ルカによる福音書9章37~43a節

イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。 マルコ9章23-24節(並行箇所)

序 論)山の上で主イエスが三人の弟子たちに栄光の御姿を示された翌日、主と三人の弟子たちが山を降りて来られました。すると山の麓では、別の出来事が起こっていました。主が言われ、なされたことは…

本 論)1.不信仰な、曲った世に主は来て下さった
   山麓では、他の九人の弟子たちが苦境に陥っていました。彼らは、霊につかれた子どもを癒せなかったのです(38 -40)。
父親の言葉を聞いた主イエスは、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。」(41)と嘆かれました。(申命記32章5節 p.294、民数記14章27節p.205 参照 イスラエルの不信に対する主なる神様の悲しみのお言葉)主イエスを信じて従って来たはずの弟子たちでさえも、不信仰に陥っていました。神様の力を祈り求めることをせず、自分の力で何かをすることができるような錯覚に陥り、結局、悪霊を追い出すことができませんでした。彼らの不信仰をも主イエスは嘆かれたのです。
「いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。」(41)という言葉を聞くとここで主イエスは弟子たちに対して愛想が尽きてしまわれたのだと受け止めてしまうかもしれません。でも原文を見ると「いつまで私はあなた方と共におり、あなたがたを我慢するのだろうか。」と単純な疑問文のみ言葉です。そしてその後、「あなたの子をここに連れてきなさい」と父親に言われ、弟子たちが癒すことのできなかった子どもを招かれました。イエス様は霊を叱り、追い出し、子どもを癒して父親にお返しになりました。これは、イエス様が弟子たちをお怒りになってなさったわざではありません。
つまり弟子たちの醜態、失敗の後始末を主イエスがなさって下さり、苦しみ、絶望の中にいたこの父親に救いの御手を差し伸べて、子どもを返して下さったのです。主がなされたことと上記のみ言葉の直訳を合わせて見つめるならば、主イエスがいつまで弟子たちと、そして私たちと共にいて下さり、どこまで私たちのことを忍耐して下さろうとしているのか、その答えがそこに見えてきます。イエス様は、このような失敗ばかりしてしまう弟子たちや私たちのことを、どこまでも忍耐して下さり、共にいて下さり、私たちの失敗や罪を覆って救いのみわざを行って下さるのです。私たちは自分の確かさや信仰ではなく、主イエスの確かさと真実によって支えられています。神様から心が離れ、心が神様に向かわない不信仰で曲がった「罪の世」から私たちを救うためにイエス様はこの地上に来て下さいました。主の十字架の死と復活による救いのみわざがなされた後にペテロは、人々に説教し、「この曲がった世から救われよ。」と語りました。(使徒行伝2章40節 p.182)神様は、今も私たちが悔い改めて神様に立ち返り、主イエスを信じて罪から救われることを願い忍耐しておられるのです。
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(Ⅱペテロの手紙3章9節 p.374)

2.小さな信仰をも主は受け止めて下さる
  「山上の栄光と山麓の悲惨」、このようなコントラスト(対比)を私たちも信仰の歩みの中で体験します。主の日の礼拝や 聖会、集会等の中で、神様の恵みに満たされるとき、私たちは変貌の山におけるペテロと同じように、この恵みのときがいつまでも続けばいいのに、と思います。(ルカ9章33節 p.102)  しかし、それらの集会からそれぞれの家に帰って日常の生活を始めると、そこで直面するのは、信仰者としての自分の無力さや現実です。私たちの信仰の生活は、変貌の山上の礼拝と、そこから降りて来る山麓の現実の間を行ったり来たりしつつ営まれていると言えます。
では、そのような現実の中で歩んでいる私たちの信仰を主イエスはどのように受け止めて下さるのでしょう。同じ山麓の出来事を告げるマルコによる福音書9章22-24節には、主イエスと父親のやりとりの言葉が告げられています。(p.66)
父親は、イエス様のみ言葉をいただいて、自分の不信仰を認め、さらに主に救いを求めていきました。私たちも日常の出来事や現実に左右され、すぐ疑ってしまったり不信 仰に陥りやすいものです。でも、その自分の信仰のなさや弱さを認めて、さらに主イエスに求めていくとき、主はさらに大きな恵みをもって応えて下さいます。私たちの「からし種」のような小さな信仰をも主は受け止め応えて下さいます。(マタイ17章20節 p.28)

結論)主イエスのみ言葉と聖霊によって、私たちは日々新たにされます。み言葉によって示されるのは、神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪をどこまでも背負って下さり、赦しの恵みによって私たちを支え、いつもでも共にいて下さることです。その恵みによって私たちは新しくされていきます。悔い改めとへりくだりの心をもってみ言葉を求めていくとき、神様はそれまで隠されていたみ言葉を私たちに示し与えて下さいます。そして詩篇の言葉が告げているように「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩篇119篇130節 新共同訳)み言葉が新たに示されるとき、私たちはその光に照らされ、人間の思いや力によってはとうてい得ることができない神様の確かな恵みを知り、その恵みの中を歩む者へと変えられていきます。

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ルカによる福音書9章18~36節

彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。 すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。 ルカ9: 34-35

序 論)イエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて山に登られました。主が祈っておられるとそこで、光輝くみ姿に変貌されました。この出来事が示していることと、神様が弟子たちに語られたことは…

本 論)1.主イエスの栄光の御姿
      ここで神様の独り子、救い主キリストとしての、主イエス本来の栄光が弟子たちに示されたのです。この栄光の御姿は、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになり、十字架で 死なれるに至る主イエスの地上の歩みにおいては隠されていました。しかしこの栄光に輝く御姿こそ、主イエスの本当の御姿です。このことが、一時、三人の弟子たちにのみ示されました。主イエスと共に、二人の人が同じく栄光に包まれて現れ、主と共に語り合っているのを弟子たちは見ました。その二人とはモーセとエリヤでした。モーセとエリヤは、それぞれ、旧約聖書の「律法」と「預言者」を代表する人たちで二人が主イエスの前に現れたことは、旧約の時代が終わり、新約の時代が始まることの表われでした。そして、主イエスと二人は、「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて」(31)話していました。「最後」と訳されているのは、「エクソドス」(英語では exodus)という言葉です。これは、「外へ出る、脱出」という意味です。「出エジプト記」のことを英語で「エクソダス」と言います。イエス様はエルサレムで、この「脱出」を成し遂げられました。それは、十字架の死と三日目の復活、そして天に昇られたことによってです。これらのことによって主イエスは、この地上を出て、父なる神様のもとへ帰られたのです。そして、そのことによって、私たちのための「出エジプト」、罪の奴隷状態からの解放、罪 の赦しによる救いのみ業を成し遂げて下さったのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いこそが、旧新約聖書全体の中心主題、聖書全体を貫いているテーマです。モーセの律法も、エリヤに代表される預言者も、この主イエスによる救いを指し示し、預言しているのです。私たちは、この主イエスの救い、福音を中心に旧約と新約聖書を読みます。

