マタイによる福音書28章16~20節

わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。               マタイ28章18-20節 (p.50) 

序 論)
復活されたイエス様は、ガリラヤで弟子たちに会われました。そして、弟子たちに山に行くように命じられました。主イエスは…

本 論)

1.私たちにも近づいて来て下さる
よみがえられたイエス様の御姿を見て、拝した彼らの中に疑う者もいました(17)。「疑う」の元の言葉には、「二つの方向に進む」という意味があります。復活されたお方に出会うというのが、余りにも不思議な体験で半信半疑の弟子たちもいたということかもしれません。あるいはこの場に他の弟子たちもいて、彼らが疑ったのかもしれません。
しかし、イエス様は、疑う者も含めて彼らに近づいて来て下さいました。(18) 私たちも信仰の弱さを覚えるとき、主イエスが遠くに感じるときがあります。けれども、そのようなときこそ主イエスは最も近づいて来て下さいます。弟子のトマスも、かつて主の復活を疑いました。でも、主イエスはトマスに近づかれて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきに差し入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネによる福音書20章27節p.177)と言われました。
私たちも、ときに疑うことがあっても、さらに聖書のみ言葉を求め、礼拝し、神様に自分の心を正直に打ち明けて祈りましょう。イエス様は、み言葉を通して語りかけて下さり、私たちの信仰を強めて下さいます。そしてイエス様は、私たちの恐れを取り除き、さらに主のみ言葉に心を向ける者へと変えて下さいます。

2. 私たちと共におられる
「天においても地においても、一切の権威」を父なる神様から授けられたイエス様は「それゆえに」宣教を命令されます。その権威は神の御子としての権威であるだけでなく、十字架によって、罪と死と悪魔に勝利されたことによって父なる神様から与えられた二重の権威です。この権威の及ばないところはどこにもありません。それがたとえ地の果てであっても、日本の国であっても、主の権威の下にある場所であることを覚えましょう。
「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(19-20)
この言葉の中心となる動詞は原文では「弟子とする」です。私たちは、洗礼を受け、聖書の教えを知り、行うことによって、キリストの弟子となり、成長し、イエス様に似た者へと変えられていきます。
かつて洗礼は、バプテスマのヨハネがヨルダン川で授けていました。しかし、イエス様は、今、ここで新たにヨハネのバプテスマとは違う、「父、子、聖霊の御名による」 洗礼を授けることを命じておられます。すなわち、洗礼によって私たちは三位一体の神との交わりの中に入れられるのです。
そしてイエス様は「いつもあなたがたと共にいる」と約束して天に昇られました。  インマヌエルの神(マタイ1章23節 p.2 )(マタイ16章19-20節 p.28)である、イエス様が今も聖霊によって私たちと共におられます。
そして、ここでの臨在の約束は、私たち一人ひとりに与えられている約束であると同時に、特に宣教する教会に向けられている約束でもあります。主イエスは、教会(私たち) と共にいて下さいます。そして教会の喜びや苦しみはイエス様の喜びや苦しみでもあります。他の誰でもなく弱い不完全な私たちと共に宣教することをイエス様は選んで下さったのです。

結 論)イエス様が死んで復活され、世の終わりまでいつも共にいてくださることを信じ、心に覚えるとき、私たちの心と生活が守られ、新たな力が与えられます。
主イエスはいつでも、どんな場所でも共にいて私たちを励まし、悔い改めに導いて下さいます。そして、新たに立ち上がらせて下さるのです。
イエス様は宣教においても私たちを用いて下さり、共に行って下さいます。共におられる主イエスから勇気と力をいただいてそれぞれの場所に新たに遣わされてまいりましょう。

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マタイによる福音書27章45~56節

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。                     マタイ27章46節 (p.48)

 

序 論)ローマ総督ピラトは、イエス様に何の罪もないことがわかっていました。それで人々の前でイエス様を釈放しようとします。しかし、イエス様をねたみ憎んでいた宗教指導者たちに扇動された群衆が「十字架につけよ」とますます激しく叫び、今にも大騒ぎになりそうでした。それでイエス様を十字架につけるためにローマの兵卒たちに引き渡してしまいます。(マタイ27章15-26節 p.47)
主イエスの十字架によって成されたことは…

本 論)

1 私たちの身代わりとなられ神様から見捨てられた
イエス様が十字架にかけられて、昼の十二時頃、突然、太陽の光が陰り、あたり一面が真っ暗になってしまいました。(45) これは父なる神様とイエス様の交わりが断たれたこと、断絶のしるしです。また、神無き世界の暗さ、罪深さを示しています。
これまでの覚悟を忘れて逃げ去った弟子たち、証拠もないのにイエス様に不利な証言を次々と重ねる人たち、イエス様が無実であることを知りながら十字架刑を許したローマ総督ピラト、皆自分の立場を守ることに精一杯でした。彼らは正しいことに目をつぶって、周りに流される方を選んでしまいました。
またイエス様のことを嘲(あざけ)って、つばをかけたり頬を打ったり、いばらの冠をかぶせた兵士たち、そして十字架につけられたイエス様を見てののしり続けた人たち、 それぞれの自分勝手な期待を押し付けたり、弱い者を嘲って自分が何者かであるようにふるまう者たちでした。そしてこれらの人々の姿に私たちの自己中心、自己保身に走ってしまう姿が表われています。
イエス様は、十字架につかれてからもこれらの人間の身勝手な振る舞いをご覧になり、心を傷つける言葉を聞かれました。しかし、沈黙を通されました。やがてイエス様の 口から出たのが、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と天の父なる神様に叫ぶ言葉でした。これはエゴイズム (自己中心)の罪のために本来なら神様に捨てられなければならない、私たち人間を代表しての叫びでした。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩篇22篇の最初の部分の言葉です。この叫びは、本来は痛みや苦しみの中で失望し、落胆し、神様に救いを求めている私たちの叫び です。イエス様は、私たちの身代わりとなるために、罪人と同じ立場に身を置き、私たちが神様に見捨てられなければならないところを代わりに見捨てられて下さいました。
主イエスが叫んで下さったこの祈りの言葉「どうして…」という問いの答えは「わたしのため」なのです。(「わたしの罪のため」、「わたしの身代わりとなるため」…)

