ローマ人への手紙1章7~17節

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。          (ローマ1章16-17節  p.233)

序 論)パウロは、この手紙を、第3回伝道旅行(AD53-57年頃)の際に3か月滞在した、リントで書いたと考えられています。あいさつ(1-7)の後、ローマ訪問を熱望していることを語ります(8-15)。そして、福音を宣べ伝えたい理由を語ります。(16節の原文には「なぜなら」という意味の言葉が使われている)

本 論)1、福音は救いを得させる神の力であるから
 パウロは「わたしは福音を恥としない」と語ります(16)。しかし、私たちが日本の社会でキリストを信じそれを宣べ伝えようとようとするとき、私たちは恐れと不安を覚え、ときには恥ずかしい思いをすることがあるかもしれません。
では私たちも「わたしは福音を恥としない」と言えるために何が必要なのでしょうか。パウロがここで伝えているのは、自分の意思の強さや信仰の深さではなくて、福音そ のものの力です。「ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも」は世界の全ての人々にという意味です。すべての人々に信じることにより救いをもたらす、その神の力が福音には働いています。その神の力を信じ、それに信頼することによってパウロは、福音を誇ることができたのです。私たちも福音を恥とせず、誇ることができるために必要なことは、自分の強い意志や不屈の信仰を持とうとすることではなく、福音に働いてい神の力を知ることです。  パウロは福音の中心を1章2-4節で語っています。それは神の独り子イエス・キリストの十字架と復活です。そこに信じる者すべてに救いをもたらす神の力が働いているの
です。では、主イエスの十字架と復活はどのようにして、信じる者すべてに救いをもたらすのでしょうか。そのことを語っているのが次の17節です。(17節にも16節と同じく原文では「なぜなら」という接続詞がある。)

2、福音には神の義が啓示されているから
 17節のはじめを原文の語順に従って訳せば「神の義は福音の中に啓示されている」となります。かつてのマルティン・ルター(1483-1546)にとっては神の義は福音どころか、裁きの宣言、自分は救われないという悪い知らせでしかありませんでした。しかし、例えば詩篇71篇を読むと詩人は何度も「あなたの義(神の義)」という言葉を繰り返し、喜びと感謝の思いで歌っています。「わたしは主なる神の大能のみわざを携えゆき、ただあなたの義のみをほめたたえるでしょう。」(詩篇71篇16節 p.809)神の義が福音の中に啓示されているとはどういうことか、ルターはそのことを日ごと神様に祈り、聖書研究を続けながら問いました。
そして、示されたのは「神の義」は、神様が義なる方、正しい方であられる、ということだけを意味しているのではなく、神がご自身の義を与えることによって罪人を義として下さり、救って下さるということでした。
ルターは、「神の義」は「恵みの御業(みわざ)」であることを発見したのです。(詩篇71篇2節の「あなたの義」(口語訳p.808)が新共同訳聖書では「恵みの御業」と意訳されている) 罪に満ちており、どんなに努力しても自分の力では義なる者、救いにふさわしい者となることができない私たちに神様がご自分の義を与えて下さり、私たちの罪を赦し、義なる者として下さる、これが「神の義」です。神の義は、主イエスの十字架と復活において実現し、私たちに分け与えられました。
主イエスの十字架によって神様は私たちの罪を赦し、帳消しにして下さいました。そして、主の復活によって、私たちをも、主イエスと共に神の子として新しい命を生きる者にして下さいました。これがキリストの福音です。この福音に神の義が啓示されているのです。

3、信仰から信仰へ
 キリストの福音において啓示されているこの神の義は。信じる者にすべてに救いをもたらします。その神からの義を喜んで受け取ることが信じること、信仰です。「信仰に始まり信仰に至らせる」(17)の原文を直訳すれば「信仰から信仰へ」です。
私たちが義とされ、罪を赦されて救われる、そのことは最初から最後まで信仰において実現するのです。「初めから終わりまで信仰を通して実現される」(17 新共同訳)
17節の最後で、ハバクク書2章4節(p.1298)の「しかし義人はその信仰によって生きる」の言葉が引用されています。神様が独り子イエス・キリストによって与えて下さった義、神の恵みの業によってのみ生きる者、それが「義人、正しい人」なのです。
パウロがここで語っている「信仰のみによって義とされる」という真理をルターが再発見したことによって宗教改革が起こり、プロテスタント教会が誕生しました。ルターはこの福音が語られ、聞かれ、信じる人たちの集まりが教会だと言っています。

結 論)今回の箇所(特に17節)は、ルターによって始まった宗教改革に大きな影響を与えました。当時のカトリック教会が見失っていた真の福音、喜ばしい知らせを、このみ言葉からルターは聞き取ったのです。彼がこの福音に忠実に生きようとしたことによって宗教改革が始まりました。
神の義とはイエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、義として下さる神の恵みの業であり、私たちは信仰によってのみ、その救いにあずかることができます。この福音にこそ、信じる者すべてに救いをもたらす神の力が示されています。この神の力を信じ、それに信頼することによって、私たちもパウロと共に「わたしは福音を恥としない。」とはっきりと言うことができ、福音を誇ることができるのです。

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ルカによる福音書12章1~12節

「・・・あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」              (ルカ12:5,6,7)

序論)イエス様があるパリサイ人から食事の招待を受け、その席に着いておられた時、イエス様は、パリサイ人と律法学者たちに対して「あなたがたはわざわいである」と厳しく批判されました。その結果、彼らはイエス様を「ねらいはじめ」(11:53,54ました。そして敵対する者たちの敵意が高まり行くその中で、イエス様の周りに人々が色々な思いを持って群がってきました。
イエス様はまず、弟子たちに向かって語られます。

