論)私たちはこの後、それぞれの生活の場へと遣わされていき、そこで、人々の前で信仰者としてどう語るかが問われます。けれども心配することはありません。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(11,12新共同訳)のです。信仰を告白する言葉は、聖霊が私たちに与えて下さるものです。自分の生涯をそのまま語れば、聖霊がそれを助けてくださるのです。聖霊のお働きを信じて、心配しないで身を委ねることこそが、求められているのです。

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ルカによる福音書12章13-21節

「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。…自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。」 (ルカ12章13、21節  p.109)

序 論)イエス様が弟子たちと、群衆に向かって話しておられるとき、「群衆の中のひとり」(13)が兄弟同士の遺産相続争いの解決をイエス様に依頼しました。しかし、主イエスはこの依頼を断られました。この後、イエス様が語れた言葉と「愚かな金持ちのたとえ」を通して伝えようとされたことは…

本 論)1、貪欲に警戒すること
「貪欲」とは、自分に与えられている分を越えてもっともっとと求め、そのために人のものを奪ったりすることだと一般的には思われています。だから、この人が自分の正当な取り分を求めることは貪欲では、ないと思われます。
しかし、イエス様は「貪欲に…警戒しなさい」に続いて「たといたくさんの物を…人のいのちは持ち物によらないのである。」とおっしゃいます。「貪欲」の意味を先ほどのように思っているとイエス様が言われた言葉と意味がうまくつながりません。
ここで、主イエスは「貪欲」をもっと深い意味で用いておられます。それは、自分の正当な取り分を越えて欲しがることではなく、自分が持っているものによって自分の命を得ることができる、生きることができると思っていることです。
「たといたくさんの物を持っていても」の原文を直訳すると「何かが有り余るほどあっても」となります。私たちが、それがあることによって人生が決定づけられると思っ ているもの、お金(財産)、能力、才能、健康、体力、容姿等々、これらは「持ち物」と言えます。
しかし、イエス様はここで、それらによって人の命、人生が決定づけられることはないと、教えておられます。それらのものによって人の命、人生が決定づけられると思っ てそれらを求めることを「貪欲」と言っておられます。この人も遺産を受け継いでそれによって自分の人生を築いていこうとしている点で貪欲に陥っていました。
私たちも、自分の分を越えて人のものまでも欲しがったり、奪い取ったりはしていないかもしれませんが、しかし、自分が何を持っているかによって人生が決定づけられると 思っています。生まれつき与えられているものであれ、努力して獲得したものであれ、自分が持っている広い意味での「持ち物」により頼んで人生を築こうとしています。
イエス様はそれを「貪欲」と呼んでおられます。あなたの心はそういう貪欲に支配されているのではないか、と主イエスは私たちに問いかけておられるのです。
さらに聖書は「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ人への手紙3章5節 p.317)と語ります。創造主なる神を忘れ、目に見えるものや「持ち物」だけに頼ろうとするとき、私たちは、貪欲、偶像礼拝に陥っているののです。
そして、主イエスは彼と弟子たち、群衆に一つのたとえ話を語られます(16-21)。

2、神の前に富むこと
 神様は、この金持ちのことを「愚かな者よ」と言っておられます(20)。彼の言動には「わたし、わたし」という自己中心の思いと「もっと多くを!」という貪欲の思いが現われています。そして何よりも愚かだったのは、自分が得たもの、蓄えたものによって命を得、生きることができ、持っている物によって人生が決まると思ったことです。つまり貪欲に陥ってしまいました。
愚かな者ではなく、賢い者となって生きるとは、この貪欲から解放されることです。それは、自分が持っている物、得たものによって人生が決まると言う迷信(思い込み)から解放されることです。それは、私たちの人生を本当に決定づけるものは、私たちのものとして蓄えられる何かではなく、私たちに命を与え、それを終わらせられる神様を知ることによってです。
彼は、神様のことを全く考えずに人生の計画を立てました。それが彼の愚かさであり、貪欲でした。「これと同じである」(21)と言われているのは、この金持ちのことです。
彼は自分のために富を積みましたが、神の前には豊かになりませんでした。では「神の前に富む」とはどういうことでしょうか。神様の前に自分の良い行いを積み上げるのではありません。「神の前に」の元の言葉を直訳すると「神の中へと」「神に向かって」となります。それは神様との関係を意識した言葉です。この金持ちが愚かだったのは善行を積まなかったからではなく、真の神様との関係を確立し、交わりを持って生きようとしなかったからです。
「自分のために富を積んで」も「自分自身へ」という意味です。彼は自分の持っているものによって生きることができると考え、自分自身へと富を積みました。それが彼の貪欲であり、彼の愚かさでした。逆に私たちに本当に必要なのは、神の前に富むこと、つまり神様との交わりの豊かさを求め続けることです。それは私たちが積み上げ、蓄える富(豊かさ)ではなく、神様が、主イエス・キリストによって与えて下さる恵みの豊かさです。神の前に富むとは、主イエスの十字架と復活によって与えられた神様の救いの恵みを信じ、それにあずかって生きることです。そこに貪欲から解放された新しい生き方が生まれます。