2 罪の赦しと回復への道が開かれた
イエス様は最後に大声で「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」叫ばれ、息を引き取られました。(ルカ23章46節 p.132) そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けました(51)。神殿の垂れ幕とは、神殿の至聖所に至る隔ての幕です。そこには、選ばれた大祭司だけが一年に一度入ることが出来る幕です。最も聖なる神の臨在を表す、至聖所への幕、神の臨在に触れるためには供え物の動物の血を携えなければ入ることのできない幕です。それが、十字架の上でキリストの血が流されきったときに、人の手ではなく、神様の手によって、上から下に真二つに裂けました。それはイエス様が贖い(救いのみわざ)の使命を完了され、生ける神の臨在の前に罪ある人間が赦されて立つことのできる道が、このときに天より開かれたことを示しています。
イエス様はどんなに嘲られても、ののしられても、十字架から降りることも、死から逃れることもなさいませんでした。このときは天からの声も助けもありませんでした。 人間の目には、弱さと敗北のどん底での死をイエス様は迎えられました。しかし、百卒長(百人隊長)や、イエス様の見張りをしていた人たち、つまり一連の出来事とイエス様の御姿を最後まで、見続けた人たちが、「まことに、この人は神の子であった」と告白しました。(54)   彼らは、今まで自分たちが考えてきた救いとは違う、本当の救い、神からの救いを感じ、今まで当たり前と思い流されてきた自己中心の世界とは全く違う世界があることをイエス様の姿を通して見たのです。
私たちはイエス様のどの御姿を見て、信仰を言い表すでしょうか。イエス様の素晴らしい言葉やみわざを通しても、もちろん神の子、救い主の御姿を見ることができます。日々の生活の中で、目に見える具体的な祝福を受けることも感謝であり、喜びです。しかし、絶望に捕らわれているときや、愛する者を失うとき、十字架にかかられたイエス様を通して、他にはない神の救いを得ることができるのです。

結 論)イエス様は虐げられ、苦しみの中で、何の抵抗もされず、ただ神様の前に祈り、叫ばれながら十字架の上で死なれました。しかし、イエス様が息を引き取られたその時に地震が起こり、幕が開きました。これは、絶望のどん底と思えるようなところにも、希望の光が大きく差し込んでことを示しています。イエス様が私たちの身代わりに神様から見捨てられ、絶望を体験し、復活して下さったので、私たちはもう絶望しなくてよいのです。主を信じ、希望をもって新しい道を踏み出すことができるのです。
イエス様が私の罪の身代わりとなって十字架の上で死んで下さったことを信じ、感謝して受け入れましょう。神様のあわれみと救いの御手にいつも守られて、希望のある幸いな歩みをなしてまいりましょう。

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マタイによる福音書26章36~46節

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください。」         (マタイ26章39節 p.45 )

序 論)イエス様は弟子たちといっしょに、それまでよく祈りをしておられたゲツセマネという園に行かれます。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちだけを連れてさらに奥に進まれます。さらにご自分だけ少し離れた所に行かれ、うつぶせになって祈り始められました。主イエスは…

1 苦しみと霊的戦いの中で祈られた
「悲しみを催しまた悩みはじめられた」(35)イエス様はペテロら三人に、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。…」(36)と言われました。
主イエスの悲しみと悩みは、十字架の苦しみと死がいよいよ目前に迫ってきたことによるものでした。悲しみのあまり死ぬほど、それは深い絶望です。イエス様はそういう 悲しみを味われました。
そしてその悲しみの中で主イエスはペテロたちに、「ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい。」と言われました。弟子たちに、一緒にいて私を支えてほしいと頼んでおられます。それは、後で「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい。」(41)と言われたように、主イエスと共に目を覚まして祈ること、それがイエス様にとって支えとなり助けとなります。それを主イエスは願われました。
イエス様の祈りの言葉の中の「この杯」は、これから起ころうとしている受難、十字架の死のことです。できることでしたら十字架につけられなくてもよいように、他に道があるのでしたら死ななくてもよいようにして下さいと切に祈られました。
なぜ、主イエスはそのように祈られたのでしょうか。それは主が、これから起こる十字架の出来事がどのようなものであるかをよく知っておられたからです。全人類の罪を 一身に負い、世の罪を取り除く神の小羊として十字架にかけられるのです。その結果、今まで父なる神様との交わりの断絶を経験されたことのない、お方が、神の怒りを受け、捨てられ、断たれるからです。それは、他の誰も味わったことのない苦しみでした。
初代教会のキリスト者(クリスチャン)たちは必要とあらば喜んで殉教の死を遂げました。しかし、イエス様は何の罪もないにも関らず、罪人の中の罪人として、十字架の上でさばかれ、苦しみもだえ、死んで下さったのです。
このように、イエス様が死を恐れられたのは、勇気の欠乏によるのではなく、十字架の苦痛の特別な意味をよく知るっておられたからでした。そのために、苦しみもだえ、 血のしたたりのように大粒の汗を流して、切々と祈られたのです。(ルカによる福音書22章44節 p.129)
しかし、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」(40)と続いて祈られます。これは直訳すると「わたしの意志するようにではなく、あなたが意志されるように」となります。わたしの意志、願いは この杯を去らせて下さること、十字架の死を免れることです。しかし、私の意志をではなく、あなたのご意志を行って下さい、そしてわたしがそれに従うことができるようにして下さい、と主イエスは祈られたのです。この祈りは、十字架の道を行かせまいとする、悪魔との激烈な霊の戦いの祈りでもありました。