1、「偽善に注意しなさい」
 イエス様は弟子たちに「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。」(1)と言われました。「パン種」はイースト菌のことですが、ほんのわずか入れただけで、すごい膨張力を持っています。偽善が心に入ってくるとまるでパン種のように、音をたてないけれども大きな力を持って、その人を占領していくと言われているのです。イエス様は人々を間違った信仰へと導くパリサイ人の「偽善」に影響されないようにと注意されたのです。パリサイ人は神の務めに生きているようでありながら、その内実は神の言葉を聞いて聞かない生き方をしていました。表面は信仰者らしく取り繕っても、心の中は貪欲や悪意に満ちていたのです。
偽善というのは人に良く見せようとして本当の自分を偽ることです。なぜ偽善が起こってくるのかというと、人を恐れるからだと4節で言われています。
律法学者やパリサイ人の敵意が高まる中で、イエス様の弟子と告白するなら迫害が自分たちの身にも及ぶかもしれない危険な状況の中に弟子たちはいました。そのような弟子たちにイエス様は「恐れるな」と言われます。それは彼らに恐れの思いがあったからです。
人を恐れ、信仰を隠し、イエスの弟子ではないように振舞ってしまうのは、パリサイ人が人前で自分を取り繕おうとする偽善と同じなのだ、とイエス様は弟子たちに言われたのです。後々、イエス様が捕らえられた時、筆頭弟子のペテロはイエス様のことを3度知らないと否定してしまいます。他の弟子たちも恐れて逃げ出しました。この弱い弟子たちの姿は私たちの姿でもあります。
しかしイエス様は私たちの弱さを全てご存知の上で「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが」(4)と弟子たちを、そして私たちを「友」と呼んで下さいます。
イエス様は私たちの罪を暴いてそれを裁こうとしておられる方ではなく、むしろ私たちが誰にも見せずに外側を取り繕いつつ隠し持っている罪を、私たちから取り去って、それをご自分の身に背負い、十字架にかかって死んで下さったことによってそれを赦して下さる方なのです。
そしてイエス様のご復活をもたらした神様が私たちの命を支えてくださるのです。

2、恐れを除く神への畏れ
 4節5節には、私たちが本当に恐れるべき相手は、人間ではなくて神様だということが語られています。その神様は「殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかた」(5)だと言われます。これを読むと神様とは恐ろしい方だ、死んでから地獄に投げ込まれたらどうしよう、と不安になります。
イエス様はここで私たちに、神への恐怖を植え付けようとしておられるのではなく、人間は肉体の命を奪うことはできても、死を越えて私たちを最終的に支配しておられるのは神様なのだよ。それは、死んだ後と言うよりもむしろ今生きているこの人生の日々の歩みにおいて、私たちを本当に支配し、支え、守り、導いて下さっているお方がおられるのだよ。と天の父なる神様を示そうとしておられるのです。
私たちは多くの恐れに取り囲まれています。人生には色々な苦しみや悲しみがあって、それが私たちを恐れさせます。恐れからの解放は、恐れから目を背けることによってではなくて、本当に恐れるべき方と出会うことによってこそ得られるのです。それはびくびくするというような意味の「恐れる」でなく、「畏れる」「神を神として崇める」ということです。
本当に恐れるべき方とは、私たちがこの世の人生において感じる恐れの全てを越えて支配しておられる方です。このお方に一切をお任せすることが神を畏れるということです。
6、7節はそのことを語っています。スズメや髪の毛一本に象徴されているように、神様は小さくはかないように見える私たち一人ひとりを決して忘れることなく、尊く思い、日々の歩みの隅々までをみ手の内に置いて守り導いて下さっているのです。それゆえに私たちは、人の目を恐れることなく、イエス様が私たちの中に見つめて下さっている信仰にしっかりと立たせていただきましょう。そうするならば、「人の子も天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とあります。「人の子」というのはイエス様がご自分のことを言われる言葉です。私たちがイエス様への信仰を人々の前で告白するなら、イエス様ご自身が天で、私たちのことを、「神よ、これがわたしの友です」と言ってくださる時がくるのです。どんな恐れや、困難や、途方にくれるように思える時でも、「イエスこそ私の主です。友です。」と主を信頼して生きることは、天に宝を積むことであり、永遠の価値を持っているのです。
それでも、私たちは弱い存在です。しかしイエス様はそのような欠けある私たちを知っていてくださっています。イエス様は十字架につけられながら、その十字架につける人々のために、逃げ去った者たちのため、そして私たちのために「父よ、彼らをおゆるしください」と父なる神に祈られました。そのイエス・キリストの愛がどんなに深いものであるかを私たちに証しするのは、聖霊の力です。この神の愛を拒み、イエス様の差し伸べて下さっているみ手を振り払いイエスの十字架の死による赦し、そんな救いは必要ない、自分には関係ないと言ってしまうことは聖霊を冒涜することです。十字架を仰ぎ、差し出されている御手にすがって参りましょう。

結論)私たちはこの後、それぞれの生活の場へと遣わされていき、そこで、人々の前で信仰者としてどう語るかが問われます。けれども心配することはありません。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(11,12新共同訳)のです。信仰を告白する言葉は、聖霊が私たちに与えて下さるものです。自分の生涯をそのまま語れば、聖霊がそれを助けてくださるのです。聖霊のお働きを信じて、心配しないで身を委ねることこそが、求められているのです。

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ルカによる福音書12章13-21節

「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。…自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。」 (ルカ12章13、21節  p.109)

序 論)イエス様が弟子たちと、群衆に向かって話しておられるとき、「群衆の中のひとり」(13)が兄弟同士の遺産相続争いの解決をイエス様に依頼しました。しかし、主イエスはこの依頼を断られました。この後、イエス様が語れた言葉と「愚かな金持ちのたとえ」を通して伝えようとされたことは…