2.主イエスに目を向け、聞き従う
  ペテロは、栄光に輝く主イエスの御姿と、モーセとエリヤが主と共にいる、この素晴らしい出来事を、いつまでもここに留めておきたいと願ったのです。三人のために小屋 を三つ建てて、そこに入ってもらおう。そうすれば、これからも、人々が彼らの姿を見ることができると思いました。 (33節)しかし、栄光の御姿が雲に包まれていく中で、神様の御声が響きました。「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け。」(35) その御声が響いたとき、そこには主イエスだけがおられました(36)。つまり「これ」 というのは主イエスのことです。「主イエスこそわたしの子、選ばれた者だ。このイエスにこそ聞け。」と神様は仰たのです。ここに、「いったい、このかたはだれだろう。」(ルカ8章25節 p.99)という問いへの決定的な答えが、神様ご自身によって与えられました。主イエスこそ、栄光に輝く神の独り子、神様が選び、遣わして下さった救い主です。 主イエスの問いに答えてペテロが告白した信仰を、神様ご自身がその通りだと受け入れて下さったのです。(ルカ9章20節 p.102)
主の栄光に触れるために神様が私たちに求めておられるのは、「主イエスに聞きなさい。」ということです。イエス様の言われることだけを聞きなさいとも受け取れますし、 いつも主イエスの言葉を聞きなさいという意味も含まれています。
聖書を通して、主イエス・キリストに聞くこと、そのみ言葉に耳を傾け、従っていくこと、そのことの中でこそ、私たちは、主イエスとお出会いすることができるのです。  イエス様は、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから捨てられ、また殺され、三日目に復活された御方です。(22) その主イエスに聞き従うとき、私たちの歩みも、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従っていくことになります。(23)
主イエスに従って歩む信仰の人生は、決して祝福と喜びのみに満ちた栄光ある人生ではありません。しかし、主イエスに聞き従っていくことによって、私たちは、弱く罪深 い私たちをご自身の十字架の死によって赦し、神の民として新しく生かして下さるまことの救い主イエス様と新たに出会い、このお方と共に生きることができるのです。そし て、この信仰の歩みの後には、私たちにも栄光に輝く復活と永遠の命が約束されています。 変貌の山上で三人の弟子たちが垣間見た主イエスの栄光に輝く御姿は、その約束が確かであることを証ししているのです。

結論)ペテロはこのときの出来事を生涯忘れませんでした。(Ⅱペテロの手紙1章16-18 p.372)私たちはいろいろなことで悩んだり、心が苦しいときもありますが、そんなときこそ、神様に祈り、イエス様のみ言葉、聖書の言葉に耳を傾けるときを持ちましょう。主はみ言葉によって私たちを励まし、力を与えて下さいます。 「そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。」(8)とあるように、最後に残られたのは主イエスだけでした。私たちはイエス様から目を離さず、聞き従って歩みましょう。神様はイエス様を信じる私たち一人一人をも「わたしの愛する子」と呼んで下さっています。

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ルカによる福音書9章18~27節

彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。 ルカ9: 20

序 論)イエス様が弟子たちに、人々がご自身のことをだれと言っているかと尋ねられます。弟子たちの答えを聞いて、今度は弟子たちに、「…、あなたがたはわたしをだれと言うか。」(20)とお尋ねになりました。それに対してペテロが答えたことと主イエスが弟子たちに命じられたことは…

本 論)1.神のキリストです
  ペテロは、「神のキリストです」と信仰告白しました。これは、父なる神が遣わされた救い主という意味です。この信仰告白の前に、主イエスは一人で祈っておられました(18)。イエス様は、弟子たちに問う前に父なる神様に真剣に祈られ、準備をなさったのです。ペテロの信仰告白は、主イエスご自身のこのとりなしの祈りによって与えられたのです。マタイによる福音書では、次のように言われます。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」(マタイによる福音書16章17節 p.26)   私たちにおいてもそれは同じです。「あなたはわたしをだれと言うか」という主イエスの問いかけの背後には、主ご自身の私たちのためのとりなしの祈りと愛があるのです。そして父なる神様が、私たちを、イエス様に対して「あなたこそ、キリスト、私の救い主です。」という信仰告白にへと導いて下さいました。そして、「人の子」とは主イエスが、ご自分のことを語られるときに使われる言葉です。それは、神の御子が人となられたこと、そして、人となられたイエス様は、やがて、天に挙げられる(昇天される)栄光の主であることを示しています。
「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」   (ダニエル書7章13-14節 p.1254)
主イエスは、私たちのために多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて十字架につけられ、三日目に復活することを通して、救いを実現して下さるお方です。「神のキリスト」という言葉には、神様のご意志とご計画がこの主の受難と復活によって実現する、という意味も込められています。

2.日々自分の十字架を負って主に従う
  イエス様に対して、信仰告白した者は、主イエスに従う者とされます。自分を捨て、日々自分の十字架を背負っていくこと、それは大変なことだ、そんなこと自分にはとてもできそうにないと私たちは思うかもしれません。けれども主イエスは「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(24) と言われます。つまり自分を捨て、十字架を背負って主イエスに従うことは本当の意味で自分の命を救うことなのです。主に従うことを通して、私たちは主イエスの十字架の死によって自分の罪が赦されていることを知り、主イエスの復活によって自分にも死に勝利する新しい命の約束が与えられていることをさらに知っていきます。この新しい命を 得ることは、全世界を手に入れるよりも価値のあることなのです。主イエスは、「よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」(27)と仰いました。あなたがたの中には、生きている間に神の国を見ることができる者がいる、という主イエスの約束、祝福の言葉です。
私たちも、主イエスに従う歩みの中で、主の十字架と復活によって実現している神様の恵みのご支配、神の国を確かに見るのです。教会は神の国の雛形です。教会では神の言葉が語られ、それが聴かれています。神の国の姿がそこには映し出されています。聖餐の食卓は、神の国の食卓の象徴です。そして、同じ信仰に生かされている者が、共に神様に祈っています。この交わりにも神の国が見られます。
主イエスは、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17章21節 p.119)と言われました。私たちの間に、この教会に神の国がすでに実現しています。