2 神のみこころに従われた
ゲツセマネの祈りは、イエス様ご自身が、霊の戦いを祈りにおいて戦われたことを示しています。主イエスの二度目の祈りの言葉、「…、どうかみこころが行われますように。」(42)は、イエス様が、この戦いにおいて悲しみと恐れを乗り越えて、父なる神様のみ心(ご意志)に従って歩む信仰を貫かれたことを示しています。「あなたのみこころが行われますように」という祈りは、この後のイエス様の十字架の死への歩みの全てを支える祈りでした。
弟子たちが祈りを失い、眠り込んでしまっている中で、主イエスは祈りの戦いを戦い抜かれ、勝利されました。弟子たちはイエス様のために何の力にもなれませんでした。イエス様はただお一人で、戦い抜かれたのです。
「見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。…」(45-46)。
この後、イエス様を捕らえ、十字架につけた宗教指導者たちは、「自分たちが勝った」と思ったことでしょう。
しかし、実は、そうではなく、罪人らの手に渡されることによって、イエス様は悪魔に対する完全な勝利をされたのです。この後の主の十字架、復活によって、神様の救いのご計画は成就しました。 この戦いは私たちのためでした。イエス様が、父なる神様のみ心に従って、十字架の死への道を歩み通して下さったことによって、私たちの罪が赦され、罪の支配から解放されて神様の恵みの下で新しく生きることができるようになった のです。

 結 論)私たちの祈りは、神様に自分の思いや願いを投げ かけているだけのことが多いのではないでしょうか。そのような「願う祈り」、「願い求める祈り」も大切です。 しかし、ときには神様のみ心、ご意志はどこにあるのかを求める祈り、それに従って行こうとする祈りが必要なときがあります。
神様のみ心、ご意志を求めていくときに、それが自分の願いや思いと違うことに気づかされるときがあります。そのとき、神様のみ心に従っていくかが問われます。
主イエスがゲツセマネで祈り抜かれ、神様のみ心に従われたとき、全人類の救いの道が開かれました。
私たちも、神様のみ心に従うとき、その時はわからなくても、後に大きな世界が開れたり、道が開かれたとき、あのとき、み心と信じて、従ってよかった。み心に従うことが神様の恵み、大きな祝福の道だったのだと気づかされます。これからも行くべき道や選択に迷ったときも、神様のみ心を求めて祈ってまいりましょう。
最も大切なこのときに眠り込んでしまった弟子たちと同じように、主イエスと共に目覚めていることができず、すぐに祈りをやめたり、眠り込んでしまう私たちです。でも、イエス様は、今も私たちのために天においてとりなしの祈りをしておられます。そして私たちの内なる聖霊も、うめきつつ、私たちと共に祈って下さっています。      (ローマ人への手紙8章26節 p.243)
私たちは、主イエスの祈りの姿にならい、主の恵みに支えられて、祈りの生活を続けます。

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ルカによる福音書14章7~14節

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」               (ルカ14章11節 p.114 )

序 論)あるパリサイ人が安息日にイエス様を食事に招きました。主イエスを訴える口実を得るためでした。でも、主は彼らを恐れず、水腫をわずらっていた人をあわれんでいやされました。そしてその家にいた人たちに譬(たとえ)を語られました。彼らに伝えようとされたことは…

1 自分を低くする者となるように
食事に招待された人々が、できるだけ上席に着こうとしている様子を主イエスはご覧になりました。律法学者やパリサイ人たち(3)はいつも人々から「先生」と呼ばれて尊敬を受け、招待されればいつも上席(上座)に案内されていました。だから自分は上席に着く者だという感覚が身についていたのでしょう。
イエス様が語られたこの婚宴に招かれた人のたとえ、の中心は何でしょう。それは上座よりも末座に着く方がよい、ということではありません。その中心は、上座についた者は後で末座の方に移動させられ、末座についた者は後で上座に移動させられる、という箇所(9-10)です。そのことによって、イエス様が語ろうとしておられるのは、「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(11)ということです。新共同訳聖書では、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と訳されています。自分を高くする者(高ぶる者)とは、神様に対し、自分でお返しができる、自分の中にも、神様に貢献することができるものがあると思っている人です。逆に自分を低くする者(へりくだる者)とは、神様の恵みをただで受けるだけで何のお返しもできない、神様に貢献するようなものは何も持っていない、という人です。神様は、高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお与えになるお方です。(ペテロへの第一の手紙5章5節p.371)
「高ぶる」、「へりくだる」というのは、人間同士の比較によって、自分の方が上だと思って誇るとか、自分は駄目だという劣等感によって卑屈になる、ということではありません。イエス様はそのような人間同士の比較ではなく、まことの主人である神様が、どのような者をご自身の宴会の席に招いて下さるのか、ということにこそ、目を向けなさいと教えておられます。神様が招き、救いにあずからせて下さるのは、私は、自分の力でやっていけるし、神様のために何かをすることができると自負している人ではなく、私は、自分の力ではとうていやっていけない、神様のために何かをすることなどとてもできない、と思っている人です。