本 論)1、貪欲に警戒すること
「貪欲」とは、自分に与えられている分を越えてもっともっとと求め、そのために人のものを奪ったりすることだと一般的には思われています。だから、この人が自分の正当な取り分を求めることは貪欲では、ないと思われます。
しかし、イエス様は「貪欲に…警戒しなさい」に続いて「たといたくさんの物を…人のいのちは持ち物によらないのである。」とおっしゃいます。「貪欲」の意味を先ほどのように思っているとイエス様が言われた言葉と意味がうまくつながりません。
ここで、主イエスは「貪欲」をもっと深い意味で用いておられます。それは、自分の正当な取り分を越えて欲しがることではなく、自分が持っているものによって自分の命を得ることができる、生きることができると思っていることです。
「たといたくさんの物を持っていても」の原文を直訳すると「何かが有り余るほどあっても」となります。私たちが、それがあることによって人生が決定づけられると思っ ているもの、お金(財産)、能力、才能、健康、体力、容姿等々、これらは「持ち物」と言えます。
しかし、イエス様はここで、それらによって人の命、人生が決定づけられることはないと、教えておられます。それらのものによって人の命、人生が決定づけられると思っ てそれらを求めることを「貪欲」と言っておられます。この人も遺産を受け継いでそれによって自分の人生を築いていこうとしている点で貪欲に陥っていました。
私たちも、自分の分を越えて人のものまでも欲しがったり、奪い取ったりはしていないかもしれませんが、しかし、自分が何を持っているかによって人生が決定づけられると 思っています。生まれつき与えられているものであれ、努力して獲得したものであれ、自分が持っている広い意味での「持ち物」により頼んで人生を築こうとしています。
イエス様はそれを「貪欲」と呼んでおられます。あなたの心はそういう貪欲に支配されているのではないか、と主イエスは私たちに問いかけておられるのです。
さらに聖書は「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ人への手紙3章5節 p.317)と語ります。創造主なる神を忘れ、目に見えるものや「持ち物」だけに頼ろうとするとき、私たちは、貪欲、偶像礼拝に陥っているののです。
そして、主イエスは彼と弟子たち、群衆に一つのたとえ話を語られます(16-21)。

2、神の前に富むこと
 神様は、この金持ちのことを「愚かな者よ」と言っておられます(20)。彼の言動には「わたし、わたし」という自己中心の思いと「もっと多くを!」という貪欲の思いが現われています。そして何よりも愚かだったのは、自分が得たもの、蓄えたものによって命を得、生きることができ、持っている物によって人生が決まると思ったことです。つまり貪欲に陥ってしまいました。
愚かな者ではなく、賢い者となって生きるとは、この貪欲から解放されることです。それは、自分が持っている物、得たものによって人生が決まると言う迷信(思い込み)から解放されることです。それは、私たちの人生を本当に決定づけるものは、私たちのものとして蓄えられる何かではなく、私たちに命を与え、それを終わらせられる神様を知ることによってです。
彼は、神様のことを全く考えずに人生の計画を立てました。それが彼の愚かさであり、貪欲でした。「これと同じである」(21)と言われているのは、この金持ちのことです。
彼は自分のために富を積みましたが、神の前には豊かになりませんでした。では「神の前に富む」とはどういうことでしょうか。神様の前に自分の良い行いを積み上げるのではありません。「神の前に」の元の言葉を直訳すると「神の中へと」「神に向かって」となります。それは神様との関係を意識した言葉です。この金持ちが愚かだったのは善行を積まなかったからではなく、真の神様との関係を確立し、交わりを持って生きようとしなかったからです。
「自分のために富を積んで」も「自分自身へ」という意味です。彼は自分の持っているものによって生きることができると考え、自分自身へと富を積みました。それが彼の貪欲であり、彼の愚かさでした。逆に私たちに本当に必要なのは、神の前に富むこと、つまり神様との交わりの豊かさを求め続けることです。それは私たちが積み上げ、蓄える富(豊かさ)ではなく、神様が、主イエス・キリストによって与えて下さる恵みの豊かさです。神の前に富むとは、主イエスの十字架と復活によって与えられた神様の救いの恵みを信じ、それにあずかって生きることです。そこに貪欲から解放された新しい生き方が生まれます。

結 論)本当に賢い者として生きるとは、主イエスを、自分の生活の必要に答え、便宜を図って下さる裁判人や分配人(調停人)にしてしまう(14)ことではなく、イエス様からのみ言葉をいつもしっかりと受け止めて生きることです。それは、自分の生活を守るために主イエスを利用するのではなく、主イエスによって自分の生活が変えられていくことです。  父なる神様と主イエスとの交わりを通して、私たちは何によって生きるか、何に向かって生きるかについての考え方が根本的に変えられます。それは、自分が持っているもの、蓄えているものによって人生が決定づけられるという思い込みから解放され、私たちに命を与え、それを養い育んで下さる父なる神様と共に生きる者となることです。
神様との交わり、主イエスとの交わりに生きる者は、様々な現実の問題にも落ち着いて、余裕をもって対することができます。ここに出てきた人も、主イエスの言葉を真摯に受け止め、イエス様がどのようなお方かを知り、貪欲や偶像礼拝から解放されれば、裁判の問題にも冷静に、相手のことも思って対処できたことでしょう。
私たちも、神様の前にどう生きるべきかが問われています。父なる神様の恵みによって日々、豊かにされながら歩み続けましょう。

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創世記18章1~15節

「(アブラハムは)神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」       (ローマ人への手紙4章21節 新改訳 )

序 論)アブラハムのもとを訪れた3人の旅人(神様と御使い)には、ソドムゴモラの状況を見て、さばきを決定するという目的がありました。その前にもう一つしておかなければならないことがありました。それは、アブラハムとサラに子どもが生まれることを再び告げることでした。

本 論)1、恵みのみ言葉が告げられる
  アブラハムは前にも神様の約束の言葉を聞いていました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」「あなたの子孫はあのようになるでしょう。」       (創世記15章5節 p.16)   しかし、ところがその後、何年たっても赤ちゃんは生まれません。アブラハムは100歳、妻のサラは90歳になっていました。神様はアブラハムにこのときも、子供の誕生を予告されましたが、アブラハムは疑って笑ってしまいました。 (創世記17章15-17節 p.18)
その後、アブラハムは、訪れた三人を丁寧にもてなしました。食事の後、ひとりの人がアブラハムに言いました。「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう。」(創世記18章10節 p.19)  サラはもう子どもを産むのは不可能な体になっていました。天幕の入り口で聞き耳を立てていた彼女は、「私たち年寄りの夫婦から、子どもが生まれるはずがない」と心の中で笑いました(12節)。
神様は、アブラハムに「主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう。」と以前の約束を繰り返されました(14節)。

