ヨハネによる福音書19章23~30節

「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」                 ヨハネ19: 30

序 論)総督ピラトによって、イエス様は引き渡され(16)、自ら十字架を背負って刑場
(ゴルゴタ)へ向かわれました。主イエスがかかられた十字架の周りには様々な立場の人たちがいました(祭司長たち、ローマの兵卒たち、イエス様の弟子である女性たち、…)。
イエス様は、彼らのために祈られ、言葉をかけられます。十字架のそばで起こったことと主のみ言葉の意味は…

本 論)1.旧約聖書の預言の言葉の成就
    イエス様を十字架につけたローマの兵卒たちは、イエス様の着物を自分のものにするこ
とにしか関心がありませんでした。彼らはイエス様の上着を縫い目にそって、四等分し、縫い目のない下着は、だれがもらうかを決めるために十字架の近くでくじ引きをしていました。この出来事は旧約聖書の詩篇22篇18節のみ言葉の成就でした(24)。
「彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする。」(詩篇22篇18節 p.765)兵卒たちがこのように着物を分け、くじ引きにしたことの背後に、彼らの意思を超えた神様のご計画がありました。彼らは、自分たちは自覚しないまま聖書の預言が成就されました。このとき、人類の歴史の中で、神様が人間の救いのためになされた最も重大な出来事、神の御子が世の罪を背負って十字架の上で死なれ、神様の救いのわざの計画が、彼らのすぐそばで、今,成されようとしていました。しかし、兵卒たちは、十字架の最も近くにいたにも関わらず、イエス様に目を向けるどころか、自分たちの目の前にあるものが手に入るかどうかに夢中になっていました。これはイエス様を信じる以前の私たちの姿でもあります。イエス様が成して下さった救いのみわざについて何も知らず、神様に心を向けようとしないで、罪の中で永遠の滅びに向かっていました。
このような彼らのため、そして私たちのためにイエス様はご自分の着物だけでなく、すべてを与え尽くされました。イエス様が十字架の上で祈られ、命さえも与えて下さったのは、このときのローマの兵卒や周りにいた人々のようにイエス様がどのようなお方なのかまだ何も知らない人たちのためでもありました。

2.十字架の上でのイエス様の言葉(第3言、5言、6言)
  イエス様は十字架にくぎづけになって激しい痛みに苦しんでおられたにも関わらず、すぐそばにいた母マリヤをいたわり言われました。「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」 (26) そして残していかれる母親のことを配慮して、弟子のヨハネに向かって「ごらんなさい。これはあなたの母です。」 (27)と言われ、イエス様はヨハネにマリヤの今後のことを託されました。
ヨハネと母マリヤが親子の関係になることによって、イエス様を信じるという信仰による神の家族が始まりました。教会も神様を父とし、イエス様を長子とする神の家族です。イエス様は、かつて集まって来た人々に向かって、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。」(マルコ6章34-35節 p.55)イエス様を家族や教会、あるいは何かの集まりやグループにお迎えするとき、そこに神の家族が創造されます。実際の家族であればその家族はイエス様によって神の家族として再創造されています。神の家族、天の教会は永遠に続くのです。
次にイエス様が言われたことは「わたしはかわく。」(28)でした。これは詩篇22篇15節の言葉の成就でした。
「わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。 」  (詩篇22篇15節 p.765)
これは肉体的渇きと共に、神様を求める霊的な渇きでもありました。イエス様が私たちの身代わりに神から捨てられ、渇きを体験して下さったがゆえに、私たちはイエス様を通して、神様との交わりをいつでも持つことができ、聖霊が与えています。それゆえに私たちはいつまでも渇くことのない恵みにあずかれるのです。

「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」  (ヨハネによる福音書4章14節 p.140)

イエス様は兵卒の差し出した、酢いぶどう酒を飲まれました。そして最後に言われたのは「すべてが終わった」(30)と言葉でした。これは息を引き取られる最後のときが来たという叫びではありません。新改訳聖書では「完了した」、新共同訳聖書では「成し遂げられた」と訳され文語訳では、「事畢(終)(おわ)りぬ」と訳されています。(新聖歌109番4節の歌詞参照)28節で聖書は「イエスは今や万事が終ったことを知って」と告げています。このイエス様の「すべてが終わった」は旧約聖書の預言の言葉を一つ一つ成就して、神様がすべての人を罪から救おうとされたご計画がすべて成し遂げられ、贖いのわざが完成された勝利の叫びでした。
すべての人の救いのために働き続けて来られたイエス様は、その使命をすべて果たされ、ご自分の霊を父なる神様に委ねて息をひきとられました。

結論)神様はイエス様の十字架による救いという人知をはるかに超えたなさりかたで、救いの計画を完成されました。それは、神の御子が人となられ、十字架にかかられて死ぬという道でした。イエス様が十字架で苦しみを受けられ、血を流して下さったので、すべての人が救われる道がすでに開かれています。私たちはそれをただ信じるだけで救われるのです。
 聖書は、「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。」と語っています。  (ペテロの第二の手紙1章3節 p.372)   「いのちと信心にかかわるすべてのこと」はもうすでに イエス様によって与えられています。私たちがこれから他のものを造り出したり、何かをこれ以上付け加える必要はないのです。私たちの信仰が育てられ、守られ、そして永遠の命に生かされるために必要なすべてのことはイエス様によってなされ、すべては成し遂げられたのです。
私たちのできることはこのイエス様の十字架の救いを感謝し、信じ、私のためであったと受け取ることです。受難週に入る今日から一週間、十字架の上の七つの言葉一つ一つを深く黙想し、イエス様の苦難と十字架の恵みを さらに覚え、神様に対する悔い改めと主イエス様への信仰を強めるとき、感謝のときといたしましょう。

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ヨハネによる福音書18章15~27節

「…、『あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。」              ヨハネ18:26-27