結 論)本当に賢い者として生きるとは、主イエスを、自分の生活の必要に答え、便宜を図って下さる裁判人や分配人(調停人)にしてしまう(14)ことではなく、イエス様からのみ言葉をいつもしっかりと受け止めて生きることです。それは、自分の生活を守るために主イエスを利用するのではなく、主イエスによって自分の生活が変えられていくことです。  父なる神様と主イエスとの交わりを通して、私たちは何によって生きるか、何に向かって生きるかについての考え方が根本的に変えられます。それは、自分が持っているもの、蓄えているものによって人生が決定づけられるという思い込みから解放され、私たちに命を与え、それを養い育んで下さる父なる神様と共に生きる者となることです。
神様との交わり、主イエスとの交わりに生きる者は、様々な現実の問題にも落ち着いて、余裕をもって対することができます。ここに出てきた人も、主イエスの言葉を真摯に受け止め、イエス様がどのようなお方かを知り、貪欲や偶像礼拝から解放されれば、裁判の問題にも冷静に、相手のことも思って対処できたことでしょう。
私たちも、神様の前にどう生きるべきかが問われています。父なる神様の恵みによって日々、豊かにされながら歩み続けましょう。

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創世記18章1~15節

「(アブラハムは)神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」       (ローマ人への手紙4章21節 新改訳 )

序 論)アブラハムのもとを訪れた3人の旅人(神様と御使い)には、ソドムゴモラの状況を見て、さばきを決定するという目的がありました。その前にもう一つしておかなければならないことがありました。それは、アブラハムとサラに子どもが生まれることを再び告げることでした。

本 論)1、恵みのみ言葉が告げられる
  アブラハムは前にも神様の約束の言葉を聞いていました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」「あなたの子孫はあのようになるでしょう。」       (創世記15章5節 p.16)   しかし、ところがその後、何年たっても赤ちゃんは生まれません。アブラハムは100歳、妻のサラは90歳になっていました。神様はアブラハムにこのときも、子供の誕生を予告されましたが、アブラハムは疑って笑ってしまいました。 (創世記17章15-17節 p.18)
その後、アブラハムは、訪れた三人を丁寧にもてなしました。食事の後、ひとりの人がアブラハムに言いました。「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう。」(創世記18章10節 p.19)  サラはもう子どもを産むのは不可能な体になっていました。天幕の入り口で聞き耳を立てていた彼女は、「私たち年寄りの夫婦から、子どもが生まれるはずがない」と心の中で笑いました(12節)。
神様は、アブラハムに「主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう。」と以前の約束を繰り返されました(14節)。

2、イサクの誕生
 それから一年後、神様が約束された通りにサラは身ごもり、男の子を産みました。(創世記21章1-2節 p.23)
神様は、人の都合や思い込み、状況に関係なく、必ず約束を成し遂げられるのです。
アブラハムはその子を「イサク」と名づけ、生まれて八日目に割礼を施しました。イサクとは「彼は笑う」という意味です。
「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」(創世記21章7節 新共同訳聖書の訳)
かつてアブラハムもサラも子どもが与えられると約束されたとき、信じることができませんでした。不信仰のゆえに笑いました。しかし、約束が成就した今、その笑いは喜びの笑いに変わりました。二人はもちろん、周りの人々も、喜びの笑いで満ちあふれたことでしょう。その様子をご覧になって神様ご自身も喜ばれたことでしょう。
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。」(創世記12章2節 p.13)という神様からの最初の約束をいただいてから25年後、とうとう一人の息子が与えられました。
約束の実現を待つのは忍耐の要ることです。しかし、神様は決して約束を忘れず、神のときに神の方法で、それを実現して下さいます。

結 論)アブラハムは、「神様にはできないことはない。必ず約束を守ってくださる」という信仰を持ち続けました。 (ローマ人への手紙4章19-22節 p.238)アブラハムも私たちのようにときには迷ったり、疑ったり、不安になるときもあったかもしれません。でも、そんなときも素直に祈って、神様からの励ましをいただいたことでしょう。
「だから、彼は義と認められたのである。」(ローマ4章22節)とは、み言葉を信じ続けたアブラハムの信仰を神様がお喜びになったということです。ですからアブラハムは、「信仰の父」と呼ばれているのです。
「神様にできないことはない。最もよい時に、最もよいものを与えて下さる。」このようなアブラハムの信仰に、私たちも見習っていきましょう。