2、イサクの誕生
 それから一年後、神様が約束された通りにサラは身ごもり、男の子を産みました。(創世記21章1-2節 p.23)
神様は、人の都合や思い込み、状況に関係なく、必ず約束を成し遂げられるのです。
アブラハムはその子を「イサク」と名づけ、生まれて八日目に割礼を施しました。イサクとは「彼は笑う」という意味です。
「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」(創世記21章7節 新共同訳聖書の訳)
かつてアブラハムもサラも子どもが与えられると約束されたとき、信じることができませんでした。不信仰のゆえに笑いました。しかし、約束が成就した今、その笑いは喜びの笑いに変わりました。二人はもちろん、周りの人々も、喜びの笑いで満ちあふれたことでしょう。その様子をご覧になって神様ご自身も喜ばれたことでしょう。
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。」(創世記12章2節 p.13)という神様からの最初の約束をいただいてから25年後、とうとう一人の息子が与えられました。
約束の実現を待つのは忍耐の要ることです。しかし、神様は決して約束を忘れず、神のときに神の方法で、それを実現して下さいます。

結 論)アブラハムは、「神様にはできないことはない。必ず約束を守ってくださる」という信仰を持ち続けました。 (ローマ人への手紙4章19-22節 p.238)アブラハムも私たちのようにときには迷ったり、疑ったり、不安になるときもあったかもしれません。でも、そんなときも素直に祈って、神様からの励ましをいただいたことでしょう。
「だから、彼は義と認められたのである。」(ローマ4章22節)とは、み言葉を信じ続けたアブラハムの信仰を神様がお喜びになったということです。ですからアブラハムは、「信仰の父」と呼ばれているのです。
「神様にできないことはない。最もよい時に、最もよいものを与えて下さる。」このようなアブラハムの信仰に、私たちも見習っていきましょう。

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ルカによる福音書12章22~34節

「ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」(ルカ12章31-32節 p.110)

序 論)私たちはいろいろなことで思いわずらい、悩みます。個人のことから世界のことまでいろいろなことが心配になり、不安になります。イエス様は、そのような私たちに語りかけ、励まして下さいます。

本 論)1、神様が養い、装って下さる
「からす」(24節)は、私たちにとって悪いイメージを与える鳥ですが、当時もそうでした。旧約聖書には、烏(カラス)が汚れたもののリストの中に入っています。(レビ記11章15節 p149) イエス様が言われたのは、からすを見なさい。みんなから嫌われるカラスでさえ、神が養って下さるではないか、そう言われるのです。
鳥(とり)も野の花も、神様が養い、装って下さっている、だから、私たちの命も体も、神様が養い、装って下さることを知りなさい、と言われます。異邦人、まだ神様を知らない、信じていない人たちは、自分で自分の命と体を養わなければならないと思い、「何を食べようか、何を着ようか」と思い悩んでいます。しかし、私たち(キリスト者)は、私たちに命と体を養い装う食べ物や衣服が必要なことをご存知であり、私たちを愛し、必要なときに必要なものを与えて下さる父なる神様がおられることを知っています。 私たちはイエス様を信じて神様の子とされました。だから父なる神様の愛を信じて、自分の命と体を神様に委ねて安心して生きることができます。父なる神様に祈り、委ねるとき、思いわずらいから解放されるのです。
このようにイエス様は、思いわずらい、目に見える現実にだけ囚われてしまい、狭い範囲しか見られなくなってしまう私たちのために、もっと広い世界に目を向け、そして神様に心を向けなさいと言われます。英国の神学者ジョン・ベイリーは次のような祈りの言葉を記しています。
「どうか、今日、あなたのお造りになった世界を喜ぶ心を私にお与えください。あなたの美しい世界に目を閉じて歩くことがありませんように。商店のにぎわいに気をうばわれて、ひろやかな野や、みどりの木々を忘れることがありませんように。工場や、事務所や、書斎の低い屋根の下にいて、あなたの造られた大空を忘れることがありませんように。」(『朝の祈り、夜の祈り』)

2、父なる神が御国をくださる
「食べ物」や「着物」が表わしている「現実の目に見える世界」だけがすべてではありません。全宇宙と私たち一人ひとりを造られた神様がおられるのです。イエス様は「ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。」(32)と言われます。現実の生活だけで心をいっぱいにするのではなく、父なる神様に心を向け、祈るときを持ちましょう。それを続けていくうちに、自分にとって本当に大切なものは何かということも示されてきます。
さらにイエス様は「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」と言われました。(32節) (「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」新共同訳)
父なる神様が、私たちへの愛によって、喜んで神の国を与えて下さいます。そのために、神様のひとり子イエス様がこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さいました。天の父なる神様が私たちに喜んで神の国を与えて下さることは、主イエスの十字架の死と、さらにその死を打ち破って神様が与えて下さった復活において示されています。私たちは、神様が御子イエス様の十字架の死と復活によって与えて下さった神の国、神様の恵みのご支配を信じて、それをこそ求めて生きるのです。そこに、父なる神様が、私たちの命と体とを養い、装って下さるその愛の中を、思い悩みから解放されて生きる信仰者としての歩みが与えられるのです。
「…天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。」(33)これは施しなどの良い行いをすることによって、その報いによって救いを得ようということではありません。「宝」というのは、私たちが頼りにしているもの、より頼んでいるものです。それをどこに置くかが問われています。それを天にたくわえるとは、神様にこそより頼むことです。
「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(34) この言葉も本当に頼りとしているもの、より頼むものをどこに置いているか、という意味です。人生を養い装うのは、自分自身だ、と思っているならば、その人は自分により頼んでおり、宝を自分に積もうとしており、その心は地上にあって天にはないのです。しかし、神様を知り、信じる人は、父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じ、その神様により頼んでいます。