序 論)イエス様は、ゲツセマネの園におられるとき祭司長たちに捕えられました。その後、大祭司の前での宗教裁判が始まりました。不当な裁判の中で、どんなに侮辱されてもイエス様の毅然とした態度は変わりませんでした。ご自分の弟子たちや教えについて尋問されても、イエス様は弟子たちのことには一言も触れず、ご自分の教えが、明白な言葉で、しかも「会堂や宮」のように人が集まるところで公然と語ってきたと言われます。また、平手打ちをされても、そのような仕打ちを受ける行為は何もしていないと強く主張されました(19-23)。それと対照的にペテロは、剣を振り回すことはできましたが(10)、自分がイエス様の弟子であることを告白することはできませんでした。
イエス様は…

本 論)1.ペテロのために祈られた
     最後の晩餐のときイエス様は、ペテロの裏切りを予告されました(13章36-38節)。またペテロのために祈ったと言われます(ルカ22章31-32節 p.128)。
イエス様はご自分を捕らえに来た祭司長たちに、「…、この人たちを去らせてもらいたい。」(8節)と言われました。しかし、ペテロは「もうひとりの弟子」と一緒にイエス様の後についていきます。そして、大祭司の邸宅の中庭に入りました(15)。もう一人の弟子は、自分が誰であるかを告げているのに(17)、ペテロは、自分がイエス様の弟子であることを否定しました(18、25、27)。イエス様は祭司長たちに「わたしはそれである。(I am.)」と堂々と答えられましたが(5、6、8)、ペテロは「いや、そうではない(I am not.)」と言い、呪いの言葉さえ口にしてしまったのです。(マタイ26章74節 p.46 口語訳では訳されていない 新改訳「すると彼は「そんな人は知らない」と言い、のろいをかけて誓い始めた。」)主を知らないと三度目に言ったとき、イエス様はペテロを見つめられました。(ルカ21章61節 p.130)。それは、ペテロの罪や失敗を赦す、愛のまなざしでした。鶏の鳴く声を聞いて(27)、ペテロはイエス様が予告されたことを思い出し、激しく泣きました(ルカ21章62節)。
イエス様がペテロのために祈られたように、今もイエス様は父なる神様の右の座で私たち一人ひとりのためにとりなし祈って下さっています。(ローマ人への手紙8章34節 p.244)。そして、私たちのことを愛のまなざしで見つめて下さっています。
私たちもイエス様の愛を受けて、イエス様のように他の人のためにとりなし祈る者となるよう神様は願っておられるのです。

2.ペテロを赦し、立ち直らせて下さった
  そのときの鶏の鳴き声は、イエス様が十字架にかかる日の夜明けを告げる声でもありました。その日、十字架にかかってすべての罪のさばきを一身に受けられたイエス様は、三日後に復活され、ペテロの前に御姿を現されました。イエス様は、ペテロの罪と失敗を赦し、愛をもって受け入れて下さったのです。主はペテロに、「わたしを愛するか」と三度尋ねられ、「わたしに従ってきなさい。」と言われます。(ヨハネ21章15-19節 p.178)   この18章では、自分の力に頼って剣を抜き、イエス様に従おうとして失敗してしまったペテロでしたが、キリストの深い愛を知り、このときから本当に主に従う者へと変えられたのです。ペテロはそのように立ち直ることができ、伝道者として歩むことができました。
ペテロは、自分はイエス様の弟子であることをあのときは否定してしまった、大きな罪を犯してしまった、恥ずかしい、とかつてのことを思い出すときもあったことでしょう。けれども、ペテロはそれを赦し、包み込んで下さる、主イエスの愛と恵みを知っていました。だからペテロはできれば隠しておきたい自分の裏切りと失敗を隠さずに何度も語り続けました。四つの福音書すべてに、このときのペテロがイエス様を否認した出来事が記されています。こんな自分だったけれど、イエス様が再び私を受け入れて下さった、自分のみじめな姿よりも、キリストの愛がそれをはるかに上回っていると、失敗談ではなく、キリストの恵みを語ったのです。
私たちは誰もが、できれば人に隠しておきたい、見られたくない、そんな姿を隠している者です。しかし、そのような私たちのためにイエス様は、十字架にかかり、よみがえられました。イエス様は、私たちが自分の罪を認め、その重荷をご自分のもとに持って来ることを願い待っておられます。(マタイ11章28節 p.17) たとえ、何かの失敗や罪を犯してしまったとしても、イエス様のもとに立ち返るとき、イエス様は私たちの罪を赦し、新たに立ち直らせて下さるのです。
結論)ペテロのあの空威張り、不甲斐なさ、自分のみじめな姿を示されることは私たちにもあるのではないでしょうか。もっと突き詰めて言えば、私たちの高慢さ、罪深さです。しかし、そのような愚かで罪深い私たちのためにイエス様は十字架で命を捨てて下さいました。私たちはいつでもそこに立ち返ることができるのです。この失敗、挫折があったからこそ、ペテロは信仰の原点に立ち返ることができました。それは自分に絶望して、ただイエス様にお頼りするようになることです。自分は愚かで罪深くて神様の赦しと助けがなければやっていけない。イエス様にお頼りするしかない。その時にこそ、私たちは
神様に支えられて、強く立ち、歩むことができるのです。イエス様が、ペテロを支え、助けて下さったように私たちのことも支え、助けて下さるのです。

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ヨハネによる福音書16章25~33節

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」  ヨハネ16:33

序 論)イエス様と弟子たちの地上での別れのとき、十字架にかかられるときが近づいてきました。木曜日(洗足木曜日)の最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちに語り続けられました。