結論)信仰告白した、バルヨナ・シモン(ペテロのもとの名前)に対して、イエス様は、こう言われます。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」     (マタイ16章18節 p.26)
イエス様を、キリスト(救い主)と信仰告白するその土台(岩)の上に教会を建てると主は言われました。そして、この岩は、キリストでもあります。(Ⅰコリント人への手紙3章10節  p.259 10章4節  p.267)この土台は決して揺らぐことはありません。
教会は主イエスを救い主と信じる者たちによって建てられていきます。十字架にかかられ、復活されたイエス様によって生かされている信仰者たちがここにいます。もはやそれ以前の古い自分ではなく、新しい人として生かされています。死を乗り越えることができる力がこのお方にはあるからです。その力をいただいて、私たちも、主イエスのために日々を歩みます。主イエスの十字架と復活によって、この世界も、教会も、私たちも新たにされていきます。

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ルカによる福音書9章7~17節

「イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。」 ルカ9: 16

序 論)領主ヘロデは、イエス様の行っておられる奇跡のことについて聞いたとき、当惑しました。彼はイエス様に会いたいと思いました。一方、主イエスは弟子たちを連れてベツサイダに行かれます。イエス様は…

本 論)1.5000人以上の人々に食物を与えられた
  イエス様は、み言葉を求め、病の癒しを求めてやって来た人々にみ言葉を語り、癒しをなさいました。やがて日が傾いてきたとき、弟子たちは、群衆を解散させて、それぞれ自分で夕食を確保させて下さいと言います(12)。彼らに対してイエス様は、「あなたがたの手で食物をやりなさい。」と仰いました。弟子たちは、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、…」と答えます(13)。
イエス様はそれらを手に取られ、「天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせ」なさいました(14)。「それを祝福してさき」は新共同訳聖書では、「それらのために賛美の祈りを唱え」と訳されています。
イエス様は、日々の食物を与えて下さる、父なる神様を讃美し、感謝の祈りをささげられたのです。(本日の交読文 詩篇136篇25-26節 p.870 を参照) (参考:英語の say a blessing は「食前の祈りをする」の意味)当時、この祈りをささげるのは、家長の役目です。ここでイエス様は、草の上に座ったイスラエルの人々の家長として天を仰ぎ、祈りをささげられたのです。
この後、イエス様は、5000人を超える人々の飢えを満たし、満腹にされるという恵みのみわざを行われました。
このとき、人々を組にして座らせたのも、パンと魚を配ったのも、後でパン屑を集めたのも弟子たちでした。このようにイエス様は弟子たちを用い、派遣し、みわざをなされていかれます。
初め、彼らが持っていたものは、小さく、わずかなものでありましたが、イエス様がそれらを多くの人々を養い、育んで下さる恵みの食物として下さいました。また彼ら自身は何の力もない者たちなのに、主イエスは彼らを多くの人々を養う恵みの食事の給仕者として用いて下さいました。弟子たちは、この奇跡のみわざを通して、イエス様が神の力を持ったお方であることを再度、知らされました。無限の供給者であるイエス様は、今も私たちを通して、恵みのみわざを行って下さいます。

2.すべての人のためにご自身を与えられた
  このパンの奇跡の後、イエス様を王にしようとする人々もいました(ヨハネ6章15節 p.145) しかし、イエス様は山に退かれます。イエス様が本当に与えようと願っておられたものは食物のパンではありませんでした。パンと魚を「さき、」(16)の個所から、故小島伊助師は、『さき』て与えては、一年後の予表ともなる。」と霊想しておられます。このときから一年後、エルサレムにおられたイエス様は、十字架にかかられます。そして、ご自分の御体が、十字架の上で裂かれました。神様の御子イエス・キリストは、私たちを罪から救い、永遠の命に生かすためにご自身をささげて下さったのです。
イエス様は「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネによる福音書6章35節p.146)と言われ、ご自身をパンにたとえられました。ベツサイダの奇跡のパン以上のパン、罪の中に死んでいた者を生かして下さる「命のパン」であるお方が、このとき、地上に来られ、人々の目の前におられたのです。しかし、そのことに気づいた人はごくわずかな人たちでした。
イエス様は、今も私たちがご自身を信じ、心に受け入れることを願っておられます。聖餐式でパンとぶどう酒(汁)をいただくことは、イエス様を信じ、心に受け入れ、罪赦され、永遠の命に生かされている恵みをさらに覚えるときです。
「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。 」(ヨハネ6章53-54節 p.146)

結論)先に登場したヘロデは、聖書の中で「罪人の代表」とも言える人物の一人です。「この人は、いったい、だれなのだろう。」(「いったい、何者だろう。」(新共同訳))という問いと、「イエスに会ってみよう」と言う願い(9)は、私たちの問いでもあり、願いでもあります。私たちは真の神様に出会い、イエス様を知るまでは本当に心が満たされるということがありません。私たちは、今、聖書を通して、「主イエスとは何者か」、「どのようなお方か」を知ることができるのです。
弟子たちは、イエス様とお出会いし、従う者となり、主イエスと共に歩みました。その中でいろいろな失敗や間違いを犯すようなことがあっても、それらを赦し、正してくださり、さらに支えて下さる主のご愛を示されました。そして彼らの信仰は強められ、成長していきました。イエス様を信じ、従っていく信仰の歩みの中で、私たちも同じことを体験していきます。その体験の中で、イエス様はどのようなお方かをさらに深く示され、このお方によって養われ、育まれ、支えられていることを深く知っていきます。
主イエスのご愛と恵みをさらに深く知らせていただきましょう。

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ヨハネによる福音書21章15~23節

「イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。
…イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。」
                ヨハネ21: 17

序 論)復活されたイエス様は、ガリラヤ湖畔で、弟子たちといっしょに食事をされました。その後、イエス様は弟子のペテロに語りかけられました。そして、ペテロはどのように応えたのでしょう。