2 神様は「貧しい人」をこそ招かれる
次にイエス様は、自分たちを招いた人、パリサイ派の人に向って言われます(12-14)。これは人を宴会へと招くときの話しです。これも、11節の言葉と関連付けて語られています。「友人、兄弟、親族、金持ちの隣り人など」、これらの人が「自分を高くする者」です。「貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人など」、これらの人が「自分を低くする者」です。そして両者の違いは「お返し」ができるか、できないかです。宴会に招かれたら、今度は自分の方も宴会を催してその人を招待する、そのようにお返しができる人と、貧しくて宴会を催すことなどとてもできず、お返しをすることのでできない人が対比されています。そして、その貧しくてお返しのできない人をこそ招きなさい、と教えられています。そうすることによって、「正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」(14)と言われます。これは、この世の終わりにおける神様の裁きのときに、という意味です。(ここでは正しい人への報いを強調しておられるので、「正しくない者」の裁きへの復活を否定しておられるわけではありません。ヨハネによる福音書5章29節 p.144使徒行伝24章15節 p.225   参照)
報いて下さるのは神様です。つまり、このように貧しい人を招くことを、神様は喜んで下さいます。神様がそのことを喜んで下さるのは、神様がそのようなお方だからです。父なる神様の神の国への招き、救いはこのたとえの宴会への招きのようなものです。神様は、お返しができる者をではなく、お返しなどできない、ただ恵みを受けることしかできない者をこそ、招き、救いにあずからせて下さるのです。これが、「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と言われる言葉の意味です。

 結 論)神様は、「自分を低くする人」、「へりくだる人」と共にいて下さり、命を得させて下さいます。自分を低くする人は、自分の罪を認め、悔い改め、罪や罪のもたらす苦しみからの救いも、自分の力では得ることができないことを神様から示され、そのことを悟った人 です。このことを知っていることが、「へりくだり」です。
主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って、十字架にかかり死んで下さいました。そのことを信じ、主イエスを信じ、受け入れる者を、神様は神の国に入れて下さり、宴会の席に着かせて下さいます。神様は、十字架にかかられ、復活されたイエス様のもとに来るようにと、神の国の宴会の席へと今日も私たちを招いて下さっています。

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ルカによる福音書14章1~6節

「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
 (ルカ14章5節 p.113 )

序 論)あるパリサイ人が安息日にイエス様を食事に招きました。「…様子をうかがっていた」(1)とあるように、招かれていた人々は、主イエスのことを疑いの目で見つめ監視していました。主イエスのなさったことと言われたことは…

1 癒しのわざをなさった
そこに水腫をわずらっている人がいました。これは体液が体にたまってむくみができる循環器系の病気です。当時のある宗教指導者たちはこのような病を本人の不道徳の結果とみなしていました。パリサイ派の人たちは潔癖であることを重んじていましたから、食事の席にこのような人を招くことはほとんどなかったでしょう。
しかし、このとき彼がイエス様の「みまえにいた(真正面にいた 新改訳)」(2)のは、「律法学者やパリサイ人たち」(3)の裏工作でした。彼らはイエス様が、安息日に病を癒すというわざ、つまり仕事をするのかどうか、それを試すためにこの病気の人を呼んでイエス様の目の前に立たせたのです。そして、それをもとに主イエスを訴える口実を得ようとしていました。
このように人と親しくなるはずの食事の席で、隣人であるはずの病気の人を主イエスを陥れるために利用し、軽んじるようなことが行われていたのです
イエス様は彼らの意図を全部見抜いておられました。そしてこのような隣人への愛を失っていたパリサイ派の人たちの態度に対して、イエス様は言われます。「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」(3)
この問いに対して彼らは黙っていました。そしてイエス様は、その答えも待たずに彼を癒されました。癒しが終わるとイエス様は、この人をお帰しになられました。(4)  律法の中心である「十戒」の安息日規定は出エジプト記20章8-11節(p.102)に記されています。「安息」は「落ち着き先」、「目的地」の意味も含まれた言葉です。そして安息日は「主の安息」(出エジプト記20章10節)ですから、天地を創造された神を礼拝し、神を愛し、隣人を愛することを実践する日です。
当時のパリサイ人や律法学者たちは、細かい規則に捕らわれ、律法の最も大切な、「神を愛し、隣人を愛する」という「愛」を見失っていました。イエス様は、その最も大切なことを教えようとされたのです。