本 論)1.父なる神様のもとに帰られること
    イエス様が、弟子たちと共に地上で歩んでおられる間はいろいろなたとえ話を用いて父なる神様と人間の関係、神の国のことなどを語っておられました。でも、すぐに父なる神様のことをはっきりと語る時が来ると言われます(25)。では、ここで言われる「その日」というのは、いつの日のことを言われているのでしょう。
「その日」は、イエス様が十字架にかかられ、復活された後のことを言われています。この日(木曜日)の翌日、イエス様は、十字架にかかられ死なれます。しかし、イエス様は三日後に復活されて、弟子たちと共に40日間過ごされ、昇天されて父なる神様のもとに帰っていかれます。このことを次のように語っておられます。
「わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである。」(28節)イエス様は、私たちを罪から救うために、父なる神様のみもとから、人となって地上に来て下さった神の御子であり、復活された後は、神様のもとに帰られることを宣言なさいました。その言葉通り、昇天された後、栄光の座につかれ、聖霊を弟子たちに与えて下さいました。
福音書を読むと、地上でイエス様と共に歩んでいた弟子たちが祈ったという箇所は、一つもありません。イエス様にどのように祈ったらよいのですか、とお尋ねする様子は 書かれていますが(ルカ11章1節 p.106), 弟子たちが自分から進んで祈ったという言葉はないのです。
しかし、「その日」(26)、ペンテコステの日に聖霊が与えられてからは、イエス・キリストのお名前によって、それぞれが父なる神様に祈ることができるようになりました。 もう、それまでのように、よく祈れない弟子たちの代わりにとりなし祈られるのではなく、弟子たちが、直接、神様に祈り求めることができるのだと言われます。事実、弟子たちは、「その日」以来、聖霊を内にいただいて、父なる神様に祈り続けました。それ以降、クリスチャンは2000年間、イエス・キリストの御名によって祈ってきました。
そして、私たちにとって「その日」とは、イエス様を神の御子、私の救い主と信じ、心に受け入れたときです。そのときから、私たちも、弟子たちと同じように主イエスの御名によって、父なる神様に祈ります。
イエス様を信じ、愛する者を父なる神様も愛して下さいます(27)。私たちは父なる神様に信頼して祈り、主イエスに従う歩みの中で、神様との交わりの中で、信仰と愛にお いて、日々、霊的に成長させていただいているのです。

2.父なる神様と共に世に勝たれたこと
         ここまでのイエス様のお言葉を聴いた弟子たちは感激して語ります(29-30)。
イエス様は、「しばらくすれば」(16節、19節)とか、「その日には」(27)と言われたのに、弟子たちは、「今わかりました」(30)、と答えます。イエス様は、そんな彼らに、彼らがイエス様を見捨てて逃げ去ることを予告されました(31-32)。ここで予告された通り、イエス様がユダヤの宗教指導者たちに捕らえられたとき、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ去ります。(マタイ26章56節p.46、マルコ14章50節p.78)  しかし、イエス様は一人でおられるのではなく、どんなときも父なる神様が共におられました。さらにイエス様は「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。」(32-33節)と言われました。
私たちのすべての、悩み、苦しみ、病、死への恐れは、イエス様がすべてご存知であり、ご自身が経験されたことだからです。
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」(へブル人への手紙4章15節 p.347)
イエス様も私たちと同じ肉体を持たれ、貧しさ、飢え、かわきを体験され、人に裏切られ、理解されず、あざけられ、ときには孤独も味わわれました。そして、イエス様は弟子たちに、そして今も私たちに「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(31節)と語られます。
イエス様が言われる「世」は、私たちを悪や不幸に引きずり込む罪や様々な誘惑、そして愛である神様に反抗しようとする力のことです。イエス様は、地上の歩みの中で、どんなときも父なる神様に祈り、聖霊の力により頼んで、「世」に勝たれました。そして、十字架と復活によって、死と悪魔にも打ち勝たれました。
すべてに勝利されたイエス様が、私たちを限りなく、深く、愛して下さり、私たちの霊の戦いを一緒になって戦い、勝利を与えて下さいます。

結論)私たちが、今、生きている現実のこの世には、さまざまな苦しみがあり、悩みがあります。でも、十字架の上で私たちに身代わりとなって罪に対する裁きをことごとく引き受けて下さり、復活して下さったイエス様と共に歩む私たちはいろいろな苦しみや悩みを乗り越える力が与えられます。私たちは、聖書の言葉を通してキリストに教えられ、導かれ、このお方と交わりながら、この世の歩み、地上の歩みを天の御国に至るまで続けていきます。
このヨハネによる福音書を書いた、イエス様の弟子のヨハネは、手紙の中でこう告げています。
「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」   (ヨハネの第一の手紙5章4-5節 p.380)
たとえ、この世の苦しみや悩みがあったとしてもイエス様を信じ、お頼りする私たちは、聖霊によって世に勝つ力が与えられるのです。

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三浦綾子読書会 映画鑑賞会

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ヨハネによる福音書15章1~11節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。…」  ヨハネ15:7

序 論)イエス様が十字架にかかられる前の日(洗足木曜日)の夜、弟子たちとの最後の晩餐を終えられたイエス様は、彼らに大切なことを語り続けられました。この15章の前半の箇所で、イエス様は、ご自分をぶどうの木に、弟子たちをぶどうの枝に、そして父なる神様を農夫にたとえられました(1、7)。私たちがキリストにつながるとは、どうすることなのでしょうか。そしてキリストにつながると私たちはどうなるのでしょうか。