本 論)1.わたしを愛するか
  イエス様は、ペテロに、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか。」と尋ねられました。以前のペテロは、弟子たちの中で自分が一番、主イエスを愛していると自負し、そのことを誇っていました。 (マタイによる福音書26章33節 p.44ヨハネによる福音書13章37節 p.164)
しかし、イエス様が捕らえられたとき、ペテロは三度も主を知らないと否定してしまいます。絶望の中で、苦しんでいたペテロを立ち直らせるために三度、「わたしを愛するか」と問われました。ペテロはこう答えました。「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です。」(15) 以前のペテロとは違い、遠回しな答え方です。では、彼はなぜ、「はい、愛します。」と答えることができなかったのでしょう。それは以前、イエス様に「どんなことがあっても従います。」と自信を持って告白したのに、いとも簡単に否定してしまったからでした。かつてのように「はい、自分は他の仲間たち以上に、あなたを愛します。」と宣言することは到底できなかったのです。
けれども、ペテロのイエス様を愛するという思いが偽りでないこともまた事実でした。そんなペテロの正直で謙遜な思いをイエス様が、彼の内から引き出して下さったのです。
私たちも、時にはイエス様から心が離れたり、他の人をねたんだり、敵対する気持ちを持ってしまうことがあります。しかし、そのような罪をも赦し、私たちをもろもろの罪から解放するために主は十字架にかかって下さいました。自分の罪を示されたときは、神様の前に悔い改め、十字架にかかられたイエス様を仰ぎましょう。
次にイエス様は、ペテロに「わたしの羊を飼いなさい、養いなさい。」(15-17節)と言われました。かつて、イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のため に命を捨てる。」と言われました(ヨハネによる福音書10章11節 p.128) この言葉の通り、イエス様は羊である私たち一人一人を罪による滅びから救うために命を捨てられました。イエス様が弟子たちの羊飼いとなられたように、ぺテロたちも、教会に加わる人たちの「羊飼い」となりなさい、と言われました。
自らの失敗に打ちのめされたこととそれを謙虚に受け止め、そこから一方的なイエス様の愛と赦しによって回復させられ、立ち直ったこと。これらの経験を、ペテロが後に 教会に加えられる人たちに主への喜びと感謝をもって証ししたことでしょう。彼の証しは人々にとって大きな慰め、励ましとなりました。
教会の歴史は、ペテロや他の弟子たちによってイエス様の十字架と復活が証言され、罪の赦しと命の福音が語り継がれることによって造られてきました。そして、イエス様が「わたしの羊」と言われたように、教会に集められた私たちは、皆、イエス様に属する羊です。私たちは羊のように一人一人は弱い者です。ですから私たちは、教会に共に集い、礼拝し、聖書を読み、分かち合います。そうすることによって新たに主からの励ましや慰めをいただき、傷ついた心もいやされ強められて新たに出発することができます。このように私たちは共に主によって養われ、育まれていきます。

2.わたしに従いなさい
  イエス様を愛し、従って歩んで行こうとするペテロに対して、イエス様は「あなたの生涯には苦しいことが続く。そして最後には私と同じように刑場に連れていかれ、十字架にかけられる、そのようなことが待ち受けているのだ」と言われます。(18-19節)そして、それでも「わたしに従ってきなさい」と言われました。そのときペテロが振り返ると、イエス様の愛しておられた弟子、ヨハネが後からついてくるのを見ました。ペテロはヨハネのことが気になりました。「主よ、この人はどうなのですか。」 するとイエス様は、「… あなたは、わたしに従って来なさい。」と答えられました。弱かったペテロも、主イエスが共におられることによって変えられ、強められ、どんな逆境も主に信頼して乗り越え、死さえも恐れず進むことができました。ぺテロの最期は、十字架にかかっての殉教でした。イエス様と同じ十字架では申し訳ないと逆さ十字架にかかって死んだと伝えられています。
一方、ヨハネは長命でしたが、晩年はパトモス島に流刑となり苦難の生活を送ります。しかし、新約聖書の中のヨハネの福音書、手紙、ヨハネの黙示録を書き残し、これらの書によって神様とイエス様の愛と救いを多くの人に伝え励ましを与えてきました。
 ペテロはペテロに与えられた生涯を送り、ヨハネはヨハにふさわしい歩みをしたのです。私たちもそれぞれの役目や働きは違いますが、イエス様に従っていくとき、その人にふさわしい道に導かれ、それぞれの歩みを通して、神様はご自身の栄光を現されます。 

結論)ヨハネは、自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」(20)、と言いました。私たちも「イエス様が愛しておられる者」、「イエス様から愛されている者」です。そして、ペテロのように「罪赦された者」です。ペテロにはペテロに、ヨハネにはヨハネにふさわしく、イエス様がそれぞれに一対一で相対して下さったように、イエス様は私たちにもそうして下さっています。イエス様から示された道、与えられた道を歩んでまいりましょう。
私たち一人一人が「イエス様、あなたのご愛を感謝します。私はあなたを愛し、従います。」と告白して、主に委ねて歩み、主によって成長させていただきましょう。

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ヨハネによる福音書21章1~14節

「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。」ヨハネ21: 4

序 論)週の初めの日(日曜日)、復活されたイエス様は弟子たちの前にみ姿を現されました。弟子たちは、イエス様にお目にかかり、喜びました(20章20節)。その次の週の初めの日、主イエスはトマスにもみ姿を示されました(20章26-29節)。その後、彼らはガリラヤへ行きます。彼らに対してイエス様は…

本 論)1.先にガリラヤで待っておられた
     エルサレムにいた弟子たちは、女性の弟子たちから御使いの伝言を聞きます。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と。」(マルコによる福音書16章7節 p.81)
この後、彼らはガリラヤに向かいました。ガリラヤ湖に漁に出た弟子たちがまだ気づいていなかったときからイエス様は、彼らを待っておられ、近づいて来て下さっていました。彼らが一晩中、網を投げて漁をしても魚は一匹も取れませんでした。「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」(4) イエス様はいつから岸に立っておられたのでしょう。イエス様は、弟子たちが夜通し漁をしている間中、網を打っても打っても何も獲れないという虚しい作業をしているときも、ずっと立って見ておられたことでしょう。弟子たちが気づかないときから、イエス様は彼らを見守っておられました。夜が明け始めたとき、岸辺に立たれたイエス様が彼らに声をかけられました。「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう。」(6) 弟子たちがイエス様のお言葉通りにすると驚くほどたくさんの魚が獲れました。弟子たちはそのとき、以前の体験を思い出しました。(ルカによる福音書5章1-11節 p.91)ペテロにも「あの時と同じだ」という感覚がよみがえってきたことでしょう。ペテロはこの時、改めてイエス様と最初にお会いして召し出されたときの言葉を思い起こしました。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」(ルカ5章10節)  彼らはこの方が主イエスだとわかりました。イエス様に心を向けず、自分たちだけの力で獲ろうとしたとき、彼らは魚を一匹も獲ることができませんでした。しかしイエス様のみ言葉に素直に従ったとき、たくさんの魚が獲れました。私たちも日々の生活の中でイエス様との交わりを持たず、心の定まらない生活をし、自分の力だけで何とか頑張っていこうとしても、良い結果は生まれず、空回りしたり、疲れてしまうだけだったりします。イエス様に心を向け、信頼し、そのみ言葉に従っていくなら、その働きは良い実を結びます。