2 主イエスが「安息日の主」
病気の人を癒された後、主はこう言われます。「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(5)自分の息子が井戸に落ちたときには「安息日が終わるまで待って」などと言う親はいません。またそのようなとき命を救うことを優先するのは律法においても認められていました。病気で苦しんでいる人を癒すことはそれと同じではないかと言われたのです。それを、「病気を癒すことは仕事だから安息日にしてはならない」などと彼らが言うのは、安息日の本来の意味や目的を全く理解していない本末転倒になっていました。この場にいたパリサイ人たちにとっては、水腫を患っていた人の痛みを感じることなどなかったのではないでしょうか。しかし、イエス様は、この人の痛みを「自分の」ことであると言われました。目の前にいる病人の苦しみと痛みを「自分の」子どもや家畜が井戸に落ちたようなものだと言われるのです。
私たちも人の痛みを「自分の」痛みとして覚えることができるのかが問われています。少しでも相手に寄り添ってお話を聞き、祈りに覚えたいと思います。そのように祈りをするときに、私たちが心に刻まなければならないことはイエス様がこの人の痛みを自分の痛みとして覚えて下さったことです。
イエス様は、この病の人の痛みをご自分の痛みとして癒しをして下さったように、私たちの痛みも覚えて下さり、私たちの最も良き隣人になって下さるのです。その愛をあなたたちの目の前にいる気の毒な病人になぜ注げないのか、あなたがたにとって「安息日」は一体、どういう日なのか、そのようなイエス様の鋭い問いに、「彼らはこれに対して返す言葉がなかった」(6)のです。
彼らはこのときは沈黙していましたが、このときの殺意を後に実行に移し、イエス様を十字架にかけてしまいます。しかし、そのような復讐を受けながら、彼らの罪を赦して ください、とイエス様は十字架の上で父なる神様に祈られました。(ルカ23章34節 .131)  父なる神様は十字架の上で死なれたイエス様を三日後に復活させられました。
それが週の初めの日(日曜日)の朝だったので、イエス様を信じる人たちは、安息日(土曜日)ではなく、日曜日にイエス様の復活を記念し、父なる神様を礼拝するようになり ました。

結 論) イエス様は「人の子は安息日にもまた主なのである。」と言われました(マルコによる福音書2章28節p.54)イエス様の十字架と復活によって私たちは罪赦され、罪の泥沼から引き上げられました。罪から救われ、罪赦された私たちにとっての安息日、「主の日」の中心はイエス・キリストです。イエス・キリストを通して神様を礼拝するとき、私たちそれぞれが、イエス様の真正面に立っています。
私たちは、主の日に、安息(心身の癒し)が与えられ、 食事(聖餐の恵み)にあずかります。そして、教会の交わりや愛餐は神の国の雛形(ひながた)(モデル)なのです。 そのような恵みをいただいて新たな一週間の歩みをなしてまいりましょう。

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使徒行伝16章25~34節

それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。      (使徒16章30-31節 p.210 )

 

序 論)使徒16章は、パウロの第二回伝道旅行の記録です。11節からの後半部は、ヨーロッパでの最初の伝道地ピリピにおいて救われた人々の姿が告げられています。
あるとき悪霊につかれていた若い女性(女奴隷)はパウロの権威ある言葉によって悪霊から解放されました。でも このことがきっかけで、パウロとシラスは捕らえられ、投獄されます。獄中でパウロたちは…

1 神様を賛美した
パウロとシラスが鞭打たれ、足かせをはめられ、暗い牢獄の奥に捕らえられると言う不当な苦しみの中で、彼らは神様を賛美する、賛美の歌を歌っていました。それは神様をほめたたえる歌です。そして祈っていました(25節)。苦しみ、悲しみの中で「神様、この苦しみから救い出して下さい」と必死に祈ることは私たちにもあります。しかし、賛美の歌と共になされていたこの祈りは、そういう悲壮な祈りとは違います。賛美の歌を歌いつつ祈っている彼らの姿に、不思議な平安を感じます。この平安は彼らの内にのみあったのではなく、牢獄にいたすべての人々にも伝わっていったのです。「囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」(25)とあるように、パウロとシラスの賛美の歌声と祈りは、他の囚人たちの心をとらえ、静かに聞き入らせる力を持っていました。これらの賛美と祈り、そこにある平安と明るさを与えて下さっているのは、聖霊によって共にいて下さる主イエスです。私たちは、共にいて下さる主イエスに委ねて生きる者とされるとき、苦しみの中でも、賛美し、祈ることができます。

2 信仰の勧めをし、洗礼を授けた
囚人たちがパウロの賛美に聞き入っていたとき、突然、大地震が起こりました。牢の土台が揺れ動き、戸はみな開き、囚人たちをつないでいた鎖もすべて外れてしまいました。けれども囚人たちは誰一人そこを動こうとしませんでした。彼らは逃げ出すよりも、パウロとシラスのもとに留まっていたいと思ったのでしょう。パウロらの賛美と祈りは、彼らの心をそれほどに深く捕らえ、彼らにも平安と希望の光をもたらしたのです。そのときこの獄の獄吏(看守)は囚人たちが逃げてしまったと思い、絶望の内に自殺しかけたのです。パウロは、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる。」(28)と声をかけました。この獄吏はパウロとシラスの前にひれ伏し、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と尋ねました。二人は、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」 と告げました。私たちが救われるために必要なのは、主イエスを信じることです。私たちのために十字架にかかって死んで下さり復活して下さった主イエス・キリストこそ、まことの主救い主であり、神の御子であることを信じて、イエス様に自分の人生を委ねることです。救いとは、苦しみがなくなることでも、命が助かることでもありません。救いとは、本当に身を献げ委ねるに足るまことの主人を見出すことです。このお方のもとでなら、本当に生き生きと喜びをもって仕えることができる、苦しみの中にあっても賛美し、祈ることができる、そのような真の主であるイエス・キリストとお出会いし、身を委ねることが救いです。