本 論)1、キリストにつながるとは…
「わたしはぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)
旧約聖書の中で「ぶどうの木」は、イスラエル民族を象徴する言葉として使われています。「あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出し、 もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。」  (詩篇80:8 p.820)この聖句は、神様がかつてイスラエルの民をエジプトの地から約束の地カナンへと導き出して下さったことを回想しています。
預言者イザヤは、イスラエルが神様の願いに反して悪いぶどうの実を結んでしまったことを告げています。
「わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。」(イザヤ書5章4節 p.948)
甘いおいしいぶどうではなく、野ぶどうの酸っぱい実を結んでしまった、すなわち偶像礼拝の罪を犯し、悪い行いを重ねてしまったイスラエル民族のことを神様は嘆き悲しんでおられます。私たちの人生も、何につながるか、誰につながって歩むかは私たちの生活に大きな影響を与えます。イエス様がマタイ7章17節で「良い木は良い実を結び悪い木は悪い実を結ぶ」と言われているように、私たちの歩みは、何を信じ、従うのかによって、それが「生き方」や「品性」や残したもの」等に現れてきます。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなく、我々が与えたものである。」(三浦綾子著『続・氷点』の中で引用されているフランス人神父ジェラール・シャンドリーの言葉)「おもしろいものだね。あくせくして集めた金や財産は、誰の心にも残らない。しかし、隠れた施し、真実な忠告、あたたかい励ましの言葉などは、いつまでも残るものだね」(上記の言葉を聴いたもう一人の登場人物の言葉)旧約時代、偶像礼拝の罪に陥ってしまったイスラエル民族に代わって神様はイエス様を「まことのぶどうの木」として私たちに与えて下さいました。イエス様は、「わたしは(このわたしこそ)まことのぶどうの木(である)」と語られました。イエス様こそ神様の約束を真実に実現される御方であることをここで宣言されました。さらにイエス様は、父なる神様を農夫にたとえられました。「…父がすべてこれをとりのぞき…」(2節) 「とりのぞく」と訳されている元の言葉の訳の通り、「(ぶどうの木の枝)を剪定する」と解釈すれば、6節で言われた「さばき」を宣言する言葉と呼応しています。
これとは逆に原語には「支える」という意味があります。当時のユダヤの国のぶどうは現在の日本のものと違い、地に這わせていました。農夫が実を結ばない枝を支え、持ち上げて多くの空気と光に触れさせて下さるように父なる神様が弱い枝を支えて下さると解釈する説もあります。
「わたしが語った言葉」(3)は、これまでイエス様が弟子たちに語り続けてこられた言葉のことです。そのみ言葉によって弟子たちはすでにきよくされています。
「わたしにつながっていなさい。」(4)と主は言われます。  「つながる」は「とどまる」、「宿る」等の意味を持つ言葉です。新改訳では「わたしにとどまりなさい」と訳されています。私たちが、しっかりととどまるべき場、それはまことのぶどうの木であるイエス様です。この勧めは「わたしに対する信仰(信頼)を持ち続けなさい」と言われるイエス様のご命令であり、呼びかけです。枝が幹から流れてくる樹液によって成長するように、私たちはイエス様を通して、神の愛とみ言葉をいただいて生きる者です。
キリストにつながる(とどまる)とは、聖書の言葉を「神の言葉」として、心にたくわえることです。(コロサイ書3章16節 p.317) そして、キリストの名によって父なる神様に祈り、イエス様との人格的交わりを続けていくことです。礼拝、交わり、日々の「内なる生活(個人のデボーション)」を大切にしましょう。

2、キリストにつながると…
「その人は豊かに実を結ぶようになる。」(5)新約聖書で語られている「実」とは、「義の実」(ピリピ1:11 p.308)、「福音宣教の働きの実」(コロサイ1:5~10 p.314)、「御霊の実」(ガラテヤ5:22~23)です。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5:22~23 p.299)
これらの「実」は、私たちが自分の努力で生み出すものではありません。私たちがイエス様につながることによって私たちは御霊の実を結んでいきます。私たちが、イエス様を信頼し、日々、祈り、聖書の御言場を通して、イエス様がどのような御方かを知り、交わりを深めていくとき、父なる神様がイエス様を通して、私たちの内と外に実を結ばせて下さいます。イエス様のもとにとどまり続ける私たちを霊的に(心を)成長させて下さるのは父なる神様です。イエス様が父なる神様の愛の中にとどまられたように、私たちも主の愛の中にとどまることができますように。そして御霊の実の一つである、キリストにある喜びに満たされることができますように(11)と祈り求めていきましょう。

結論)イエス様は今も変わらずに、「わたしのもとに来なさい」「わたしにつながっていなさい」と私たちを招いて下さっています。私たちを罪から救い、天の御国にまで招いて下さるイエス様を信じ、豊かな実を結ぶように、どんなときもこのお方につながり、交わりを持ちながら歩んでいきましょう。

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ヨハネによる福音書12章20-28節

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。                ヨハネ12章24節

序 論)イエス様がエルサレムに入城されたとき、群衆はイエス様を「ホザナ、…」と叫び、歓呼して迎えました。イエス様が、王となられ、奇跡的な力を使って、ローマ帝国の支配からユダヤ民族を解放して下さることを期待していました。しかし、イエス様が告げられたことは…

本 論)1、「栄光の時」の到来
  エルサレムに巡礼に来ていたギリシヤ人たちが、「イエスにお目にかかりたいのですが」(21)、と弟子たちを訪ねて来ました。弟子のピリポたちからギリシヤ人が訪ねてきたことを聞かれたイエス様は、「人の子が栄光を受けるときが来た。」(23)と語られました。
これまでのイエス様は「わたしのときはまだ来ていない。」と言われ(ヨハネ2章4節、7章8節)、ユダヤ人に福音を伝えることを優先してこられました。しかし、これらのへりくだって主を求めてきたギリシヤ人を世界中の人々の代表であり、これから世界中の人々がイエス様の救いの恵みにあずかっていくさきがけと見なされ、ここではっきり「わたしのとき」が来たことを告げられました。それはイエス様が十字架にかかられるときであり、なそうとしておられる救いのみわざの完成のときでした。イエス様にとって「栄光を受ける時」とは、自らが栄光を受けるときではなく、すべての人が罪から救われるために自らを十字架にささげられ、あがないのみわざをなされる死のときでした。
イエス様が十字架によって、ユダヤ人だけでなく、全人類の罪の罰を身代わりに受けて死なれる神の時が来たのです。イエス様が父なる神様に祈られた後、父なる神様の御声が響きわたりました。
「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。(28)   イエス様を通してご自分の栄光を顕わされた神様は、イエス様の十字架を通してさらに栄光を現そうとしておられました。
ギリシヤ人が「イエスにお目にかかりたい」と言ったように、私たち自身もイエス様にお目にかかりたい、お会いしたい、お交わりを持ちたいという強い気持ちがあります。 今、私たちは肉眼ではイエス様を直接、見ることはできません。でも、詩篇27篇で神様は「わが顔を尋ね求めよ」私を尋ね求めなさい、と言っておられます。詩人は、このみ言葉に対して、「わたしは御顔を尋ね求めます」と答え、神様を求めました。(詩篇27篇8節 p.769)  イエス様も「求めなさい」と言われます(マタイによる福音書7章7-8節 p.11) 神様は求める者に与えて下さいます。私たちは、今、聖書のみ言葉を通して、イエス様 が私たちと共におられることを確認し、祈りを通して、イエス様のご臨在に触れ、交わりを持つことができます。