2.必要なものを備え、与えてくださる
  弟子たちが陸に上がってみると炭火がおこしてありました。イエス様が朝食の用意をして下さっていたのです。そして彼らのために用意された食事へと招いて下さいました(9-13)。このことは、イエス様は、弟子たちにいつも必要な養いを与えて下さる御方であることを示しています。主イエスは私たちに霊の養いだけでなく、心にも体にも必要な養いを与えて下さるのです。
日本に福音を伝えた宣教師たちも福音を伝えると同時に、医療・福祉・教育等の分野でも日本人のために大きな貢献をしました。私たちも地域の人たち、隣人との交わりの中で、福音を伝えると共に、たとえ小さな働きや奉仕であったとしても自分に与えられている賜物を生かし、自分が必要とされていることを、自分の出来る方法で提供していきましょう。この復活のイエス様との食事は、五千人の給食、最後の晩餐と共に、聖餐式の源流の一つと考えられます。最後の晩餐を共にした弟子たちが、イエス様とここでも食事をしました。そして、その後、教会で弟子たちは、聖餐にあずかる度に、復活の主がここに共にいて下さることを確認してきたのです。
復活されたイエス様が弟子たちに現れられたのは、これで三度目でした(14)。それは、弟子たちや私たちの信仰が弱く、もろいものであること、心が頑なであることを示しています。また、神様のご愛や恵みを忘れてしまいやすい者です。
イエス様は、そのような私たちに、主のご愛と恵みを示すために何度でもみ姿を現して下さいます。私たちの信仰の歩みは、何度も示されるイエス様の恵みの御業によって、 支えられ、導かれ、守れらていきます。イエス様に愛され、選ばれ、信仰を与えられた者は、この復活されたイエス様と共に生きるものであり、イエス様の愛と恵みを証しする者とされるのです。結論)イエス様が三度目に弟子たちにご自分を現わされたのはかつて彼らが慣れ親しんでいた場所であり、漁をしていた場所でした。
イエス様は彼らの日常の生活の場にご自分の姿を現して下さいました。今、聖霊なる神の御力とお働きによってイエス様は、いつもどんなときも私たちと共にいて下さいます。この地上だけでなく、天の御国に移されてもずっと一緒にいて下さいます。
イエス様は弟子たちと一緒に食事をされました。食事は私たちにとって日常のごくありふれた光景の一つです。そして食事はリラックスした語らいのときでもあります。
 ヨハネの黙示録3章20節でイエス様は「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(p.390)と約束しておられます。ここで「彼と食を共にする」というのは最も親しい関り、交わりを示す表現です。
イエス様は、私たちと共に食事をして下さる方、私たちの日常生活の中で、親しく共に交わり、共に歩んで下さる御方です。イエス様が弟子たちをもてなして下さったように、私たちを養い、霊的に成長させて下さいます。主イエスから豊かで幸いな養いをいただき、交わりをさらに深めてまいりましょう。

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ヨハネによる福音書20章1~18節

イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。                 ヨハネ20: 16

序 論)週の初めの日の早朝、マグダラのマリヤは、墓の入り口に置いてあった石が取りのけてあるのを見て、それを弟子のペテロとヨハネとに報告しました。二人はイエス様の御身体がなくなっていることを確認しましたが、それが聖書の預言の成就(9)だと悟ることはできませんでした。ペテロとヨハネは去り、その場にマリヤだけが残ります。
復活されたイエス様は…

本 論)1.私たち一人ひとりの名前を呼んで下さるマリヤは墓が空であることを見た後も、なおそこから離れることができずに泣いていました(11)。その涙はイエス様の死そのものを悲しむ涙であり、それに加えてその御遺体を誰かに奪われたと思い、御身体が失くなってしまったことを悲しみ嘆く涙でした。彼女は、自分の手でイエス様のなきがらを心を込めて葬りをしたかったのです。御遺体を目の前にして、お別れの時間がほしいと切に願っていたことでしょう。
まだイエス様が復活されたことを知らないマリヤは御使い(天使)の姿を見、声をかけられても悲しみから解放されませんでした(12-13)。しかし、イエス様はすでに復活しておられたのです。そして、マリヤのかたわらに立たれ、御声をかけられました。「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(14-15)。  絶望に打ちひしがれたマリヤの目にはこの方がイエス様だとわからず、園の番人だと思っていました。主はもう一度、マリヤに呼びかけられます(16)。「マリヤよ」と懐かしい御声でいつものように呼び掛けて下さいました。このとき初めて、マリヤは目の前におられる方がイエス様であると気づきました。彼女は、主イエスとの親しい交わりを持ち主を愛していましたから、その御声で気づいたのです。
私たちもときには、このときのマリヤのように大きな悲しみや痛み、苦しみの中に全く見捨てられたように感じるときがあるかもしれません。しかし、復活され、今も生きておられるイエス様は、私たちをお見捨てになることはなく、私たちのところにも訪ねて来られます。そして、「マリヤよ」と呼びかけて下さったように私たち一人ひとりの名前を呼んで下さり、私たちがその呼びかけに応えてイエス様と父なる神様に心を向けることを待っておられます。