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ルカによる福音書12章22~34節

「ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」(ルカ12章31-32節 p.110)

序 論)私たちはいろいろなことで思いわずらい、悩みます。個人のことから世界のことまでいろいろなことが心配になり、不安になります。イエス様は、そのような私たちに語りかけ、励まして下さいます。

本 論)1、神様が養い、装って下さる
「からす」(24節)は、私たちにとって悪いイメージを与える鳥ですが、当時もそうでした。旧約聖書には、烏(カラス)が汚れたもののリストの中に入っています。(レビ記11章15節 p149) イエス様が言われたのは、からすを見なさい。みんなから嫌われるカラスでさえ、神が養って下さるではないか、そう言われるのです。
鳥(とり)も野の花も、神様が養い、装って下さっている、だから、私たちの命も体も、神様が養い、装って下さることを知りなさい、と言われます。異邦人、まだ神様を知らない、信じていない人たちは、自分で自分の命と体を養わなければならないと思い、「何を食べようか、何を着ようか」と思い悩んでいます。しかし、私たち(キリスト者)は、私たちに命と体を養い装う食べ物や衣服が必要なことをご存知であり、私たちを愛し、必要なときに必要なものを与えて下さる父なる神様がおられることを知っています。 私たちはイエス様を信じて神様の子とされました。だから父なる神様の愛を信じて、自分の命と体を神様に委ねて安心して生きることができます。父なる神様に祈り、委ねるとき、思いわずらいから解放されるのです。
このようにイエス様は、思いわずらい、目に見える現実にだけ囚われてしまい、狭い範囲しか見られなくなってしまう私たちのために、もっと広い世界に目を向け、そして神様に心を向けなさいと言われます。英国の神学者ジョン・ベイリーは次のような祈りの言葉を記しています。
「どうか、今日、あなたのお造りになった世界を喜ぶ心を私にお与えください。あなたの美しい世界に目を閉じて歩くことがありませんように。商店のにぎわいに気をうばわれて、ひろやかな野や、みどりの木々を忘れることがありませんように。工場や、事務所や、書斎の低い屋根の下にいて、あなたの造られた大空を忘れることがありませんように。」(『朝の祈り、夜の祈り』)

2、父なる神が御国をくださる
「食べ物」や「着物」が表わしている「現実の目に見える世界」だけがすべてではありません。全宇宙と私たち一人ひとりを造られた神様がおられるのです。イエス様は「ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。」(32)と言われます。現実の生活だけで心をいっぱいにするのではなく、父なる神様に心を向け、祈るときを持ちましょう。それを続けていくうちに、自分にとって本当に大切なものは何かということも示されてきます。
さらにイエス様は「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」と言われました。(32節) (「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」新共同訳)
父なる神様が、私たちへの愛によって、喜んで神の国を与えて下さいます。そのために、神様のひとり子イエス様がこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さいました。天の父なる神様が私たちに喜んで神の国を与えて下さることは、主イエスの十字架の死と、さらにその死を打ち破って神様が与えて下さった復活において示されています。私たちは、神様が御子イエス様の十字架の死と復活によって与えて下さった神の国、神様の恵みのご支配を信じて、それをこそ求めて生きるのです。そこに、父なる神様が、私たちの命と体とを養い、装って下さるその愛の中を、思い悩みから解放されて生きる信仰者としての歩みが与えられるのです。
「…天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。」(33)これは施しなどの良い行いをすることによって、その報いによって救いを得ようということではありません。「宝」というのは、私たちが頼りにしているもの、より頼んでいるものです。それをどこに置くかが問われています。それを天にたくわえるとは、神様にこそより頼むことです。
「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(34) この言葉も本当に頼りとしているもの、より頼むものをどこに置いているか、という意味です。人生を養い装うのは、自分自身だ、と思っているならば、その人は自分により頼んでおり、宝を自分に積もうとしており、その心は地上にあって天にはないのです。しかし、神様を知り、信じる人は、父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じ、その神様により頼んでいます。

結 論) まず、御国(神の国)を求めるなら、私たちに必要なすべての物は与えられます。自分たちの心がどこに向いているかによって、現在の生き方が決まることを忘れないようにしましょう。
イエス様を信じ、イエス様と共に天の父に委ねながら歩みましょう。
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。」 (詩篇68篇19節 新改訳聖書)
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 (ペテロの第一の手紙5章7節 新改訳聖書)