2、一粒の麦として死なれること
  イエス様の最大の使命は、すべての人を罪から救い、解放することでした。そのために父なる神と共におられた御子イエス様が「一粒の麦」となるため、人となって地上に来て下さいました。(24)
一粒の麦が地に落ちて死ぬとは、イエス様が十字架で死なれることです。そして、そのことによって「豊かに実を結ぶ」と言われます。一粒の麦が地に落ちて死んで、新しい麦の粒を無数に生み出すように、イエス様の死と復活によって、すべての人が救われ、永遠の命に生かされる道が開かれました。それは、今から約2000年前、歴史的事実としてなされたのです。主イエス様の十字架と復活の後、イエス様を信じ、従い、仕える人たちが次々と起こされていきました。その豊かな実は今も結ばれ続けられています。世界中に 今、約73億8600万人の人がいてそのうちの20数億の人がクリスチャンだと言われています。この教会も、私たちもイエス様の十字架によって結ばれた実の一つ一つなのです。  続いてイエス様はこのように言われます。「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(25)  ここで言われる「自分の命を愛する者」とは、自分ばかりを大切にする、自己中心の生き方をする人のことです。これと反対に「自分の命を憎む者」とはどういう意味でしょう。ここで「憎む」と訳されている言葉はヘブライ語やギリシヤ語の言葉では、「執着しない」、「第一としない」という意味です。(同じ言葉が使われている用例は マラキ1章2節 p.1323、ローマ9章13節 p.244)それは自分の力でできるのではなく、イエス様に信頼し、従っていくときに、私たちをイエス様が変え、成長させて下さるのです。
イエス様を訪ねて来たギリシヤ人たちは自分の弱さや足りなさや罪を自覚し、へりくだった心を持っていた人たちでした。十字架の死によって底の底まで降って下さったイエス様は、へりくだる者を引き上げて下さるお方です。

結論)エルサレムに来られたイエス様を「ホサナ」と叫んで迎えた人々ように主を賛美することは素晴らしいことです。イエス様をお乗せした、ろばの子のように、イエス様の御用のために用いられることは幸いです。
  でも、もっと大切で尊いことは、イエス様のご愛をいただいた私たちが、それぞれ一粒の麦となって死ぬことです。でもそれは、肉体の命を捨てることではありません。よく 教会では「己に死ぬ」という表現を使います。イエス様の深いご愛を知った私たちも自分ばかりを大切にする生き方をやめ、周りの人たちの救いのために自分を用いさせていただくという生き方にチャレンジするとき豊かに実を結ぶことができます。
具体的には、自分の身の周りの小さな犠牲の必要な方を選び取っていく生き方です。例えば、損得を越えて人に親切にすること。許せないという思いを越えて親切にすることも含まれるでしょう。時には、時間をとって人の話に耳を傾ける必要があるときもあります。
このように私たちがたとえ一時的、肉体的に損と思えるようなことがあっても、一粒の麦となって自分に死ぬ、そのような生き方を選ぶとき、神様が目を留めて下さり、イエス様の栄光を顕わしてくださいます。

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ルカによる福音書9章1-6節

弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。  ルカ9章1-6節

序 論)ガリラヤでいやしのみわざをなされた後、イエス様は十二人の弟子たちを呼び集められました(1)。以前、イエス様は徹夜の祈りを経て、弟子たちの中からこの十二人を選び出されたことが告げられています。(ルカ6章12,13節 p.100)。そして彼らを「使徒」と名付けられました。「使徒」は「遣わされた者」という意味です。イエス様が十二人を選ばれたのは遣わすためでした。主イエスが遣わされたのは…

本 論)1、福音を宣べ伝えるため
  イエス様は「彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。」(1)のです。悪霊を追い出し、病をいやす。それは、8章で告げられているようにすでにイエス様がなされていたことでした。そのイエス様の力と権威が、派遣されるに当たって彼ら自身に与えられる、それは彼らにとっても驚くべきことだったでしょう。しかし、イエス様が彼らを遣わされたのはそれらのことが目的ではありませんでした。
彼らを派遣された第一の目的は、神の国を宣べ伝えることでした(2)。前の章でもイエス様が町や村を巡りつつしておられたことは、「神の国の福音を説きまた伝え」(8章1節)るためでした。「神の国」とは、神様のご支配という意味です。それは力による支配ではなく、救いを与えるため、愛と恵みによるご支配でした。神の救いのみわざが今、すでに始まっている、とイエス様は宣べ伝えられました。それは、良い知らせ、救いの喜びを告げる知らせ、福音です。
十二弟子に与えられた使命の中心も、神の国の福音を宣べ伝えることであり、それをするために、悪霊に打ち勝ち、病をいやす力と権威が与えられたのです。
イエス様が弟子たちの中から選ばれた十二人は特別に信仰が深い人たちだったわけではありません。この中の一人は後にイエス様を裏切ったイスカリオテのユダもいました。 また一番弟子のペテロですら、イエス様が捕らえられたときには、三度「そんな人は知らない」と言ったのです。十二人の使徒たちは、私たち一人一人と同じ、信仰において弱さを持つ者たちでした。イエス様はそういう人たちを選び、遣わされました。
私たちも、自分は弱い者であり、神様のお役に立つことなど何もできないと思ってしまうかもしれません。でも主イエスは、わたしたち選び、派遣なさるのです。私たちキリスト者は、世の多くの人々の中から、イエス様によって選ばれ信仰を与えられ、神の国の福音を告げ知らせるために派遣されているのです。それはただ神様のあわれみと恵みによるのです。私たちがこの礼拝に集っていることにも神様の選びと招きがあるのです。

2、主イエスの力、神の力に信頼して
  イエス様は十二人を派遣するに当たって何も持っていくな、と仰られました(3)。町に入って伝道の拠点となる最初の家を見つけたら、そこに留まって伝道しなさい、と(4)。神の国の福音を告げ知らせる働きをすることによって、福音を信じる人たちが起こされ、救いにあずかる人たちが生まれる、そして神様があなたがたを養って下さるから心配するなと、言われます。そして足のちりを払い落すという行為(5)は、当時、よくなされていたことでした。私とあなたは関りがない、責任を持たないということを表す行為だったようです。もし誰も受け入れてくれる人がいないならば、それはあなたの責任ではない、次の町に行きなさいと、主は仰いました。弟子たちが宣べ伝え、受け入れられなかったとしても、その責任は神様が担って下さるのだと、励まされたのです。
彼ら十二人は実際に遣わされ、イエス様に授けられた力と権威を行使しました(6)。彼らが自分でも驚くようなみわざが行われていったのです。イエス様によって選ばれ、派遣された者は、このような驚くべきことを体験します。自分の力では起こり得ないようなことを、自分を通して神様がなして下さることを体験するのです。
当時の弟子たちの置かれていた状況と私たちの今、生活している環境は違う点もありますが、私たちも自分の持っている能力や技術、蓄え等に頼るのではなく、ただひたすら、イエス様の力、神様の力により頼み、それに信頼して、神の国の福音を、救いの知らせを宣べ伝えなさい、とイエス様は私たちに仰っておられます。