2.私たち一人ひとりを「わたしの兄弟」と呼んで下さる
  復活されたイエス様に名前を呼ばれたマリヤは、「ラボ二(先生)」と答えました。それは、マリヤがいつもイエス様をお呼びしていた呼び方でした。その後、すぐにイエス様は彼女に「わたしにさわってはいけない」と言われました。この訳を文字通り受け止めると、イエス様に出会うことができて喜んだマリヤが思わずイエス様にすがりつこうとしたので、イエス様が「私に触れてはいけない」と言われたように受け取れます。でも、ここの個所のもとの言葉を調べると、マリヤはこのときすでにイエス様にすがりついていて、イエス様は「すがりついていてはいけません。もう手を離さないといけません。」という意味で言われたことがわかります。
その後、イエス様は、マリヤにご自身が神の御もとに昇られることを告げ、またこれを弟子たちに伝えるように命じられました(17)。なぜイエス様は、神様のもとに行こうとされたのでしょうか。それは弟子たちに聖霊を与えるためでした。イエス様は十字架にかかられる前の晩、弟子たちと夕食を共にされたとき、「助け主」(聖霊)が、来ることを告げられます(ヨハネ16章7節 p.168)  復活されたイエス様は、信じる者の益となるために天に昇られます。その後、イエス様は、約束通り、弟子たちに聖霊を与えて下さいました。
イエス様は、聖霊によって信じる者たちの内に住んで下さいます。それは、イエス様とのより深い人格的な交わりを持って歩んでいくためでした。主がマリヤに「私にさわってはいけない」と言われたのは、マリヤに対しても、今までの地上におられた目に見えるイエス様との関係ではなく、内に住んで下さる聖霊によって、イエス様とより深い交わりを持つことを望まれたのです。私たちが求めるべきイエス様との交わりも、私たちにすでに与えられている聖書のみ言葉と聖霊による深い交わりです。そしてイエス様はご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました(17)。それによって、イエス様の父なる神様は、弟子たちにとって、そして私たちにとっても父なる神様であることを示されました。十字架によって罪赦され、イエス様の復活と昇天によって聖霊をいただいた私たちは神の子とされているからです。(ローマ人への手紙8章12-16節 p.243) イエス様が十字架と復活によって成し遂げて下さった救いのみわざを信じる私たちはもはや罪に定められることはありません。ここで「肉」と表現されている、罪に支配されて生きることから、私たちはもう解放されています。そして、ローマ8章15節で語っているように神の子とされる御霊、聖霊が与えられて、神様を父とし、イエス様の兄弟、姉妹として歩む者とされているのです。

結論)復活されたイエス様が、マリヤ、弟子たちをご自分の方から訪ねて行かれ、御姿をあらわして下さったように、今も、私たち一人ひとりを訪ね、名前を呼んで下さり、私たちがそのよびかけに応えるのを待っておられます。十字架の苦しみを経て、復活されたイエス様は、たとえ私たちがどんなに絶望的な状況にいるように思えるときであったとしても、私たちの最大の希望、慰め、支えです。イエス様の十字架と復活によって、私たちは、今、父、御子、御霊の愛の交わりの中に招かれ、その中に入れられています。主のご愛に応えて、さらに主イエスを慕い求め、御霊によってイエス様との親しい交わりのうちに歩ませていただきましょう。

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ヨハネによる福音書19章23~30節

「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」                 ヨハネ19: 30

序 論)総督ピラトによって、イエス様は引き渡され(16)、自ら十字架を背負って刑場
(ゴルゴタ)へ向かわれました。主イエスがかかられた十字架の周りには様々な立場の人たちがいました(祭司長たち、ローマの兵卒たち、イエス様の弟子である女性たち、…)。
イエス様は、彼らのために祈られ、言葉をかけられます。十字架のそばで起こったことと主のみ言葉の意味は…

本 論)1.旧約聖書の預言の言葉の成就
    イエス様を十字架につけたローマの兵卒たちは、イエス様の着物を自分のものにするこ
とにしか関心がありませんでした。彼らはイエス様の上着を縫い目にそって、四等分し、縫い目のない下着は、だれがもらうかを決めるために十字架の近くでくじ引きをしていました。この出来事は旧約聖書の詩篇22篇18節のみ言葉の成就でした(24)。
「彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする。」(詩篇22篇18節 p.765)兵卒たちがこのように着物を分け、くじ引きにしたことの背後に、彼らの意思を超えた神様のご計画がありました。彼らは、自分たちは自覚しないまま聖書の預言が成就されました。このとき、人類の歴史の中で、神様が人間の救いのためになされた最も重大な出来事、神の御子が世の罪を背負って十字架の上で死なれ、神様の救いのわざの計画が、彼らのすぐそばで、今,成されようとしていました。しかし、兵卒たちは、十字架の最も近くにいたにも関わらず、イエス様に目を向けるどころか、自分たちの目の前にあるものが手に入るかどうかに夢中になっていました。これはイエス様を信じる以前の私たちの姿でもあります。イエス様が成して下さった救いのみわざについて何も知らず、神様に心を向けようとしないで、罪の中で永遠の滅びに向かっていました。
このような彼らのため、そして私たちのためにイエス様はご自分の着物だけでなく、すべてを与え尽くされました。イエス様が十字架の上で祈られ、命さえも与えて下さったのは、このときのローマの兵卒や周りにいた人々のようにイエス様がどのようなお方なのかまだ何も知らない人たちのためでもありました。

2.十字架の上でのイエス様の言葉(第3言、5言、6言)
  イエス様は十字架にくぎづけになって激しい痛みに苦しんでおられたにも関わらず、すぐそばにいた母マリヤをいたわり言われました。「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」 (26) そして残していかれる母親のことを配慮して、弟子のヨハネに向かって「ごらんなさい。これはあなたの母です。」 (27)と言われ、イエス様はヨハネにマリヤの今後のことを託されました。
ヨハネと母マリヤが親子の関係になることによって、イエス様を信じるという信仰による神の家族が始まりました。教会も神様を父とし、イエス様を長子とする神の家族です。イエス様は、かつて集まって来た人々に向かって、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。」(マルコ6章34-35節 p.55)イエス様を家族や教会、あるいは何かの集まりやグループにお迎えするとき、そこに神の家族が創造されます。実際の家族であればその家族はイエス様によって神の家族として再創造されています。神の家族、天の教会は永遠に続くのです。
次にイエス様が言われたことは「わたしはかわく。」(28)でした。これは詩篇22篇15節の言葉の成就でした。
「わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。 」  (詩篇22篇15節 p.765)
これは肉体的渇きと共に、神様を求める霊的な渇きでもありました。イエス様が私たちの身代わりに神から捨てられ、渇きを体験して下さったがゆえに、私たちはイエス様を通して、神様との交わりをいつでも持つことができ、聖霊が与えています。それゆえに私たちはいつまでも渇くことのない恵みにあずかれるのです。