結 論)「そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」主イエスによる救いは、信じる私たちだけに与えられるのではなく、私たちの家族にも及んでいきます。
   主イエスを信じ、身を委ねるとは、自分の一番大切なものを委ねることです。そこには愛する妻や夫、子供、家族も含まれています。家族との関係という大切なものも
主イエスに委ねるのです。この獄吏がしたのは、まさにそのことです。彼はパウロたちを自分の家に招き、自分と家族の者たち全部が、パウロらの語る神の言を聞くときを、真夜中であるにも関わらず持ちました。そのことによって、彼と家族の者たちが皆、洗礼を受け、主イエス・キリストの救いにあずかる者となったのです。今も、神様は、一人ひとりに働きかけておられます。私たちにもパウロとシラスのように、思いがけない出会いや思いがけない救いの出来事を体験させていただきましょう。より多くの方々が、イエス様のことを知り、イエス様を信じて救いの恵みにあずかることができるように、私たちも賛美し、祈り、主にある喜びに生かされ、主と教会に仕えてまいりましょう。

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ルカによる福音書13章18~29節

すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。 (ルカ13章23-24節 p.112 )

序 論)イエス様が安息日に一人の女性の病を癒された後、「神の国のたとえ」を語られました(18-20)。「一粒のからし種」や「パン種」は、福音の言葉の力、聖霊の力を表しています。たとえ小さく見えてもそれは大きくなり実を結ぶのです。さらにエルサレムの途上で出会った人たちに語られたことは…

1 狭い戸口から入るように
「狭い戸口」(24)は「狭い門」(新改訳)とも訳されています。罪から救われる救いの戸口という意味です。当時のユダヤ人は律法を守って行いによって罪から救われ、赦されると思っていました。
イエス様は、彼らに自分たちが神の選民だと考え、神の教えを聞き行おうとするだけで神の国に入れるのではないことを教えられました。ユダヤ人への厳しい警告です。
「努めなさい」の「努める」は競技用語で、全力を傾けて戦うことです。「狭い戸口から救いという家に入るよう努めなさい」と言われます。
狭い戸口とは、自分が罪ある者であることに気づき、自分の力で律法を守ることができない、自分で自分を罪から救うことができないことを認めることです。
私たちは、自分の努力で何とかなると思いがちです。でも、その家(救い)に入れて頂かねばどうにもならない自分であることに気づくこと(認罪)が救いの第一歩です。そして、それに気づく人は少ないとイエス様は言われました。そして、このときイエス様は、私たちの罪を背負って十字架におかかりになるためにエルサレムに向っておられまました。そして、十字架にかかって三日後に復活され、私たちを罪から救い、天の御国に迎える道を開いて下さいました。このとき「狭い戸口」と言われた「救いの扉」は十字架と復活によって誰にも開かれたのです。自分が罪ある者であると認め、イエス様が私の罪の罰を背負って、身代わりに十字架にかかって下さったことを信じて、受け入れるとき罪から救われるのです。このときは「狭い戸口」であった「救いの扉」は今、誰にでも開かれています。

2 「宴会をする家」のたとえ
この家(神の国)の主人(イエス様)は救いの戸を開けて人々を招いておられます。あるとき主人は家の戸を閉めました。これは、いつか主人(イエス様)が戸を閉ざされるときが来ることを示しています(25)。
これは、地上で生きている間に「救いの戸」が開かれ自分が招かれていることを覚えて、神様に心を向け、救い主を求めていきなさい、救いの戸口から入るように熱心に求めることを勧めておられます。
また12章以来、読んできた文脈から考えると、これは再びキリストが来られる(再臨される)までの時間が限られていることをも示しています。26節の「あなた」も主イエスのことです。イエス様のことを知ってはいたけれど、私の救い主として求め、信じなかった人たちは裁かれています。逆に「アブラハム、イサク、ヤコブ」は、神の国の宴会の席についています。彼らは主なる神様の呼びかけに答えて旅立ちました。(創世記12章1-4節 p.13) 先行きどうなるか分からない中で、神様に示される道を、主と共に歩んで行きました。彼らは、主なる神様と共に歩むという狭い戸口から入ったのです。「預言者たち」も神様のみ言葉を受け、それによって生き、それを人々に伝えた人たちです。
「悪事を働く者」(27)とは神様の招きに応えようとしないことです。神の国に入ることができないのは、罪を犯した人ではなくて神様の招きの御心を無視して、せっかく開かれている戸口から入ろうとしなかった人、あるいは入るチャンスを失い、そのうちに戸が閉められてしまった人々です。
神の国への招きはすべての人々に与えられています。しかし、イスラエルの人々はなかなかこの招きに応えようとせず、むしろ後から招かれた異邦人たちの方が先にそれに応えて狭い戸口から神の国に入っているということが起こっています(29-30)。神様の招きに応えるかどうかは私たちの決断に委ねられています。それゆえにこのように後の者が先になり、先の者が後になることが起こるのです。

結 論) 神様は、罪のない清く正しい人を招いておられるのではありません。むしろ深い罪を負い、それによって生じる様々な問題をかかえ、苦しみや悲しみ、嘆きの中にいる私たちを招いておられます。そして独り子イエス・キリストの十字架の死によってその罪を赦し、主イエスの復活にあずかる新しい命、永遠の命の約束を与えようとしておられるのです。
罪人である私たちを招いて下さるために、主イエスは十字架の死という最も深い苦しみの戸口を通られ、天に上げられ、そのことによって私たちが神の国に入るための戸口を開いて下さったのです。
私たちも、神様の招きに応えて、主イエスが開いて下さったこの戸口を通って、救いにあずかりましょう。その戸口を通って救いの恵みにあずかった者は、主イエス・キリストが共にいて下さる信仰の旅路を歩むことができるのです。主は今日も、今も招いておられます。