結 論) まず、御国(神の国)を求めるなら、私たちに必要なすべての物は与えられます。自分たちの心がどこに向いているかによって、現在の生き方が決まることを忘れないようにしましょう。
イエス様を信じ、イエス様と共に天の父に委ねながら歩みましょう。
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。」 (詩篇68篇19節 新改訳聖書)
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 (ペテロの第一の手紙5章7節 新改訳聖書)

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イザヤ書9章1~7節

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、 ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」 (イザヤ書9章6節 p.954)

序 論)イスラエルの国はソロモン王の後に、北王国イスラエルと南王国ユダに分かれました(BC930年頃)。以来周辺の大国からの圧迫に苦しめられ、もともと四国ほどの大きさしかない国が、さらに領土を失っていきます。ついに北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、住民は捕らえ移されてしまいました(BC723年頃)。それゆえ「異邦人のガリラヤ」(1)と呼ばれます。神の民が光を失って暗闇の中にいました。その頃、預言者イザヤは、救い主の到来を語ります。

本 論)1、闇の中に光を見る
かつてイザヤは、希望の光が見えないことに不安や苛立ちを感じ、嘆きの声を上げたことがありました。「もし地をのぞむならば、見よ、暗きと悩みとがあり、光は雲によって暗くなる。」(イザヤ5章30節 p.950) そして8章22節でも暗闇しか見えません。(p.953)
しかし、9章に入ると、預言者を取り巻く状況は変わりませんが、彼の語るメッセージは一変します。神様との交わりを通して、霊的洞察は深められ、彼は光を見ました。
イザヤは「異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。」(1)と預言しました。これは、やがて闇の支配から解放されるとの宣言です。神の救いの光は、暗黒の最も深い所から輝き始めました。
イエス様は、荒野で悪魔の試みにあわれ、それに勝利された後、一度、ガリラヤに退かれました。それは福音宣教をガリラヤから始められるためでした。(マタイ4章12-17節 p.4)  福音書記者のマタイはこれをイザヤの預言の成就だと語ります。
復活された後も、弟子たちにご自分はガリラヤに先に行ってあなたがたを待つと言われます。「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう。」(マタイ26章32節p.44、28章7、10節 p.50)
主イエスがガリラヤの地を大切にされたように、神様は苦しんでいる人々、虐げられている人々をお忘れになることなく,顧みて下さっています。
今の世も、闇のように思えたとしても、私たちが神様とイエス様に心を向け、主のもとに行き、主を求めて行くとき、希望と命の光を見出すことができるのです。

2、救い主のみ姿を見る
長く続く略奪のため、収穫の喜びさえ忘れられていた者たちに刈り入れの喜びが来ると語ります。(3節)4節、5節、6節の冒頭に、原文のヘブル語聖書では、「キィー」という節続詞が繰り返されています。これは「なぜならば」と訳せる言葉です。(英語ではfor)   (4節が3節を説明し、5節が4節を説明し、6節が5節を説明しています。)3節の祝福は、4節の主によるご介入の結果です。主の介入は5節の武器放棄によります。そのようなことは人間の目にはありえないことに思われますが、6節でそれがメシヤ(救い主)誕生によって可能になると告げます。
ひとりのみどりご、ひとりの男の子が私たちのために生まれ、私たちに与えられた、と。預言者イザヤは約700年後にこの地上にお生まれになる救い主の御姿を見たのです。  「まつりごと(政事)はその(救い主)の肩にあり」(6)、このお方が世界を統べ治められるのです。
「霊妙なる議士」「驚くべき指導者(新共同訳)」「不思議な助言者(新改訳)」「Wonderful Counselor ワンダフル・カウンセラー」「驚くべき計画者(という訳もある)」どんなときも、私たちと共にいて下さり、必要なときには相談相手になって下さる方。私たち一人ひとりに対して大きな計画を持たれ、聖霊とみ言葉によって導き手となって下さるお方です。
「永遠(とこしえ)の父」、「父」という語はイスラエルでは王に関しては用いられず、神様に関して語られるときに用いられています。「主は… あなたの父ではないか。」 (申命記32章6節 p.294)   「主よ、あなたはわれわれの父」(イザヤ書63章16節 p.1036)   救い主が、神ご自身であり、永遠にいますお方であることを示しています。  「平和の君」…争いは誰でも始めることができますが、平和をつくりだすことは困難なわざです。しかし、キリストは、十字架と復活によって、神と人との間、人と人との間に「シャローム(平和、平安)」をもたらして下さいます。「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意と言う隔ての中垣を取り除き、…」      (エペソ人への手紙2章14節 p.302)
「ダビデの位に座して」(7)、救い主はダビデの子孫として生まれるという預言です。この通りにイエス様は、ダビデの末裔(まつえい)である、ヨセフの子として誕生されたした。(マタイによる福音書1章1節)

結 論)  万軍の主の熱心、熱愛をもって、父なる神様は私たちを愛され、その御約束通りに救い主を送って下さいました。イスラエルのダビデ王朝の歴史は、約600年でした。(BC1010年~586) しかし、大能の神イエス・キリストは主を信じ従う私たちと共に永遠にいて下さるのです。このように、素晴らしい救い主が御誕生して下さったことを心から感謝してクリスマスを待ち望みましょう。

(先週の礼拝(12/3)特別賛美の曲の日本語の歌詞)
「まじかに主いませば」(バッハ作、中田羽後訳詞)
まじかに 主いませば たにまも おそれじ やみよもなにかは
みかおは わがひか げ     ひとすじ さえぎるかげなし
主の手にあるわが身たのしく やすらかに世を去るをうべし
み手にて 主はささえ さかまく ながれをも こえ行かせたまわん
まじかに 主いませば たにまも おそれじ やみよも なにかは やみよも なにかは

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マタイによる福音書1章18-25節

「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」(マタイ1章21節 p.1)