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イザヤ書9章1~7節

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、 ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」 (イザヤ書9章6節 p.954)

序 論)イスラエルの国はソロモン王の後に、北王国イスラエルと南王国ユダに分かれました(BC930年頃)。以来周辺の大国からの圧迫に苦しめられ、もともと四国ほどの大きさしかない国が、さらに領土を失っていきます。ついに北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、住民は捕らえ移されてしまいました(BC723年頃)。それゆえ「異邦人のガリラヤ」(1)と呼ばれます。神の民が光を失って暗闇の中にいました。その頃、預言者イザヤは、救い主の到来を語ります。

本 論)1、闇の中に光を見る
かつてイザヤは、希望の光が見えないことに不安や苛立ちを感じ、嘆きの声を上げたことがありました。「もし地をのぞむならば、見よ、暗きと悩みとがあり、光は雲によって暗くなる。」(イザヤ5章30節 p.950) そして8章22節でも暗闇しか見えません。(p.953)
しかし、9章に入ると、預言者を取り巻く状況は変わりませんが、彼の語るメッセージは一変します。神様との交わりを通して、霊的洞察は深められ、彼は光を見ました。
イザヤは「異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。」(1)と預言しました。これは、やがて闇の支配から解放されるとの宣言です。神の救いの光は、暗黒の最も深い所から輝き始めました。
イエス様は、荒野で悪魔の試みにあわれ、それに勝利された後、一度、ガリラヤに退かれました。それは福音宣教をガリラヤから始められるためでした。(マタイ4章12-17節 p.4)  福音書記者のマタイはこれをイザヤの預言の成就だと語ります。
復活された後も、弟子たちにご自分はガリラヤに先に行ってあなたがたを待つと言われます。「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう。」(マタイ26章32節p.44、28章7、10節 p.50)
主イエスがガリラヤの地を大切にされたように、神様は苦しんでいる人々、虐げられている人々をお忘れになることなく,顧みて下さっています。
今の世も、闇のように思えたとしても、私たちが神様とイエス様に心を向け、主のもとに行き、主を求めて行くとき、希望と命の光を見出すことができるのです。

2、救い主のみ姿を見る
長く続く略奪のため、収穫の喜びさえ忘れられていた者たちに刈り入れの喜びが来ると語ります。(3節)4節、5節、6節の冒頭に、原文のヘブル語聖書では、「キィー」という節続詞が繰り返されています。これは「なぜならば」と訳せる言葉です。(英語ではfor)   (4節が3節を説明し、5節が4節を説明し、6節が5節を説明しています。)3節の祝福は、4節の主によるご介入の結果です。主の介入は5節の武器放棄によります。そのようなことは人間の目にはありえないことに思われますが、6節でそれがメシヤ(救い主)誕生によって可能になると告げます。
ひとりのみどりご、ひとりの男の子が私たちのために生まれ、私たちに与えられた、と。預言者イザヤは約700年後にこの地上にお生まれになる救い主の御姿を見たのです。  「まつりごと(政事)はその(救い主)の肩にあり」(6)、このお方が世界を統べ治められるのです。
「霊妙なる議士」「驚くべき指導者(新共同訳)」「不思議な助言者(新改訳)」「Wonderful Counselor ワンダフル・カウンセラー」「驚くべき計画者(という訳もある)」どんなときも、私たちと共にいて下さり、必要なときには相談相手になって下さる方。私たち一人ひとりに対して大きな計画を持たれ、聖霊とみ言葉によって導き手となって下さるお方です。
「永遠(とこしえ)の父」、「父」という語はイスラエルでは王に関しては用いられず、神様に関して語られるときに用いられています。「主は… あなたの父ではないか。」 (申命記32章6節 p.294)   「主よ、あなたはわれわれの父」(イザヤ書63章16節 p.1036)   救い主が、神ご自身であり、永遠にいますお方であることを示しています。  「平和の君」…争いは誰でも始めることができますが、平和をつくりだすことは困難なわざです。しかし、キリストは、十字架と復活によって、神と人との間、人と人との間に「シャローム(平和、平安)」をもたらして下さいます。「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意と言う隔ての中垣を取り除き、…」      (エペソ人への手紙2章14節 p.302)
「ダビデの位に座して」(7)、救い主はダビデの子孫として生まれるという預言です。この通りにイエス様は、ダビデの末裔(まつえい)である、ヨセフの子として誕生されたした。(マタイによる福音書1章1節)