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ルカによる福音書13章10~17節

イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。              (ルカ13章12-13節 p.112 )

序 論)イエス様が安息日にある会堂で教えておられたときのことです。その会堂に「そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女」(11)がいました。主イエスは彼女を癒され、その後に安息日について語られました。今回の箇所から示されることは…

1 解放の宣言
    「病気の霊につかれ」(11)は当時の原因不明、治療不能の難病であることを表しています。この人は「会堂」にいました。神を礼拝するためにそこにいたのです。けれども腰に病を抱えていました。礼拝に行くのも、そこから帰るのも、不自由を感じていたことでしょう。あるいは神を賛美するときに、腰が曲がったままで賛美するのにも支障があったかもしれません。ときには心までもが萎えてしまい、神を賛美する気持ちにもなれないときがあったかもしれません。「イエスはこの女を見て、呼びよせ」(12)とあるように、主イエスの方からこの 女性に目を留め、癒しをなさいます。主は、彼女のこれまでの長い苦しみを思い、憐れまれて、助けられました。その御手を彼女の上に置かれる前に、イエス様は「女よ、あなたの病気はなおった」と仰いました。このみ言葉は直訳すると「婦人よ、あなたはあなたの病気から解放された」となります。
この病から解放された女性の姿は、罪から救われ、解放された私たちの姿を示しています。私たちは、かつては心がまっすぐに真の神様に向わず、様々な偶像や罪に支配されていたものでした。聖書で言う、罪とは「不法」や「的はずれ」という意味が含まれています。
聖書は、罪に支配され、心が神様に向わない人間の姿を「狂った弓のようにねじれた」(新改訳では「たるんだ弓の矢のように、それて行った」)(詩篇78篇57節 p.818)と表現しています。弓が自分の力でまっすぐになれないように、私たちも自分の力で罪から抜け出すことはできません。そのような、私たちに神様は御手を伸ばされ、主イエス様を与えて下さいました。
イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様が主イエスを復活させて下さったことによって、私たちは罪と死の支配から解放される道が開かれたのです。
ここ(11節)での「病気」は「弱さ、無力さ」という意味でもあります。この主イエスの宣言は「あなたは、あなたを捕えている弱さ、無力さから、それによる悩み苦しみから解放された」という意味でもあるのです。私たちも聖書のみ言葉を通して、主の言葉に触れ、主イエスのなされたみわざを知ります。イエス様を信じる者は罪から救われ、主は私たちの上にも御手を置いて下さり、「あなたの罪は赦された」と解放の宣言をして下さいます。私たちはその解放の恵みにあずかるのです。

2 解放の恵みに共にあずかる日
     病が癒された婦人は、喜びをもって神様をたたえ始めました(12)。しかし、主イエスによる解放のみわざを見た会堂司は腹を立てました。群衆に言った言葉は、主イエスを批判する言葉でもあります(14)。主イエスは、彼に答えられます(15)。安息日であっても、つないでいる牛やろばを解いて水を飲ませることはする。それなのに18年間も病の霊に縛られていたこの人  (「アブラハムの娘」はユダヤ民族の同胞の意)をその束縛 から解き、解放してやるのは当然ではないか、と。
この会堂司は、律法を形式的、外面的に守ることによって、自分の正しさを主張し、人を批判し、思いやりの心を失った偽善者になっていました。主イエスはその偽善の罪を指摘されたのです。
主イエスは、ここで会堂司をやり込めることが第一の目的ではなく何よりも安息日の本当の意味、それを定められた神様の御心は何なのかを明らかにしようとしておられました。
安息日について語られている旧約聖書の申命記5章12~15節 p.255-256)に「こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない」(14)とあるように、安息日に仕事を休むのは、自分の下で働かされていたしもべたち、そして牛やろばなどの家畜にも休みを与えるためです。
そして、安息日は、神様によって与えられたエジプトでの奴隷状態からの解放を記念し、感謝し、なお捕われの中にある人々にその解放の恵みを分け与え、共にその恵みにあずかる日です。
安息日に家畜を解いてやって水を飲ませるのもそのためです。ですからこの女性を長い年月に及ぶ苦しみから解放することは安息日にしてもよいどころか、安息日にこそふさわしいことなのです。このように主イエスはここで、安息日が神様による解放の恵みを記念するための日であることを教えておられます。

結 論)私たちにとっての安息日は、主イエスの十字架と復活によって実現した罪と死の支配から解放されたことを記念する主の日、日曜日です。
この主の日に、私たちは礼拝に集い、聖書のみ言葉を通して主イエスの成して下さった救いのみわざ、私たちの罪からの解放の宣言を聞きます。
神が私たちをあらゆる束縛から解放してくださったことを、自分一人だけでなく、みんなで喜び祝い、賛美をするそれが、教会です。一人の方がイエス様を信じるて救われる神のみわざが起こされ、それを教会全体で喜ぶ。賛美の声があがる。これが安息日の大きな喜びです。そして安息日は神の御業に心を留め、隣人と共にその御業を喜び祝う日なのです。さらに多くの方々とこの恵みに共にあずからせていただきましょう。