序 論)マタイ福音書は、イエス・キリストが旧約聖書で預言されていた救い主であり、真の王であることを強調している書です。イエス様はおとめマリヤからお生まれになりました。イエス様がこの地上に来て下さったのは…

本 論)1、私たちを罪から救うため
  「正しい人」であったヨセフは、身重になったマリヤを守るためひそかに離縁しようと決心します(19)。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさら者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」(19新改訳聖書)彼は「心配し」「恐れ」(20 新改訳)ていました。そのとき、主の使いが夢の中で、ヨセフに告げました。
マリヤの胎内に男の子が宿ったのは、聖霊のお働きによることでした。「イエス」という名前は、「主は救い」という意味です。「おのれの民」(19)とは、「ご自分の民」 (新改訳)とも訳されていますが、イスラエル民族のことです。しかし、「神の民」という意味に受け止めると、主イエスを信じる人たちが「神の民」と受け止めることができます。
主イエスは、私たちを、「そのもろもろの罪」から救うために来て下さいました。その名の通り、私たちが受けるべき罪の罰を、十字架の上で一身に受けて下さって、私た ちの身代わりになって死なれました。その死によって、私たちの罪は赦されたのです。 イエス様を、救い主(キリスト)と信じる者は、罪赦され、罪から救われ、新しい人生を歩み始めることができるのです。このようにイエス・キリストは、御使いが告げた通り、その救いのみわざを成就して下さいました。マタイは1章1節で「イエス・キリストの系図」と言い、イエス様はキリストであることを最初から強調しています。御使いの言葉「彼は」(21)は「この方こそ」(新改訳)と訳されています。このお方、イエス様だけが、神の御子、私たちの唯一の救い主です。そして、私たちのことを「わたしの民」と呼んで下さる真の王なのです。

2、私たちと共に生きるため
さらに御使いは、主イエスは「インマヌエル」と呼ばれると告げます。「インマヌエル」という言葉は、このときから約700年前に、イザヤが告げたやがて来られる救い主の名です。(イザヤ書7章14節 p.952)
「インマヌエル」は、「神われらと共にいます(神はわたしたちと共におられる)」という意味です。
十字架にかかられ、三日後に復活されたイエス様は、弟子たちに向って「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28章20節 p.50)と「インマヌエル」を約束して下さいました。十字架にかかり、復活されたイエス様を信じ、心に受け入れる私たちの内に主イエスは聖霊によって生きて下さいます。私たちは、地上の生涯においても、
新聖歌84番 4節の歌詞
「ああベツレヘムの 聖き御子よ
今しもわれらに 降り給え
心をきよめ 宮となして
今よりときわに 住まい給え」
2000年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになった御子イエス様は、信じる私たちの内に住んで下さり、心をきよめ、私たちを「神の宮」として下さいます。そしてときわ(永遠)に共に生きて下さるのです。

結 論)  ヨセフは御使いの言葉を信じ、マリヤを妻として「迎え入れ」(20 新共同訳)ました。それは、聖霊によって「おとめマリヤより生まれ」たイエス様を迎え入れることでもありました。マリヤを迎えたことはヨセフにとっても後に大きな祝福となります。父親となったヨセフにとっても、たとえ幼子であってもイエス様はキリストなのです。
 「ダビデの子ヨセフ」(20)がイエス様を迎え入れたことにより、イエス様もダビデの直系となられ「ダビデの子」と呼ばれるようになりました。
クリスマスを待ち望むこのとき、私たちもイエス様を心にお迎えし、主の恵みへの感謝を新たにいたしましょう。そしてもっともっと多くの人たちが、イエス様を知り、信じることができますように、と祈りながらこのアドベントのときを過ごしましょう。

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マタイによる福音書2章1-12節

「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。」 (マタイ2章10-11節 p.2)

序 論)マタイ福音書2章の前半は、イエス様の御誕生後しばらくしてバビロンの辺り(現在のイラク地域)から星占いをする学者(博士)たちがエルサレムに来たことが述べられています。彼らは…

本 論)1、「ユダヤ人の王」を求めた
「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。…」(2)と博士たちは問いました。当時、ユダヤの地を支配していたヘロデ王はその言葉を聞いて不安を感じます。「ユダヤ人の王」は、やがてユダヤの国にお生まれになる救い主のことを意味していました。
ヘロデは、政治的手腕はありましたが、純粋なユダヤ人ではなく、王位が奪われるのを極度に恐れていました。それで後に、幼子イエス様の命を奪おうとします。
また旧約聖書に精通していた、律法学者たちは、救い主がお生まれになる地がベツレヘムであることを知っていましたが(4~6節)(旧約聖書 ミカ書5章2節 p.1288)、 救い主を捜そうとはしませんでした。
しかし、博士たちは、星に導かれて、1000キロメートル以上離れた東方の地から、救い主にお会いしたい、拝したいと願ってユダヤの地までやって来ました。ドイツの神学者シュライアマッハー(1768-1834)は、「この星は私たちすべての心の中にある神への深いあこがれを表している、私たちをも真の王に出合わさせてくださる星だ」と言っています。
私たちも、出会った人や、本や映画や、いろいろなことを通して、聖書の言葉に触れ、イエス様とお会いすることができました。それらは私たちにとって「メシヤへの星、導きの星」です。神様は、今も私たち一人ひとりに人生の様々な出来事を通して働きかけられ、私たちを主イエスのもとに導いて下さるのです。