「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」  (ヨハネによる福音書4章14節 p.140)

イエス様は兵卒の差し出した、酢いぶどう酒を飲まれました。そして最後に言われたのは「すべてが終わった」(30)と言葉でした。これは息を引き取られる最後のときが来たという叫びではありません。新改訳聖書では「完了した」、新共同訳聖書では「成し遂げられた」と訳され文語訳では、「事畢(終)(おわ)りぬ」と訳されています。(新聖歌109番4節の歌詞参照)28節で聖書は「イエスは今や万事が終ったことを知って」と告げています。このイエス様の「すべてが終わった」は旧約聖書の預言の言葉を一つ一つ成就して、神様がすべての人を罪から救おうとされたご計画がすべて成し遂げられ、贖いのわざが完成された勝利の叫びでした。
すべての人の救いのために働き続けて来られたイエス様は、その使命をすべて果たされ、ご自分の霊を父なる神様に委ねて息をひきとられました。

結論)神様はイエス様の十字架による救いという人知をはるかに超えたなさりかたで、救いの計画を完成されました。それは、神の御子が人となられ、十字架にかかられて死ぬという道でした。イエス様が十字架で苦しみを受けられ、血を流して下さったので、すべての人が救われる道がすでに開かれています。私たちはそれをただ信じるだけで救われるのです。
 聖書は、「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。」と語っています。  (ペテロの第二の手紙1章3節 p.372)   「いのちと信心にかかわるすべてのこと」はもうすでに イエス様によって与えられています。私たちがこれから他のものを造り出したり、何かをこれ以上付け加える必要はないのです。私たちの信仰が育てられ、守られ、そして永遠の命に生かされるために必要なすべてのことはイエス様によってなされ、すべては成し遂げられたのです。
私たちのできることはこのイエス様の十字架の救いを感謝し、信じ、私のためであったと受け取ることです。受難週に入る今日から一週間、十字架の上の七つの言葉一つ一つを深く黙想し、イエス様の苦難と十字架の恵みを さらに覚え、神様に対する悔い改めと主イエス様への信仰を強めるとき、感謝のときといたしましょう。

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ヨハネによる福音書18章15~27節

「…、『あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。」              ヨハネ18:26-27

序 論)イエス様は、ゲツセマネの園におられるとき祭司長たちに捕えられました。その後、大祭司の前での宗教裁判が始まりました。不当な裁判の中で、どんなに侮辱されてもイエス様の毅然とした態度は変わりませんでした。ご自分の弟子たちや教えについて尋問されても、イエス様は弟子たちのことには一言も触れず、ご自分の教えが、明白な言葉で、しかも「会堂や宮」のように人が集まるところで公然と語ってきたと言われます。また、平手打ちをされても、そのような仕打ちを受ける行為は何もしていないと強く主張されました(19-23)。それと対照的にペテロは、剣を振り回すことはできましたが(10)、自分がイエス様の弟子であることを告白することはできませんでした。
イエス様は…

本 論)1.ペテロのために祈られた
     最後の晩餐のときイエス様は、ペテロの裏切りを予告されました(13章36-38節)。またペテロのために祈ったと言われます(ルカ22章31-32節 p.128)。
イエス様はご自分を捕らえに来た祭司長たちに、「…、この人たちを去らせてもらいたい。」(8節)と言われました。しかし、ペテロは「もうひとりの弟子」と一緒にイエス様の後についていきます。そして、大祭司の邸宅の中庭に入りました(15)。もう一人の弟子は、自分が誰であるかを告げているのに(17)、ペテロは、自分がイエス様の弟子であることを否定しました(18、25、27)。イエス様は祭司長たちに「わたしはそれである。(I am.)」と堂々と答えられましたが(5、6、8)、ペテロは「いや、そうではない(I am not.)」と言い、呪いの言葉さえ口にしてしまったのです。(マタイ26章74節 p.46 口語訳では訳されていない 新改訳「すると彼は「そんな人は知らない」と言い、のろいをかけて誓い始めた。」)主を知らないと三度目に言ったとき、イエス様はペテロを見つめられました。(ルカ21章61節 p.130)。それは、ペテロの罪や失敗を赦す、愛のまなざしでした。鶏の鳴く声を聞いて(27)、ペテロはイエス様が予告されたことを思い出し、激しく泣きました(ルカ21章62節)。
イエス様がペテロのために祈られたように、今もイエス様は父なる神様の右の座で私たち一人ひとりのためにとりなし祈って下さっています。(ローマ人への手紙8章34節 p.244)。そして、私たちのことを愛のまなざしで見つめて下さっています。
私たちもイエス様の愛を受けて、イエス様のように他の人のためにとりなし祈る者となるよう神様は願っておられるのです。

2.ペテロを赦し、立ち直らせて下さった
  そのときの鶏の鳴き声は、イエス様が十字架にかかる日の夜明けを告げる声でもありました。その日、十字架にかかってすべての罪のさばきを一身に受けられたイエス様は、三日後に復活され、ペテロの前に御姿を現されました。イエス様は、ペテロの罪と失敗を赦し、愛をもって受け入れて下さったのです。主はペテロに、「わたしを愛するか」と三度尋ねられ、「わたしに従ってきなさい。」と言われます。(ヨハネ21章15-19節 p.178)   この18章では、自分の力に頼って剣を抜き、イエス様に従おうとして失敗してしまったペテロでしたが、キリストの深い愛を知り、このときから本当に主に従う者へと変えられたのです。ペテロはそのように立ち直ることができ、伝道者として歩むことができました。
ペテロは、自分はイエス様の弟子であることをあのときは否定してしまった、大きな罪を犯してしまった、恥ずかしい、とかつてのことを思い出すときもあったことでしょう。けれども、ペテロはそれを赦し、包み込んで下さる、主イエスの愛と恵みを知っていました。だからペテロはできれば隠しておきたい自分の裏切りと失敗を隠さずに何度も語り続けました。四つの福音書すべてに、このときのペテロがイエス様を否認した出来事が記されています。こんな自分だったけれど、イエス様が再び私を受け入れて下さった、自分のみじめな姿よりも、キリストの愛がそれをはるかに上回っていると、失敗談ではなく、キリストの恵みを語ったのです。
私たちは誰もが、できれば人に隠しておきたい、見られたくない、そんな姿を隠している者です。しかし、そのような私たちのためにイエス様は、十字架にかかり、よみがえられました。イエス様は、私たちが自分の罪を認め、その重荷をご自分のもとに持って来ることを願い待っておられます。(マタイ11章28節 p.17) たとえ、何かの失敗や罪を犯してしまったとしても、イエス様のもとに立ち返るとき、イエス様は私たちの罪を赦し、新たに立ち直らせて下さるのです。
結論)ペテロのあの空威張り、不甲斐なさ、自分のみじめな姿を示されることは私たちにもあるのではないでしょうか。もっと突き詰めて言えば、私たちの高慢さ、罪深さです。しかし、そのような愚かで罪深い私たちのためにイエス様は十字架で命を捨てて下さいました。私たちはいつでもそこに立ち返ることができるのです。この失敗、挫折があったからこそ、ペテロは信仰の原点に立ち返ることができました。それは自分に絶望して、ただイエス様にお頼りするようになることです。自分は愚かで罪深くて神様の赦しと助けがなければやっていけない。イエス様にお頼りするしかない。その時にこそ、私たちは
神様に支えられて、強く立ち、歩むことができるのです。イエス様が、ペテロを支え、助けて下さったように私たちのことも支え、助けて下さるのです。