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コリント人への手紙第二3章6~18節

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」      (コリントⅡ3章18節 p.281)

序 論)「キリスト者の完全」を生きる私たちは、ますますキリストに似た者に変えられ、キリストに似た愛の人にされていきます。この午後は、そのための聖めの生活の実践面を聴くことにしましょう。

本 論)
1 自分の体験を他の人と比べないこと
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12章9節)とあります。主は私たちそれぞれに、そうでなくてはならない体験を与えてくださっています。他の人の体験を無理に自分に当てはめようとしたり、自分の体験を誇ったり、卑下したりしてはなりません。

2 キチンと悩むこと
主は「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と語られました。聖めに生きる人は、聖霊によって悩みをすりぬけていく人ではありません。「これでよいのだろうか」と悩みながら、主に従う人です。そんな私たちを通して主は栄光を表してくださいます。

3 教会は愛の温泉リハビリ病院
私たちは罪によって傷つき病んでいます。自分の罪だけではありません。他の人の罪の結果によっても、自分では気がつかない深いところで痛んでいるのです。聖めはそんな傷や病の癒しです。主は「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(Ⅰペテロ2章24節)とあります。二つの治療が必要です。

a)み言葉温泉に浸り続ける
神さまからの愛のみ言葉の湯治が必要です。私たちの傷は深いので、毎日自分でも読み、毎週礼拝で聴いて湯治を続けることが必要です。

b)教会の仲間で愛のリハビリを受け合う
人間関係の中で受けた傷は、人間関係の中でいやされていきます。私たちには苦手な人、自分をいじめるように見える人がいます。けれども、実際はすべての人は「助けて!」と叫んでいます。嫌いな人の「助けて!」を聴き取り、自分も「助けて!」と率直に言うことが最高のリハビリです。教会は安心して学べる「愛の学校」であり、安心して失敗できる「愛の実験室」でもあります。

4.今いる場所へ派遣される
聖めの生活は、大伝道者や大聖人になることではありません。ただ、今目の前にいる人のところに遣わされていくことです。家族や職場・学校・地域にです。そこで地道に愛を与えて生きることが、神さまと共に世界の回復に向かって働くことなのです。

5.祈りのうちに毎朝、献身する
私たちの祈りは自分や家族の健康・必要・祝福に集中しがちです。けれどもその後で、主が祈られたように「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14章36節)」と祈ることにしましょう。そうして毎朝、神と仲間を選び取るのです。 

結 論) 栄光から栄光へ
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」(ピリピ3章17節)。主イエスの十字架と復活によって、私たちは罪と死の力から解き放たれました。その自由を、私たちは愛するために用います。そして死を超えて、栄光から栄光へと主に似た者に変えられていくのです。

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ピリピ人への手紙3章1~14節

「すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」   (ピリピ書3章13-14節 p.311)

序 論)「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5章48節)や「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(へブル12章14節)を読むとき、私たちの心は動揺します。今朝は聖書の全体から、「キリスト者の完全」あるいは「聖化」と呼ばれる恵みを味わいましょう。

本 論)
1 聖書は神の愛の物語
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」(創世記1章28節)と言って、神は私たちを造られました。神は私たちと愛し合うことを願われたのでした。けれども、その願いは破れてしまいました。
神さまはただちに「女のすえ」(創世記3章15節)から救い主を誕生させることを約束してくださり、アブラハムを通してそのご計画を始めてくださいました。御子イエスの十字架と復活です。愛の回復がその目的です。私たちのために御子を与える愛は「神の狂おしいほどの愛」と呼ばれます。そんな愛によって、私たちは神の子とされました。主イエスは律法の成就のために来られました。律法の二つの中心は、「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6章5節)と「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」(レビ19章18節)。やはり神さまの願いはいつも愛なのです。

2 愛することに失敗する私たち
神の子とされた私たちは、心から神と人を愛してたいと願っています。ところが現実には日々愛することに失敗してしまいます。行いにおける完全に達することができないのです。それを否定するなら偽善になります。反対に何が何でも達成しようとするなら、いつまでも安心して神さまの愛を楽しむことができません。
パウロも「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したい」(ピリピ3章10-11節)と願いながら「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく」(12節)と告白しています。

結 論) 愛をあきらめない神さま
それでは、地上における「完全」あるいは「全き聖化」は存在しないのでしょうか。神さまは愛をあきらめてしまわれたのでしょうか。もちろんそうではありません。「前のものに向かってからだを伸ばしつつ(エペクタシス)」(13節)がカギになる言葉です。鶴が思い切り首を伸ばして飛ぶように、これ以上愛することができない限界まで愛するなら、そこに姿勢の完全があります。今日の自分に可能な限り神と人を愛することが、キリスト者の完全なのです。ですから、

1)あなたは完全です。
 キリスト者の完全は、神さまと人を「いま、ここで」自分の存在をあげて愛することです。現在の自分に可能な愛を注ぐならあなたは「キリスト者の完全」を生きているのです。
2)完全は成長し続けます。
  私たちのキリストにあるいのちは成長します。昨日の100%は今日の90%かもしれません。これを完全に向かいつつある完全(perfecting perfection)と呼びます。ですから昨日の自分に満足することは完全を失うことなのです。
3)悔い改めはキリスト者の完全の、正常な一部分です。
 私たちは力を尽くしてもなお、過ちや罪から逃れることができません。その度ごとに、悔い改めて赦され、回復していただくならば、キリスト者の完全は保たれていきます。

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