結論)「献身」をして牧師、伝道者になることだけが、神様による選びと派遣ではありません。
イエス様は、十字架にかかり、復活された後、父なる神様から「天においても地においても、いっさいの権威を授けられ」ました(マタイ28章18節 p.50)。今、イエス様は、私たち一人ひとりをそれぞれの場所に遣わしておられます。私たちはそれぞれが、置かれている場で、そこで出会う人々との人間関係において、神の国の福音を告げ知ら せ、証しするために選ばれ、派遣されているのです。そこでどのようにして神の国の福音を語り、証していくのか、それは私たちに委ねられています。
例えば、家族の中で自分一人が信仰者である場合に家族を教会に誘うことです。たとえ積極的に教会に案内することはできなくても、教会の礼拝を大切に守り続ける中で、 ひたすら家族のために祈り続けるというのも、神の国の福音を告げ知らせる一つの姿です。どのような形を取るにせよ、大事なことは、神様が自分を、今ここで、この家庭、 この職場で、この人間関係の中で、主イエス・キリストの福音を証しする務めを与えて派遣しておられることを覚え、そのように受け止めることです。
そして、その務めを、自分の力によってではなく、イエス様の力、神様の力に信頼して忍耐強く続けていくことです。そのような歩みの中で私たちは、自分たちの力ではとうてい起こり得ないような神様の偉大なみわざを見せていただくのです。十二人が最初に伝道の旅へと遣わされたこと、そして福音が「いたる所」(6)、後に世界中に広がっていったことを覚えます。私たちの教会もその流れの中にあります。私たちの教会は、65年の歴史を経て来ました。最初にこの地に遣わされて来た宣教師がおられ、最初に開かれた家庭集会、礼拝からこの教会の歴史が始まったことを覚えましょう。この地にますます福音が宣べ伝えられるように、神様がすべてを備え、導いて下さると信じ、主イエス様の弟子として歩みましょう。

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ルカによる福音書8章49-56節

イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、「娘よ、起きなさい」。 するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。       ルカ8章54-55節

序 論)会堂司のヤイロが、イエス様のもとに来てひれ伏し、娘を助けて下さるようにと願いました。彼の十二歳の一人娘が危篤状態に陥っていました。そのような絶望の中で彼はイエス様に、自分の家に来て下さるように願ったのです。主イエスは彼の家に向かわれます。イエス様がヤイロと娘にかけられた言葉は…

本 論)1、恐れることはない。ただ信じなさい。…
  会堂司の家に向かう途中で、病気の女性の癒しの出来事が起こりました(43-48節)。その様子を見、その間ずっと待っていたヤイロはどのような気持ちだったでしょう。  そこに、会堂司の家から人が来て、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言ったのです(49)。ついに恐れていた事態になってしまった、最後の望みをかけてイエス様に来ていただこうとしていたのに、間に合わなかった、と父親はその場にくずおれてしまったでしょう。しかし、イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ。」と仰いました。
このみ言葉はイエス様が先ほど女性に語られた「あなたの信仰があなたを救ったのだ。」と言われた言葉と同じことを語っておられます。信じることによって救われる、信仰による救いです。では、その信仰とは何を信じることなのでしょうか。娘の死を知らせる言葉(49)は、死の現実の前では人間は無力であり、イエス様とてももうどうすることもできないと言う意味が込められています。それに対してイエス様は、「恐れることはない。…」と言われました。娘を奪った死の力に屈服して絶望している父親に、恐れるな、死の力を打ち破ってあなたの娘を救う力のある者がここにいる、という意味を込めて語りかけられたのです。
私たちが、人間的には全く望みがないように思えるときにもイエス様は、「わたしを信頼しわたしに依り頼みなさい。」と語りかけておられます。そして主イエスを信頼する者に救いの御手を差し伸べて下さるのです。

2、娘よ、起きなさい (タリタ クミ)
  イエス様が会堂司の家に着くと人々が娘の死を悼んで泣いていました。イエス様は「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである。」と仰いました(52)。すると人々は「娘が死んだことを知っていたので」イエス様をあざ笑いました。彼女は本当に死んでしまったのです。
イエス様は、娘の父母(ヤイロとその妻)と三人の弟子(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)だけを連れて家の中に入られました。イエス様が手を取り、「娘よ、起きなさい。」(アラム語では「タリタ クミ」 マルコによる福音書5章41節 p.59)と呼びかけられると、娘は生き返り、起き上がったのです。たわ言のように思えたイエス様のみ言葉が現実になりました。これは、イエス様は人間にはどうすることもできない死をも打ち破られる力を持たれたお方であることを示す出来事でした。
イエス様の娘に食事をさせるようにとのご命令は、彼女が死の状態から健康体に戻ったこと、そして彼女の体は食事によって維持される必要のある体(もとの肉体)であることを示しています。さらにイエス様は両親にこの出来事を誰にも話さないようにと命じられました(56)。ヤイロ夫妻を騒ぐ群衆から守り、この出来事を静かに思うときを与えて下さったのかもしれません。あるいは誤った動機(奇跡を求める)人々が主に近づかないようにするためだったかもしれません。
会堂司ヤイロは、イエス様を死んだ人もよみがえらせることができるお方だと初めから信じていたでしょうか。そうではありませんでした。彼は娘の死の知らせを聞いて絶望と恐れに捕らえられたのです。そして、その中でイエス様の言葉に励ましと希望を与えられました。主イエスは、憐みをもって彼の願いと求めを受け止めて下さって娘をよみがえらされ、彼のイエス様に対する信仰を強めて下さいました。
後にイエス様は私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さったのです。そして、父なる神様が、死の力を打ち破ってイエス様を復活させて下さいました。イエス様の十字架と復活によって実現した神様の救いの恵みによって、罪に支配され、死の力に屈して恐れの中にいた私たちに罪の赦しの恵みを与えて下さり、永遠の命に生かされるようにして下さいました。