2、イエス様を礼拝し、贈り物をささげた
  博士たちは、エルサレムで示された「ベツレヘム預言」に従い、出かけました。すると星が再び現れ、先立って進み、彼らを幼子のいる場所に導きます。彼らはついにその目的地に着きました。
そこで、彼らは幼子イエス様の前にひざをかがめて,礼拝しました。自分たちの真の王、救い主の前にひれ伏したのです。そして、自分たちの最も大事にしていたものをささげました(10-11節)。
彼らが求めていたのは、自分の希望や理想を実現することではありませんでした。それは、自分が本当にひれ伏して、そのお方に身をささげる、そういうお方を見出すことでした。彼らはそのお方に出会い、自分を本当に正しく治め、導き、守り、支えて下さる王の前にひざをかがめることができました。
そして、そのことこそ、私たちに本当の喜びを与えるのです。私たちが喜びをもってこの人生を歩み、暗闇の中でも光を仰いで生きる力は、この喜びから来るのです。この後、幼子イエス様は、成長され、30歳のときから公に宣教活動を始められました。しかし、ユダヤにおいて力を握っていた、王や祭司長や律法学者たちは、「ユダヤ人の王」を恐れ続け、神の救いを拒み、ついには、イエス様を十字架に追いやりました。 本来は、やがて来られる救い主を意味する「ユダヤ人の王」という言葉が、後にイエス様を尋問したり、侮辱したりするときに用いられる言葉になってしまいます。(後に総督ピラトが、イエス様に対して「あなたがユダヤ人の王であるのか」と尋問した。 マタイ27章11節p.47)  (ローマの兵士が「ユダヤ人の王、ばんざい」と侮辱する。  マタイ27章29節 p.48)  (「これはユダヤ人の王イエス」の十字架の上に掲げられた罪状書き  マタイ27章37節)
イエス様が十字架にかかられたのは、王や宗教指導者総督ピラトやローマの兵士たちの言動に現わされた彼らの罪、私たちのすべての罪の罰を身代わりに背負って、死なれ、その罪を赦し、罪から救うためでした。
十字架にかかられ、三日後に復活されたイエス様は、私たちの永遠の救い主です。イエス様と真にお出会いした私たちは、イエス様をもう「ユダヤ人の王」とは呼びません。イエス様を信じ、心に受け入れ、人格的な交わりを持つ者は、イエス様を「神の御子、救い主」と告白するのです。そして、イエス様を礼拝する者とされます。

結 論) 聖書は「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。」(10節)と語ります。本当にひれ伏し、礼拝すべき方のもとへと導かれるとき、私たちは本当の喜びに生きることができるのです。私たちは、真の王、救い主イエス様にお会いし、主を礼拝し、賛美するとき、心が満たされます。
イエス様に向って、「イエス様、どうぞ、私の心の中にもお入りください。私ではなく、あなたが私の王となり、私の心を治めてください。」と祈り、求めていくとき、私たちも永遠の王であるお方に、人生の旅路の中で、必ずお会いすることができるのです。  クリスマスは、「キリスト礼拝」という意味です。主イエス様を共に礼拝し、賛美する喜びをもって、このクリスマスのときを過ごしましょう。そして、主イエス様と共に生きていきましょう。

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創世記12章1-9節

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」          (創世記12章1-2節  p.13)

序 論)カルデヤ(現在のイラク)のウルに住んでいたアブラハム(最初の名はアブラム)、神様の導きに従ってカナンの地(イスラエル)に移り住みました。主の言葉には「国を出て、親族に分かれ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」という命令と「あなたを祝福する」という約束が組になっています。アブラムは主の約束を信じて、命令にそのまま従います。アブラムは…

本 論)1、真の神に信頼して
 「父の家を離れる」とは、目に見える財産に頼らないで、主の言葉だけに従うことです。アブラムはウルの町にとどまっていれば、不自由なく暮らすことができたでしょう。 しかし、アブラムが求めたのは、目に見える財産を受け継ぐことではなく、神様から祝福されることでした。実際アブラムは、移住したカナンの地で生涯家を建てることなく、 天幕住まいでした。地上の宝ではなく、「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していた」 (へブル人への手紙11章10節 新共同訳)からです。
アブラムに続いてこの後に創世記に記されているイサクやヤコブ、ヨセフもそれぞれ、父の遺産ではなく神の祝福を求めて主に従いました。
私たちも、聖書を通して、神の言葉に触れ、教会に導かれ、真の神様がおられること、御子イエス様のことを知りました。アブラムのように移住することはなくても、かつて偶像(真の神様以外の神々)を拝んだり支配されていた者が、真の神様を信じる者へと変えられたのです。罪の世界から離れ、御国を目指して歩む者とされました。
アブラムは自分の願いや考えではなく、ただ主の導きに従いました。カルデヤ地方は豊かな土地で、その当時、世界の最先端を行く文明・文化の地です。それに比べれば当時のカナンの地は辺境で、人口も少ない所でした。それもアブラムは「カナンの地」と初めから示されたのではなく、「行く先を知らないで出て行った」(へブル人への手紙11章8節 p.355)のです。どこに導かれるかが問題ではなく、「わたしが示す地」(1)であれば、どこでも従ったのがアブラムの信仰でした。
私たちにとっても、主が示される地とは、その地が経済的に豊かであるか、住むのに楽かどうかよりも、主が共におられるところであり、やがて帰るべき天の御国への途上にあると確信できるところです。聖書に出て来る信仰者たちは、主が共にいて下さることを、何よりの祝福と受け取り、地上では「旅人であり寄留者」であることを自ら言い表し、「天にあるふるさと」を熱望していました。(へブル人への手紙11章13-16節 p.355)

2、祭壇を築いて、主の名を呼んだ
 アブラムは、カナンへの移住後も何度か住む所を変えますが、いつも祭壇を築き礼拝をささげました(7)。「祭壇」は礼拝の場であり、「主の名を呼ぶ」は、主を礼拝する、
神様に祈ることを意味しています。
この礼拝の姿から教えられるのは、「祝福されたから礼拝する」のではなく、「約束を信じて礼拝する」「神様が神様であられるがゆえに礼拝する」ということです。「あなたを大いなる国民とする」(2)と言われてもこの後、アブラムに与えられる正統な子どもはただ一人(イサク)であり、一つの民族(イスラエル民族)が生み出されるまでには数百年かかりました。またキリストの御降誕まではさらに数百年の年月が必要でした。アブラムは「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する信仰」を持って歩んだのです。(へブル人への手紙11章1節p.354)
また、祭壇を築くのは、主の臨在が確かであり、神様を第一とし、礼拝をささげる姿です。「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」(ヨエル書2章32節 p.1264ローマ人への手紙10章13節 p.246 に引用されている。) 主からの祝福の約束はアブラムから始まりました。「祝福の基となる」(2)の原文は単純に「あなたは祝福となる」です。アブラムに与えられる祝福が他の人々にも及んでいくのです。 「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます。」(7)この「子孫」は単数形で、単数の意味にも、複数の意味にも用いられます。これはアブラムの子孫でもあるユダヤ人を指していますが、究極的にはイエス・キリストを指し示しています。
「さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫とに」と言っている。これは、キリストのことである。 」 (ガラテヤ人への手紙3章16節 p.296)
「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(3) これは後に、キリストを信じるすべての者が義と認められ、神様の祝福が及ぶことをあらかじめ示された言葉です。  「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。」 (ガラテヤ人への手紙3章8節 p.295)