結 論)  万軍の主の熱心、熱愛をもって、父なる神様は私たちを愛され、その御約束通りに救い主を送って下さいました。イスラエルのダビデ王朝の歴史は、約600年でした。(BC1010年~586) しかし、大能の神イエス・キリストは主を信じ従う私たちと共に永遠にいて下さるのです。このように、素晴らしい救い主が御誕生して下さったことを心から感謝してクリスマスを待ち望みましょう。

(先週の礼拝(12/3)特別賛美の曲の日本語の歌詞)
「まじかに主いませば」(バッハ作、中田羽後訳詞)
まじかに 主いませば たにまも おそれじ やみよもなにかは
みかおは わがひか げ     ひとすじ さえぎるかげなし
主の手にあるわが身たのしく やすらかに世を去るをうべし
み手にて 主はささえ さかまく ながれをも こえ行かせたまわん
まじかに 主いませば たにまも おそれじ やみよも なにかは やみよも なにかは

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マタイによる福音書1章18-25節

「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」(マタイ1章21節 p.1)

序 論)マタイ福音書は、イエス・キリストが旧約聖書で預言されていた救い主であり、真の王であることを強調している書です。イエス様はおとめマリヤからお生まれになりました。イエス様がこの地上に来て下さったのは…

本 論)1、私たちを罪から救うため
  「正しい人」であったヨセフは、身重になったマリヤを守るためひそかに離縁しようと決心します(19)。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさら者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」(19新改訳聖書)彼は「心配し」「恐れ」(20 新改訳)ていました。そのとき、主の使いが夢の中で、ヨセフに告げました。
マリヤの胎内に男の子が宿ったのは、聖霊のお働きによることでした。「イエス」という名前は、「主は救い」という意味です。「おのれの民」(19)とは、「ご自分の民」 (新改訳)とも訳されていますが、イスラエル民族のことです。しかし、「神の民」という意味に受け止めると、主イエスを信じる人たちが「神の民」と受け止めることができます。
主イエスは、私たちを、「そのもろもろの罪」から救うために来て下さいました。その名の通り、私たちが受けるべき罪の罰を、十字架の上で一身に受けて下さって、私た ちの身代わりになって死なれました。その死によって、私たちの罪は赦されたのです。 イエス様を、救い主(キリスト)と信じる者は、罪赦され、罪から救われ、新しい人生を歩み始めることができるのです。このようにイエス・キリストは、御使いが告げた通り、その救いのみわざを成就して下さいました。マタイは1章1節で「イエス・キリストの系図」と言い、イエス様はキリストであることを最初から強調しています。御使いの言葉「彼は」(21)は「この方こそ」(新改訳)と訳されています。このお方、イエス様だけが、神の御子、私たちの唯一の救い主です。そして、私たちのことを「わたしの民」と呼んで下さる真の王なのです。

2、私たちと共に生きるため
さらに御使いは、主イエスは「インマヌエル」と呼ばれると告げます。「インマヌエル」という言葉は、このときから約700年前に、イザヤが告げたやがて来られる救い主の名です。(イザヤ書7章14節 p.952)
「インマヌエル」は、「神われらと共にいます(神はわたしたちと共におられる)」という意味です。
十字架にかかられ、三日後に復活されたイエス様は、弟子たちに向って「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28章20節 p.50)と「インマヌエル」を約束して下さいました。十字架にかかり、復活されたイエス様を信じ、心に受け入れる私たちの内に主イエスは聖霊によって生きて下さいます。私たちは、地上の生涯においても、
新聖歌84番 4節の歌詞
「ああベツレヘムの 聖き御子よ
今しもわれらに 降り給え
心をきよめ 宮となして
今よりときわに 住まい給え」
2000年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになった御子イエス様は、信じる私たちの内に住んで下さり、心をきよめ、私たちを「神の宮」として下さいます。そしてときわ(永遠)に共に生きて下さるのです。

結 論)  ヨセフは御使いの言葉を信じ、マリヤを妻として「迎え入れ」(20 新共同訳)ました。それは、聖霊によって「おとめマリヤより生まれ」たイエス様を迎え入れることでもありました。マリヤを迎えたことはヨセフにとっても後に大きな祝福となります。父親となったヨセフにとっても、たとえ幼子であってもイエス様はキリストなのです。
 「ダビデの子ヨセフ」(20)がイエス様を迎え入れたことにより、イエス様もダビデの直系となられ「ダビデの子」と呼ばれるようになりました。
クリスマスを待ち望むこのとき、私たちもイエス様を心にお迎えし、主の恵みへの感謝を新たにいたしましょう。そしてもっともっと多くの人たちが、イエス様を知り、信じることができますように、と祈りながらこのアドベントのときを過ごしましょう。

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