結論)ヤイロもその妻も生き返った娘もやがて地上の生涯を終えました。私たちもやがて地上の生を終えるときが来ます。しかし、イエス様を信じる私たちは、主が共にいて下さり、永遠の命の約束が与えられています。この地上の歩みにおいても、やがて天の御国に移されるときも、イエス様はいつも共にいて下さり、約束を成就してくださるのです。  イエス様がヤイロの娘を生き返らせて下さったのは、主イエスが私たちを世の終わりに復活させて下さり、主と同じ栄光の体を与えて下さるという約束の保証、その先取りでもありました。
「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。」(ヨハネによる福音書6章39-40節 p.146)  この約束をイエス様は実現して下さいます。私たちは、この約束を信じて、主のご再臨を待ち望みましょう。
日々の信仰生活において、主の恵み深さをさらに知り、イエス・キリストの命に満たされて、心から神を喜び礼拝しつつ歩んで参りましょう。

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ルカによる福音書8章40-48節

そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。   ルカ8章39節

序 論)イエス様と弟子たちがガリラヤ湖の対岸のゲラサ地方から帰って来られるとガリラヤの人々はイエス様を喜んで迎えました。それはイエス様による病の癒しを期待してのことでした。会堂司ヤイロがイエス様のもとにひれ伏し、娘を助けて下さるように願います。主イエスはその願いを聞き入れて彼の家へと向かいました。その途中で起こった出来事は…

本 論)1、イエス様のみ衣に触れる女性
  その途中で、一人の女性がイエス様に後ろから近づきました。彼女は十二年間、出血が止まらない病気を抱えていました。これは肉体的につらい病気であるだけでなく、当時のユダヤ人の社会においてはむしろ精神的に大きな苦しみを与える病気でした。(レビ記15章25~27節p.158)そのため彼女は普通の社会生活ができませんでした。ですから彼女が群衆の中に紛れてイエス様に近づくのは相当な勇気が必要なことでした。汚れた者であることが周りの人に知れたら白い目で見られ、追い出されてしまうのです。
それでも、彼女はイエス様のもとにやって来ました。彼女がそんな思いきったことをしたのは、この十二年の間、病気の癒しを願ってほうぼうの医者にかかり、全財産を使い果たしたけれども治してもらえず、苦しみ続け、絶望していたからです。この女性は、イエスという人が数々の癒しのみ業を行っているといううわさを聞き、その人に触れるだけで癒されるかもしれないと思って、イエス様のそばに後ろから近寄りました。そしてイエス様と面と向かって出会うことなしに、自分のことを知られることなしに、癒しの恵みだけをいただいて帰ろうとしていたのです。このようにして彼女は最後の望みをイエス様にかけ、群衆の中で後ろからそっとそのみ衣の房に触れました。すると、「その長血がたちまち止まってしまった」(44)のです。病が、たちどころに癒され、そのことを彼女自身が体に感じたのです。
この女性は、苦しみ、悲しみ、悩みの中で、イエス様の救いを求めたのです。彼女のつたない、信仰とは呼べないような、ただ救いを求める思いにイエス様は応えて下さいました。私たちも最初は、同じような思いでイエス様のもとにやって来ました。あるときはこの女性のように、癒しや様々な悩みの解決をいただいてそっと帰ろうとしたときもあるかもしれません。けれども、イエス様は、私たちがそのような様々な動機や思いを抱いて主のもとに来たことを「あなたの信仰」と言って受け止め、私たちが期待している以上の救いのみ業を行って下さいます。

2、人格的な交わりを求められるイエス様
  その後、イエス様は、「わたしにさわったのは、だれか」(45)と言って、自分に触れた人を探そうとなさいました。それは「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」(46)と言われるように、誰かが救いを求めて自分に触れたことをイエス様は敏感に感じ取られ、その人を見つけ出そうとされました。そしてついに「女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。」(47) 彼女は、できることならこの出来事を隠しておきたかったのです。汚れた者である自分が群衆に紛れてイエス様に触れたことが明らかになれば、人々からどんな非難を受けるかわかりません。誰にも気づかれずにそっと家に帰りたいと思っていたことでしょう。そういう意味では、「わたしにさわったのは、だれか」と問われ、その人を探し出そうとされるイエス様のみ姿は彼女には、気の毒なことのようにも思われます。ではイエス様はなぜ、そのようにされたのでしょうか。それはイエス様が彼女と正面から向き合い、出会おうとされたからでした。イエス様は振り返って彼女を探し出し、彼女と出会い、交わりを持とうとされました。このことは、イエス様が与えて下さる救いの中心は、病気が癒されたり苦しみが取り除かれたり、道徳的教えを受けることではないことを示しています。救いの中心は、イエス様との出会いと交わりにこそあるのです。救いを求めて後ろからそっと触れたこの女性の思いをイエス様はしっかりと受け止めて下さり、振り向いて、その人と向き合い、出会おうとなさるのです。彼女は、自分を探そうとされるイエス様に応えました。群衆の前で「震えながら進み出て」(47)、自分の病気のこと、イエス様に触れたらそれが癒されたことをイエス様に打ち明けました。彼女にとって人前に出ることはつらいことだったでしょうが、しかしそれによってこそ、イエス様のみ言葉が与えられたのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(48) このみ言葉をイエス様からいただいたことこそが、彼女の救いとなりました。このみ言葉をいただいて、彼女は本当に新しくされ、安心して生きる者となることができたのです。