結 論)イエス様を通して、父なる神様は私たちを愛し、祝福したいと願っておられる「愛と祝福の神」であることが示されました。
 アブラムが祭壇を築いた場所は偶像礼拝が行われていたところでした。まことの神様をまだ知らないこの世は、自分の利益ばかり求めている罪の世界です。神様がアブラムを愛し、祝福するためにこの世から呼び出して下さったように、神様は今も私たち一人ひとりの名を呼ばれ、イエス・キリストを通して「あなたを祝福する」と約束して下さっています。
様々な偶像に惑わされず、主イエスを信じ、真の神様に信頼して、祝福に満たされた生涯を歩んでいきましょう。

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イザヤ書7章1~17節

「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」              (イザヤ書7章14節 p.951)

序 論)北イスラエルの王ペカが、スリヤという異邦人の国と同盟を結んで、南ユダ王国に攻め寄せて来ました(BC733年頃、歴代誌下28章p.636参照)。このとき、ユダは滅亡を免れましたが、同盟の知らせに「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺」しました(2)。このとき主は預言者イザヤに、息子を伴ってアハズ王に会見することを命じられました。イザヤが伝えたことは…

本 論)1、神様を信頼すること
「上の池の水道の端でアハズに会い」(3)とあるように、アハズ王は長期戦になることを予想し、水場を視察していました。ここに水やもろもろのことを案じていながら、神様を頼りにすることに思い至らないアハズ王の姿が示されています。イザヤは王に主の言葉を伝えます。「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。」(4)  神様に信頼してより頼みなさい、と。 さらにスリヤも、北イスラエルも間もなく滅びる、彼らは、「二つの燃え残りのくすぶっている切り株」(4)に過ぎないとイザヤは告げます。そして、王レヂンと王ペカの計画が、人の計画であって神の計画ではないが故に実現しないことを語ります(7)。 この預言の通り、スリヤの首都ダマスコは間もなく滅びました(BC732年)。北イスラエルの都サマリヤも10年後(BC722年)に陥落していました。 地上のどのような強大な者も、神の御手の中(掌中)にあります。それゆえに、現状が人間の目にどれほど、悲観的絶望的に見えても、神様はその現状を切り開き、変えることができるお方です。
歴史を支配される神様を信じきることがアハズに求められました。「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない。」(9) このイザヤの言葉は、今日の私たちに対しても語られています。 アハズのように人間的な策をあれこれ練るだけではいけません。「人事を尽くして天命を待つ」のでもありません。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46篇10節 p.788) まず神様に祈り求めてましょう。その後に、私たちの成すべきことを精一杯成してまいりましょう。

2、インマヌエルの約束
イザヤの警告にも関わらず、アハズは、スリヤと北イスラエルが最も恐れていた強国アッシリヤに助けを求めました。しかし、それは、ユダ王国の将来を破滅に導く決定的な原因となってしまったのです。 主は、聞き入れないアハズに再びイザヤを遣わされました(10)。ここに、一度語って悔い改めない者に「再び」語りかけられる忍耐と愛に満ちた神様のみ姿が表わされています。
「主に一つのしるしを求めよ。」(10)とイザヤはアハズに向かって語ります。しかし、彼が示した答えは「わたしはそれを求めて主を試みることはいたしません。」でした。(12)  アハズ王と家来たちは、自分たちの政治的な企てを隠すための口実としてこのような敬虔さを装ったのです。それは偽りの敬虔さでした。
イザヤは、この背信のアハズ王とその側近たちに向かって「あなたがたは人を煩わすことを小さいこととし、またわが神をも煩わそうとするのか。」(13)とその激しい憤りをあらわにしました。そして、しるしを求めないアハズに向かって、主が自ら彼らにしるしを与えられると告げ、インマヌエル預言をしました。(14) さらに困窮の時代が来、「アッシリヤの王」がスリヤとイスラエルの「二人の王」よりも危険な存在であることとダビデの家にもたらされるさばきが告げられます (15-17)。
しかし、神様が与えられたインマヌエルの約束はユダヤの民にとって希望の言葉として残りました。
「インマヌエル」(神、我らと共にいます)は、このときから約700年後、イエス・キリストの来臨によって実現しました。イエス様は、インマヌエルの神として私たちに救いをもたらして下さいました。特にマタイによる福音書では「インマヌエル」が主題として貫かれています。マタイによる福音書1章で、主の使いがヨセフに救い主誕生を告げた後、これが預言の成就であるとして1章23節 (p.1)にイザヤ書7章14節が引用されています。
主イエスは弟子たちに「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」と約束して下さいました(マタイによる福音書18章18-19節 p.29)
そして十字架にかかられ、復活されたイエス様は、弟子たちに「インマヌエル」を約束して下さいました。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイによる福音書28章20節 p.50)

結 論) 主イエスの御降誕、そして主の十字架と復活によって、救いのみわざが成し遂げられたとき、インマヌエル預言と約束は成就されました。
「インマヌエル(主がわたしたちと共にいてくださる)」こそが私たちに与えられる最大の恵みなのです。アドベントのとき、インマヌエルの恵みをさらに覚え、感謝し、クリスマスに備えるときといたしましょう。

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