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ヨハネによる福音書16章25~33節

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」  ヨハネ16:33

序 論)イエス様と弟子たちの地上での別れのとき、十字架にかかられるときが近づいてきました。木曜日(洗足木曜日)の最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちに語り続けられました。

本 論)1.父なる神様のもとに帰られること
    イエス様が、弟子たちと共に地上で歩んでおられる間はいろいろなたとえ話を用いて父なる神様と人間の関係、神の国のことなどを語っておられました。でも、すぐに父なる神様のことをはっきりと語る時が来ると言われます(25)。では、ここで言われる「その日」というのは、いつの日のことを言われているのでしょう。
「その日」は、イエス様が十字架にかかられ、復活された後のことを言われています。この日(木曜日)の翌日、イエス様は、十字架にかかられ死なれます。しかし、イエス様は三日後に復活されて、弟子たちと共に40日間過ごされ、昇天されて父なる神様のもとに帰っていかれます。このことを次のように語っておられます。
「わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである。」(28節)イエス様は、私たちを罪から救うために、父なる神様のみもとから、人となって地上に来て下さった神の御子であり、復活された後は、神様のもとに帰られることを宣言なさいました。その言葉通り、昇天された後、栄光の座につかれ、聖霊を弟子たちに与えて下さいました。
福音書を読むと、地上でイエス様と共に歩んでいた弟子たちが祈ったという箇所は、一つもありません。イエス様にどのように祈ったらよいのですか、とお尋ねする様子は 書かれていますが(ルカ11章1節 p.106), 弟子たちが自分から進んで祈ったという言葉はないのです。
しかし、「その日」(26)、ペンテコステの日に聖霊が与えられてからは、イエス・キリストのお名前によって、それぞれが父なる神様に祈ることができるようになりました。 もう、それまでのように、よく祈れない弟子たちの代わりにとりなし祈られるのではなく、弟子たちが、直接、神様に祈り求めることができるのだと言われます。事実、弟子たちは、「その日」以来、聖霊を内にいただいて、父なる神様に祈り続けました。それ以降、クリスチャンは2000年間、イエス・キリストの御名によって祈ってきました。
そして、私たちにとって「その日」とは、イエス様を神の御子、私の救い主と信じ、心に受け入れたときです。そのときから、私たちも、弟子たちと同じように主イエスの御名によって、父なる神様に祈ります。
イエス様を信じ、愛する者を父なる神様も愛して下さいます(27)。私たちは父なる神様に信頼して祈り、主イエスに従う歩みの中で、神様との交わりの中で、信仰と愛にお いて、日々、霊的に成長させていただいているのです。

2.父なる神様と共に世に勝たれたこと
         ここまでのイエス様のお言葉を聴いた弟子たちは感激して語ります(29-30)。
イエス様は、「しばらくすれば」(16節、19節)とか、「その日には」(27)と言われたのに、弟子たちは、「今わかりました」(30)、と答えます。イエス様は、そんな彼らに、彼らがイエス様を見捨てて逃げ去ることを予告されました(31-32)。ここで予告された通り、イエス様がユダヤの宗教指導者たちに捕らえられたとき、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ去ります。(マタイ26章56節p.46、マルコ14章50節p.78)  しかし、イエス様は一人でおられるのではなく、どんなときも父なる神様が共におられました。さらにイエス様は「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。」(32-33節)と言われました。
私たちのすべての、悩み、苦しみ、病、死への恐れは、イエス様がすべてご存知であり、ご自身が経験されたことだからです。
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」(へブル人への手紙4章15節 p.347)
イエス様も私たちと同じ肉体を持たれ、貧しさ、飢え、かわきを体験され、人に裏切られ、理解されず、あざけられ、ときには孤独も味わわれました。そして、イエス様は弟子たちに、そして今も私たちに「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(31節)と語られます。
イエス様が言われる「世」は、私たちを悪や不幸に引きずり込む罪や様々な誘惑、そして愛である神様に反抗しようとする力のことです。イエス様は、地上の歩みの中で、どんなときも父なる神様に祈り、聖霊の力により頼んで、「世」に勝たれました。そして、十字架と復活によって、死と悪魔にも打ち勝たれました。
すべてに勝利されたイエス様が、私たちを限りなく、深く、愛して下さり、私たちの霊の戦いを一緒になって戦い、勝利を与えて下さいます。

結論)私たちが、今、生きている現実のこの世には、さまざまな苦しみがあり、悩みがあります。でも、十字架の上で私たちに身代わりとなって罪に対する裁きをことごとく引き受けて下さり、復活して下さったイエス様と共に歩む私たちはいろいろな苦しみや悩みを乗り越える力が与えられます。私たちは、聖書の言葉を通してキリストに教えられ、導かれ、このお方と交わりながら、この世の歩み、地上の歩みを天の御国に至るまで続けていきます。
このヨハネによる福音書を書いた、イエス様の弟子のヨハネは、手紙の中でこう告げています。
「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」   (ヨハネの第一の手紙5章4-5節 p.380)
たとえ、この世の苦しみや悩みがあったとしてもイエス様を信じ、お頼りする私たちは、聖霊によって世に勝つ力が与えられるのです。

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