結論)もし、彼女がこのみ言葉をいただくことなしに家に帰ったとしたらどうだったでしょうか。その場合でも病気が癒された喜びはあったでしょう。しかし、それは一時のことで、病気がいつ再発するかもしれない、別の病気になるかもしれない、あるいは病気とは全く別の苦しみ悲しみが新たに襲ってくるかもしれない、という不安がいつもつきまとうのです。
しかし、実際にイエス様は彼女を、信仰者であると認めて下さり、安心して行きなさいと励まし、新しい人生の歩みへと送り出して下さいました。今、私たちは聖書のみ言葉を通して、イエス様の御生涯の全体、とりわけ、主の十字架の死と復活によって救いのみ業がすでに成されていることを示されています。イエス様を信じて、心に受け入れている私たちに、主は「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と御声をかけて下さり、新たに送り出して下さいます。そして、送り出すだけではなくどんなときも私たちと共にいて下さり、人生の旅路を共に歩いて下さるのです。

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ルカによる福音書8章26-39節

「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。  ルカ8章39節

序 論)イエス様が「湖の向こう岸へ渡ろう」(22)と言われ弟子たちと舟に乗り込み、ガリラヤ湖を渡って行かれました。その船旅の途中で突風が起こり、舟が沈みそうになりました。しかし、主イエスが風と波をお叱りになると湖は静まり、彼らは無事に向こう岸に着くことができたのです。到着した「ゲラサ人の地」(26)はガリラヤ湖の南東に広がる異邦人の地でした。その地でイエス様のもとに悪霊に憑かれた一人の男性がやって来ました。主イエスは彼をどのような人に変えて下さったのでしょう。

本 論)1、正気になってイエス様の足もとに座る
  彼は言葉も行動も悪霊に支配されていました。彼は墓場でどれだけ苦しく、孤独な生活をしていたことでしょう。そしてイエス様は彼と出会われます。悪霊は、イエス様がどのようなお方であるかを知っています。主イエスに「いと高き神の子イエスよ」(28)と大声で言いました。彼らは自分たちがイエス様にとうていかなわないこと、主が自分たちを滅ぼす力を持っておられることも知っていました。自分たちのことを「レギオンと言います。」(99)、(当時のローマ軍1レギオンは6000人)と名乗るほどに数の多い悪霊も、イエス様お一人に立ち向かうことができず、彼らが願ったのは、この人から追い出されるのは仕方がないとして、「底知れぬ所」(31)に落とすのではなくて、せめてあの豚の群れに入らせてもらうことでした。その許しをイエス様に求めたのです。
イエス様がお許しになったので、彼らはその人から出て豚の群れに入りました。すると2000匹の豚(マルコ5章13節 p.58)が崖を下って湖になだれ込み、溺れ死にました。
イエス様は、豚の命を犠牲にして、悪霊に捕らわれていたこの人を解放なさったのです。  悪霊を追い出していただいたこの人は「着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわって」(35)いました。衣服を身に着けずに墓場や荒れ野をさまよっていた彼が、今、服を着てイエス様の足もとに座っているのです。「着物を着て」という一言に、彼が正常な人間としての社会生活と人間関係を回復したことが表れています。そして、「イエス様の足元に座っている」ことこそが、彼が救われたことの大きな表われでした。主イエスの足もとに座る、彼は、イエス様の足もとで、そのみ言葉を聞く者となったのです。それまで悪霊の働きに振り回され、心の中の思い、出てくる言葉と行いも自分ではどうすることもできなくなっていた彼が、ようやく自分を取り戻し、自分の言葉を語ることができるように変えられました。
私たちもかつては罪に支配されていた者でした。神様が私たちを罪の支配から解放するために独り子イエス様を遣わして下さいました。そして、罪からの救いがイエス様の 十字架と復活によって与えられました。今、私たちもこうして礼拝に集い、イエス様の足もとに座って神様のみ言葉を聞いているのです。
この恵みのみ言葉、主イエス・キリストによって与えられた救いを告げる福音を聞くことによって、神様に愛され、罪を赦され、支えられ生かされている自分を見出すことが できます。神様を礼拝し、神様と主イエスから愛されているのだということを知って、私たちは他の人との良き交わりの中で生きることができるのです。

2、家族や地域の人々に証しする
  イエス様によって救われ正気になったこの人は、イエス様が弟子たちと共に再び舟に乗って戻って行こうとされるのを見て、お供したいとしきりに願いました。彼はイエス様とずっと一緒にいたい、従っていきたいと願ったのです。
しかし、主イエスはこのように言われて彼をお帰しになったのです。「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」(39)イエス様は今も神に救われた者が証しをすることを求めておられます。この証しをすることができるのは、他の誰でもない、イエス様によって救われた者だけです。悪霊は主イエスのことを「神の子」であると知っていました。しかし、イエス様は悪霊には「物を言うことをお許しにならなかった。」(ルカ4章41節 p.90)のです。また、「飼う者たちは、この出来事を見て逃げ出して、町や村里にふれまわった。」(34)とありますが、彼らもイエス様を証しすることはできませんでした。さらに、「それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた」(36)と告げています。成り行きを見ていた人たちも起こった出来事を告げることはできてもイエス様のことを私を救って下さった神の御子であると証しすることはできませんでした。この町でイエス様を証しすることができる唯一の人はこの男の人だけだったのです。自分が悪霊を追い出していただき、自分が救われて、本当の自分を取り戻すことができました。彼にしかできない使命が、今、主イエスから与えられたのです。そして、この人は実際にどうしたでしょうか。「そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。」(39)のです。このゲラサ人は、イエス様のご命令以上のことをしました。主イエスが求められたのは、自分の「家」に帰り、その家の者たちに「神が」あなたにして下さったことをことごとく話して聞かせなさいということでした。ところがこの人は、家族だけでなく、「町中に」(地域の人たちに)言い広めました。しかも、「イエス様が」自分にして下さったことを伝えました。彼は、自分を救って下さったのはただの人ではなく、神の御子であったと悟っていたのです。

結論)嵐を静められるほどに自然界をも支配されるお方、霊の世界をも支配されるお方、そんなお方が、たった一人のゲラサ人を救うために湖を渡って来られたのです。そして、イエス様は私たち一人一人をも尋ね出して救うために十字架の上にご自身の尊い命を犠牲としてくださいました。命をかけて救ってくださった主に私たち自身をお献げして参りましょう。
主イエスの足もとに座って礼拝し、み言葉をいただき、イエス様がこの私にして下さった大きなことを家族や地域の人たちに証ししてまいりましょう。

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